◆ ――眠れない。 鈴虫やコオロギも鳴いている少し肌寒い夜。 暑苦しい季節は過ぎ、過ごしやすい秋を迎えた。 眠るにはうってつけの気温だし、虫の音が心地いい。 それなのに……。僕は眠れない日々を送っている。 いや、眠ることはそれなりにできる。 だけど眠りが浅いっていうか――。 僕の耳にはずっと虫の音が聞こえている。 これってものすごく眠りが浅いっていうことだ。 さっきまで目をつむって、うつら、うつら、としていたにも関わらず、僕の頭はもう覚醒してしまっている。 ふと、頭上に置いているめざまし時計を見る。 ……ああ、まだ一時になったばかりだ。 たしかベッドに入ったのが深夜十二時ちょうど。 まだ一時間しか経っていない。明日も学校がある。 早く眠らなければ!! そう思えば思うほど、僕の思いとは裏腹に、頭はよけいに冴えてくる。 『心臓に近い方を下にして、横向きに寝れば眠りやすくなる』 『足の間に柔らかいクッションを挟んで眠るのも安心できて安眠の効果がある』 「…………」 たしか健康番組でなんとかの専門家がそう言っていたっけ......。 そのことを思い出し、僕は寝返りをうって布団の切れ端を太腿に挟んでみる。 多少、寝やすくなったかもしれないけど、結果は同じ。シーツは少し冷えているくらいでやっぱり眠気はやって来ない。 僕は海里。 青空学園高校に通う二年。家族は父さんと母さん、自分を入れて三人。 父さんと母さんは共働きをしているけれど、それはみんなの家でもしていることだ。 夫婦仲は喧嘩もないし、いい方だと思う。 僕の成績は悪くもないし良くもない。まあまあって感じかな。 容姿は黒縁メガネに襟足まで届くか届かないかくらいのクセがない黒髪。 まあ、ちょっと今どきの高校生っていう風貌(ふうぼう)じゃないかもしれないけれど、それも別に気にする程度じゃないし、至って普通だろう。 顔は……そうだな。 眠れなくなってから、ちょっと肌の色が青白っぽくなったかもしれない。 やや大きめの目の下には、そこまでじゃないけれどクマがある。 一昨日、かな。数少ない友達に指摘されてしまった。 別段、大きな悩みを抱えているわけでもない。 あるとすれば、意味もなく眠れなくなってしまうこの神経質な自分だ。 ――あと、ちょっと人と話すのが苦手で、人ごみも苦手。 友達と呼べる相手はひとりしかいない。 俗に言う引っ込み思案だけどイジメられてはないから、学校生活もそこそこうまくやっていると思う。 それなのに......。 いつの間にか、眠れない日々を送ることが多くなっていた。 昔からそういう傾向はあったんだけど、今ほどじゃなかった。 前はもう少し眠れていたと思う。 今は、どういうわけか眠り方を忘れてしまっているっていう感じだ。 ……それにしても……。 今日はいつもよりずっとひどい。 いつもなら二時間は眠れるはずなのに、今日の睡眠はまだ一時間しか取っていない。これは眠りが浅すぎる。 ――どうしよう。 どうしよう、どうしよう……。 焦れば焦るほど眠りがどんどん遠ざかっていく――。 きっと焦るのがよくないんだ。 だったらどうすれば焦らなくなる? こうして考えている間にも、秒針は時を刻んでいく。 焦りを消せないまましばらく考えていると、薄暗闇の中に長四角で白いものが目の端に写った。 CDコンポだ。 そうだ。気分転換に音楽でもかけてみよう。もしかすると、焦る気持ちは少し消えるかもしれない。 僕は手を伸ばし、右隣に置いているCDコンポの電源をオンにしてFMのチューナーを適当に押す。 暗闇の中で光る画面はいくつもの数字を羅列していく――......。 すると、チューナーはピッていう高い電子音を短く発して画面の数字を止めた。 スピーカーから流れてきた音楽はとてもゆったりしている。 ジャズ......かな? サックスとピアノの柔らかな音がスピーカーから流れはじめた。 『リスナーのみなさん、ミュージックランの時間です。先週から休みに入ってしまったパーソナリティーの代わりで今日も臨時パーソナリティーを務めさせていただきますアラタです。よろしく〜』 ラジオ番組は今ちょうど始まったばかりみたいだ。 響きがいいステレオの音源と一緒に二十代くらいの若い男の人の声がした。 『夜はだいぶん過ごしやすくなりました。秋の夜長はまだはじまったばかり。今日もしっとり楽しくいきましょう』 司会を務めるパーソナリティーの声の調子は明るいのに、なぜだろう。 バックに流れているジャズと同じで、すごくしっとりしていて、とても落ち着く。 僕はさっきの焦りも忘れて、静かに布団にもぐり込んだ。 そうしたら……あれ? あれれ? まぶたが……少しずつ、落ちていく……。 その夜、僕はFMをつけたまま、うつ伏せになって、意識を手放した。 次に意識が戻ったのは、遠くから何かを話している人の声と一緒に、心地いい小鳥の鳴き声が僕の耳に届いた時だった。 しめきっているカーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。 外はとても明るかった。 頭上にある時計を見れば、時刻は午前七時。 どこからか聞こえる音の方を見ると、CDコンポの電源がつけっぱなしになっていた。 そこで気がついたのは、ラジオをつけっぱなしで眠ったっていうことだ。 うそっ! 信じられない!! ここ最近、それも毎日、眠りが浅い日が続いていたっていうのに六時間も眠れたなんて!! しかも、いつも雑音があればすぐに目覚めてしまうのに、それもなかった。 僕は眠れたことが嬉しくなって、気持ちよくベッドから飛び起きた。 いつもより足取りは軽い。 嬉しくてそのことを母さんに言ったら、とても安心してくれた。 その日から、もっぱらFMのラジオ番組が子守唄になった。 眠る前にラジオをつけてベッドに入る。 だけどラジオ番組っていってもアラタっていうパーソナリティーじゃないといけないらしい。 他のラジオ番組でもいくらか試してみたけれど、やっぱり眠れなかった。 あのしっとりとした低い声が僕にはちょうどいいらしい。 これで睡眠できないっていう問題は見事解決した。――んだけど……問題はまた浮上する。 だって、アラタさんは臨時で雇われたパーソナリティーだ。以前からパーソナリティーをしていた人はなんでも風邪をこじらせたらしく、声が出ないらしい。 それで代わりにアラタさんが入っているんだって。 ――っていうことは、いつか近いうちにパーソナリティーは元に戻ってしまうということで......。 ということは、近いうち、僕の安眠はまた遠のいていくんだ......。 だけど残念に思うのはそれだけじゃなくって、アラタさんの声をもう聞けないっていうこと。 だったら、少しでも僕っていう人物がいたことを知ってほしい。 そう考えると、僕はいてもたってもいられなくなった。 ――アラタさんの声で眠れるようになったこと。 ――引っ込み思案な僕が勇気を出して手紙を書いたっていうこと。 そんなどうでもいいことまで文章にしてアラタさんのファンとして手紙を出した。 いつもの僕なら手紙なんて書かない。だけどアラタさんは別。 熟睡できなかった僕にとって、彼は救世主みたいなもので、しかもいなくなってしまうっていうのが僕を動かす引き金になったんだ。 そうしてアラタさんは、もう一週間ラジオ番組のパーソナリティーを務め、元のパーソナリティーと代わってラジオ番組からいなくなった。 僕は……っていうと、また熟睡できない日々を送っている。 アラタさんを知る前と同じ生活が続いている。 ――いや、前と同じじゃない。 気持ちが違うんだ。 なんていうんだろう。 心にぽっかりと穴があいた感じ? 胸がスースーするっていうか、どこか寂しい感じがしていた。 ……このまま一生、ろくに眠ることができず、死ぬまでずっとこんな調子なんだろうって半ば諦めかけていた。 だけどそれは違った。 『別れがあれば出会いもある』 何かの歌詞でもあった歌い文句。 まさかそれが本当になるとは思いもしなかった。