◆ 紺色に染まった雲ひとつない澄んだ空には、淡く輝く満月がぽっかりと浮かんでいる。 澄みきった夜の空気を吸い込んで空気中に吐き出せば、真っ白い息がもわっと広がり、跡形もなく消えていく……。 ひんやりするこの寒空は嫌いではない。 俺、咲輝は、この寒空の下、藍色のパジャマの上に赤のパーカーを着てベランダに立ち、家々から漏れる明かりを見つめていた。 窓越しから、これといって特徴もない黒をベースにした六畳ほどの自分の部屋を覗く。壁時計を見れば、深夜丁度を指していた。 もうそろそろか……。 常にへの字に曲がった俺の唇は時計を見たとたん、にんまりしてしまう。 つり目で一重。なんの変哲もない日本人特有の黒い髪。加えて身長百八十三センチの可愛気がまったくない男がニヤリと笑っていても気持ち悪いばかりだ。 今が薄暗い深夜だからいいものの、それでもいつ誰にこの姿を見られるかわからない。 俺は薄ら笑いをなんとかしようと口元を引き締める。 それなのに、時計を見た俺の口はまた弧を描いてしまう。 「咲輝、咲輝!! 今日も頼むわ」 俺がいる、六階建てマンションの二階。隣の二〇二号室の窓が開いたと思ったら、ひょっこりと顔を出して関西弁で俺を呼ぶソイツ。 ――やっぱりきたか。 さっき引き結び直したばかりの俺の唇は、彼の声を聞いた瞬間、ふたたび緩む。 今の自分を想像しただけで気持ちが悪い。 だが、にやけ顔を止めることはできない。 そもそも俺が変質者のようににやけ顔になってしまうのは、関東地方のここで、すらすらと関西弁を話す彼に関係しているだからだ。 彼の名前は健太 俺と同じ松林(まつばやし)高校に通う、一年B組のクラスメイトだ。 身長は一五三センチ。どんぐりのような大きい二重の目と茶色い天然パーマが印象的で、可愛らしい顔立ちをしている。 彼の性格は、根暗であまり自分の意見を言わない俺とは正反対だ。本人のコンプレックスになっている背が低いことさえ口にしなければ、性格は明るく、活発で人懐っこい笑みを浮かべる気さくな奴だ。 そんな両極端な健太と俺がなぜ親しくなったのかといえば、家が隣同士っていうのもあると思う。健太と俺は家族ぐるみの付き合いをしていた。 健太一家は俺が小学校を卒業して春休みに突入した時に関西からここに引っ越してきた。 親二人に子一人。健太の家族構成は俺と同じだ。 当時、右も左もわからないこの土地で、同年代の子供を持つ健太の両親は俺の親と同じ悩みを抱え、すっかり意気投合を果たしたらしい。今でもとことん仲がいい。 それは、健太一家と一緒に、これまで何度もキャンプやら旅行やらに行ったこともあるほどの仲の良さだった。 「なあ、咲輝、早く!!」 アレコレを思い出している俺の思考を止め、関西弁で急かす健太の細い身体は思いのほか震えている。 いつも強気な彼が唯一俺に甘えるのはこの時だけだ。 俺は、だらしなく緩む口元をへの字に戻し、いつものごとく、足をベランダの柵に掛け、健太の部屋に到着した。 俺の部屋と同じ六畳間の造り。 ただ違うのは、健太の部屋は青がベースになっていることだ。 俺は履いていたサンダルを置き、勝手知ったるいつものごとく、彼の部屋に入った。 「早う、早してっ!! 寒すぎて凍えそうや!!」 俺が部屋に入ってきたのを見た健太は、あたたかそうなモコモコした緑色の裏起毛パジャマを着ている。 それなのに、彼は小さな身体をブルブルと震わせ、待ちわびていたかのように、壁に添って配置しているシングルベッドにすぐさま飛び込んだ。そして俺がベッドに入り込みやすいよう、羽毛布団を開ける。 ――俺を誘う彼はそう。十二月半ばにもなった、この冬の寒さに耐えられないほど、極度の寒がりだ。 健太は過去にアンカーやら湯たんぽやらと試したらしいが、それでも寒さが和らぐことはなかったらしい。 気がつけば、俺が健太の暖房器具の代わりを担っていた。 健太のこれは毎年冬になるといつものことで、健太の両親も俺の両親もすでに知っている。 だから朝、俺が健太のベッドに潜り込んでいてもまったく驚かれることなく、むしろ健太のお母さんには、『ありがとう』と礼を言われる始末だ。 本来なら、男同士でベッドに入って眠るという行為はどうってことないものだ。だが、俺は最近これが少し苦痛になってきている。 というのも――。 「咲輝〜、はやく〜〜」 布団の空間を開けて、俺が潜り込むのを今か今かと待つ健太は、あまりの寒さで大きな目に涙をためてネダっている。 その仕草が可愛くてたまらない……。 俺は健太に誘導されるまま布団の中に潜り込み、両腕を健太の腹に回した。 早く早くと急き立てる健太を包めば案の定、ひんやり冷たかった。 「電気、消すで?」 健太は枕元に置いてあった蛍光灯のリモコンを手にして、消灯ボタンを押した。遮光カーテンが外の光を一切遮断し、暗い室内が現れる。 「はぁ〜、やっぱ咲輝はええわ〜」 薄闇の中、ぼそりと呟く関西弁。 寒さで固まっていた健太の体から、力が抜けていく。 そんな健太を後ろから見守る俺の鼻腔(びこう)には、くせ毛の髪からシトラスミントのシャンプーの甘い匂いがくすぐってくる。 ……俺よりも小さな体をしていて、俺よりも強気で頑固なその彼が、たまにこうして甘える姿が耐えられないほど愛おしい。 健太と一緒に過ごすうち、いつの間にか俺は彼に恋をしていた。 同性にこの感情を抱くのはおかしい。 そう思う反面、相手が健太なら当たり前だと思う俺もいる。 だって健太はそれくらい可愛いから。 俺にしかない、健太を抱きしめる特権。 この特等席を失いたくなくて、秘めている恋心は言えない。言えば最後。健太は俺のことを、『気持ち悪い』とそう言って、容易く俺から離れるだろう。 そんなの健太を抱きしめて眠る今の苦痛よりもずっと辛いに決まっている。 ――だったらこの想いはひたすら本人に気づかれないよう隠すしかない。 決意を新たにしてると、前からは静かな寝息が聞こえてきた。 俺の想いも知らず、無防備に寝顔を晒(さら)す健太が憎たらしい。 可愛い健太を抱きしめながら眠るこの行為は俺にとって嬉しいのか悲しいのかわからない。 こんなに苦しい想いを寄せる俺とは違い、健太はあたたかそうだ。 俺だって、少しくらいはいい目を見てもいいだろう? 俺は蓋(ふた)をしていた下心をほんの少し解放し、健太の体に回している腕に力を入れ、彼を引き寄せる。 そうして臆病者の俺は今夜も健太を抱きしめたまま眠りにつく。これからもずっとこんな毎日が続くよう、祈りながら……。