◆ 今はいったい何時頃だろうか。 カーテンの隙間から入り込む陽の光が眩しい。 そういえば、昨日はいつもセットしている目覚まし時計のアラームを解除していなかったような気がする。土曜日の休日まで目覚まし時計に起こされたくはない綾人は、頭上にある目覚まし時計のアラームを解除しようと手を伸ばした。 しかし、伸ばした手の先には目覚まし時計はなく、綾人の手は空を掴むばかりだ。 「あれ? ない?」 綾人は顔をしかめ、そこでようやくゆっくりと目を開ける。するとタイミングよく、部屋のドアが開く音がした。 「おはよう、よく眠れた?」 綾人に掛けられたその声は低いもので、母親ではない。しかし父親のものでもなかった。けれどもその声の主はよく知っている。 「えっ? 凌雅?」 (まさか!) 驚いて勢いよく目を開けると、そこには綾人の想い人が立っているではないか。 綾人は凌雅の姿を見るなりベッドから飛び起きた。そうすると、身体に巻き付いていた毛布がはらりと落ちる。自分が何も着ていない事に気がついた。その肌には、真新しい赤い愛撫の痕が残っている。 綾人は慌ててふたたび毛布を身体に巻きつけた。見回せば、そこはたしかに見慣れた自分の部屋ではない。部屋にはダブルベッドとクローゼットの他には何も見当たらなかった。 「えっ、あれ? 本当に凌雅? でもなんで僕は裸なの? しかもここ、どこ?」 疑問ばかりが綾人を襲う。 「俺の別荘。昨日言ったじゃん。別荘に行こうって」 「えっ?」 綾人の問いに、しかし目の前にいる凌雅は当然のように答えた。それはまるで、『明日の天気は晴れなのかな?』『うん、晴れだよ』のようなあっさりした言い方だ。 もちろん、凌雅に恋心を持っている綾人にとって、彼の別荘に来ること自体が大事件だ。そもそも、自分はなぜ、凌雅の別荘に来ることになったのか。 たしか夢の中で彼に抱かれた時、そう言われた気はしたが、しかしそれは現実ではない……はずだ。 なにせ彼と両想いになるのは夢のまた夢だ。女性にモテる彼が、男の自分を好きになるはずがないのだから……。 「……いつの間に?」 いったいいつ、自分はこの場所に連れてこられたのだろう。夢と現実がどうも混乱している。凌雅のひと言ひと言が、綾人の思考を追い詰める。 「俺んとこの執事は優秀だから、ホテルまで俺の車で迎えに来てくれたんだよ。でもって、執事を家に帰らせ、俺がその車を運転して寝ている綾人を連れてきた。ともちろん、ホテルを出た時は服はきちんと着せたから問題ない」 二人きりになってから服を脱がせた、だから安心しろ。凌雅はにっこり微笑み、そう続けた。 「……服、着せたのになんでここに来てからも脱がされるの?」 「んなの、俺が付けたキスマークが可愛い綾人の身体に乗っているのをゆっくり見るために決まってるだろ?」 「……キスマークってなに? ……しかも、ホテルってなにっ?」 凌雅の口からいかがわしい単語がいくつも出てくる。尋ねる綾人の声が裏返った。 『ホテル』という言葉で思い出すのは、凌雅に無理矢理抱かれたその夜、例のバーで適当に引っかけた男とホテルに行く時、急に好きな人以外に組み敷かれるのが恐くなって拒んだことと、そこで凌雅が助けに来てくれたこと――。 『キスマーク』で思い出すのは両想いになって、凌雅に抱かれたことだ……。 しかしこれらは綾人の勝手な妄想で、現実ではない、はずだ。 それなのに、凌雅は綾人の妄想を現実に起こったことのように話す。 眉間に刻まれた皺が深くなる一方だ。 「お前、昨夜のこと、ほんとにただの夢だと思ってんの? 高校ん時からボケっとしたところはあったけど、まさかここまでだったとは……。そこがまた放っておけないってのはあったんだよな。目が離せなかった……思い返せばそれが恋だったんだよな……」 綾人の隣に腰を下ろした凌雅は、色素の薄い髪に触れた。 「こいっ?」 またもや綾人の声が裏返る。 「そ、恋。だけどもういい加減自覚してくんない? どんなに好きって言っても綾人はそれを夢だと言い張って聞かなかったもんな。……っていうかお前のおばさん、俺を信用しすぎ……一緒に住んでもいいかと聞いてみたら、すんなり了承した」 「……なんて言って説得したの?」 綾人はもはや凌雅の言っている言葉の意味がわからない。それでもどこかに矛盾があるはずだと、凌雅の話を聞き逃すことなく耳を傾け、尋ねてみる。 「大学帰りにほっつき歩いている綾人を見つけたって連絡した」 「そしたら?」 「俺の別荘が大学の近くにあるから、綾人と一緒に別荘をシェアしたいって言った。そうしたらお前の母親、なんて言ったと思う? 『綾人が最近門限を破るようになって困っているから、ついでに監視もしてくれ』ってさ。その代わり、綾人はよく家事の手伝いをしてくれているから、料理もできるって。コキ使ってくれてかまわないって、おばさん言ってたぞ?」 「…………」 そういえば、綾人の家に凌雅を連れて来た時があった。綾人の母はしっかりものの凌雅をとても気に入っていた。彼が自分の息子ならと、凌雅と顔を合わせるその度に毎回口癖のよう言っていたのを思い出す。 しかし、いくら綾人の両親が了承しても、凌雅の両親はどうだろう。自分と一緒に暮らすという提案を簡単に呑むはずがない。 「それで? 凌雅のご両親はなんて言ったの?」 綾人は眉間に皺を寄せながら凌雅に尋ねる。 「俺の両親は綾人を気に入ってるんだ。お前も俺の家に何回か遊びに来たことがあっただろう? 今どきの子供には珍しい礼儀正しい子だって、綾人をべた褒め。俺はお前とは違って料理もそこまでできねぇし、家も留主にしがちだから食事も執事たちにまかせきりだし、一緒に住んでくれるんだったらそれに越したことはないって両手放しで喜んでた」 たしかに、高校時代、凌雅と仲良くなった頃から、綾人は下心を隠して勉強という名目で頻繁に彼の家に遊びに行ったのを覚えている。 目元が凌雅とそっくりな威厳がある父親と、優しそうだけれど凜とした母親。それが綾人が彼らに対する第一印象だった。 けれども凌雅の両親が自分のことを思ってくれていたというのは初耳だ。なにせ凌雅の両親は滅多に家にはいなくて、あまり話したことがない。 果たして本当に自分は凌雅と一緒に住めるのだろうか。 「……信じられない」 どう考えても話がすんなりいきすぎだ。自分はまだ夢を見ているのではないか。 綾人は力いっぱい頬を抓ると……。 「いひゃい」 頬に鈍痛がした。 おかげでもしかしたら、これは夢ではないのかもしれないと思いはじめる。 「何をしてるんだか……」 今まで頭を撫でていた彼の手が、綾人のひりつく頬を撫でる。 「だって、夢だったら嫌だから……違うのかな? 本当に夢じゃない?」 これがもし、夢ではないとしたら……。 自分は凌雅の隣にいることを許されたとしたら……。 目頭が熱を持ち、涙が込み上げてくる。 「そこで泣くのか……」 「だって……も、嬉しくて、夢みたいで……」 綾人はとうとう嗚咽を漏らし、泣いてしまう。 「凌雅、好き……」 「はいはい、俺も好きだよ」 綾人が凌雅にしがみつき泣けば、彼は綾人の背中を撫で、優しく宥める。 「凌雅、凌雅……」 綾人は広い背中に両腕を巻きつけ、ひたすら甘えた。 どんなに渇望しても味わうことがないと思っていた凌雅との生活が始まるのはもうまもなくのことだ。 ―fin―