(一) 闇がいっそう深くなる午前二時。そんな中でも、きらめくネオンが煌々(こうこう)とともっている、歓楽街の一角。 そこに、『calm's bar』もとい、『落ち着いたバー』という看板を掲げている、一軒の小さなバーがある。 店内はオレンジ色の照明包まれ、木目調のデザインであたたかさをイメージしている。 コンセプトは、一人でも気軽に立ち寄れる落ち着いたバー。眠れない時や、ふとした時に通えるバーを目指している。だから、店にやって来たお客が退屈しないよう、珍しいボトルを数多く取り揃えていた。 calm's barのオーナー、紫季は、居心地の良いこのバーが何処よりもお気に入りだった。 ――彼、翔飛が、自分の家に転がり込んで来るまでは……。 翔飛は、二年前に紫季がバーテンダーとして雇った子で、年は二十六歳と、自分よりも一回り下だ。 襟足まである、やや長めの金髪は、ワックスで後ろに固められている。おかげで、長いまつげと、二重の大きな目がとても印象的だ。彼は華やかで、それでいて、どこか力強い容姿をしていた。 一見すると、とても気が強そうだが、話しかけてみると、実はとても気さくな、いわば今時の子だった。けれどもけっして仕事をないがしろにするような性格ではない。面倒見も良いから、先輩や後輩からの受けが良かった。 紫季が翔飛と同居するきっかけになったそもそもの発端は、翔飛がこのバーで仕事中に、倒れそうになったからだ。 問い詰めれば、家族とは離れて過ごしていて、実家も遠く、食事が作れないからと、朝食やら昼食を抜いてくることが多かったようだ。 それを見かねた紫季は、翔飛を家に呼び、気がつけば、彼と同居をして今で一年になる。 「翔飛くん、時間ですよ。もう上がりなさい」 紫季は、バーカウンターに立っている、他の子たちよりも頭ひとつ分飛び出た、すらりとした立ち姿の翔飛に声を掛けた。 バーテンダーのユニフォームである、黒のベストと蝶ネクタイ姿が似合っている。 相変わらず格好いい。 翔飛に話しかけている最中に、つい、そんなことを思ってしまう自分がいた。 「え? 俺、まだ大丈夫ですよ?」 翔飛が口を開き、はっとした紫季は、おかしなことを考えていたと、我に返った。 これでは経営者として失格だ。 紫季は、翔飛に気づかれないよう、おかしな考えを追い出すべく、小さく首を横に振る。 そうして店内を見渡せば、閉店三十分前だからか、もうすでにお客様は六名ほどしか残っていない。 「君が居ると、他の子の仕事がなくなっちゃうから」 紫季は、勤務時間が過ぎても働こうとする仕事熱心な翔飛に苦笑する。 「わかりました」 翔飛は、すんなり頷(うなず)いたものの、眉間に皺を寄せ、どこか不服そうだ。 しかし、その表情もすぐに消え、長い手が伸びてくる。 ――かと思えば、紫季は力強い腕に引っ張られ、身体が傾いた。 「また、あとで」 ぼそり。 彼は薄い唇を動かし、耳元でそっと告げられた。 直接耳孔に入ってくる彼の吐息がくすぐったい。 まるで恋人にでも囁くような、甘い声音。彼が放った吐息は、紫季のみぞおちへと流れ込み、身体中に熱をもたらす。 翔飛の、その口調は紫季を酔わせる。 「っつ!!」 紫季は熱をもちはじめる身体をなんとか鎮めようと、両腕を肩に回す。 対する翔飛は――といえば、彼はもうすでに踵を返し、紫季に広い背中を向け、仕事仲間たちに挨拶をしている。 「……」 いつもこうだ。こうして何時も、ただやるせなく、年下の翔飛に感情を振り回される。 「オーナー? 風邪ですか? 震えてますが、寒いですか? 顔も赤いですし……熱があるんじゃないですか?」 彼の勤務歴は十年目になる。 名前は、山下 有(やました たもつ)。 容姿は、高い鼻梁に一重の鋭い目。短く切りそろえられた黒髪に、すらりとした体型。翔飛ほど華やかではないが、やはり女性受けをする顔立ちで、硬派な雰囲気を纏(まと)っている。 彼は長年此処で働いてくれているバーテンダーで、今ではもう、すっかり紫季の右腕になってくれている存在だ。 その有に訊(たず)ねられ、おかしな姿勢だったことを指摘された。 「大丈夫。なんでもないんだよ」 思わぬ指摘に、紫季は細すぎる自身の身体から両手を外し、慌てて否定する。 なんとか良い返事を返さねばと思うのに、返す言葉が見つからない。 だから紫季の表情は、微笑んだつもりが、空笑いになってしまった。冷や汗ものだ。 おかげで、長年の付き合いでもある有に怪訝(けげん)な顔をされる。 ――こうして紫季は、常に恋人のように接してくる翔飛に振り回されていた。 だが、これは翔飛の、一種の気の迷いだということを知っている。 翔飛の言動を真に受けてはいけない。 そうやって自分に言い聞かせても、跳ねる心臓を止めることができない。 それと言うのも、実は紫季は、翔飛をほぼ一目惚れで雇ったからだ。 カミングアウトをしてしまうと、紫季は隠れゲイで、女性を愛することがどうにもできないのだ。 それを知ったのは大学生の時だ。ひょんなことから同性愛のドラマを見て、知ってしまった自分の性癖。 これはもはや誰にも告げられるはずもなく、恋をするにしても、こっそりと想うだけで終わる。 同性愛者は何も、自分一人だけではないことは十分に理解している。 もし仮に、ノンケの青年に恋をしたとしても、翔飛や有のような美青年であるならば、恋が成就する可能性はあるだろう。 しかし、自分は特別、美青年でもない。 なにせ、紫季の見た目も、このバーで働いてくれている子たちよりもずっと劣る。こういう華やかな業界にいるのだから、立ち姿だけはと、チョコレート色のスーツを着用し、黒髪にワックスを付けてうまく誤魔化そうとは努力しているものの、それでも貧相な容姿は変わらない。 ほっそりとした不健康そうな身体。痩せこけた頬。おまけに色白で、目は細いが、山下ほど凛々しくもなく、目じりは垂れ下がっている。 そんな容姿だから、自分が相手にされないのは知っている。 しかし、たとえ見目をはばかる容姿であっても、しかる場所へ行けば、同性との出会いもあるだろう。しかし、臆病な紫季は、色々後先のことを考えてしまい、夜限定の相手さえ、求めることもできない。 そんなこともあって、気がつけば、周囲の知人達は家族を持ち、幸せな家庭を築いているのに対し、三十八歳になっても自分は独り身で、細々と暮らしていた。 そんな中で拾ってしまった、自分の好みドストライクな翔飛。おかげで紫季の心は散り散りに乱れるのである。 しかし、翔飛に心を乱されている反面、どこか楽しんでいるのも確かなのだ。 もし、自分に恋人ができれば、耳元で愛を囁かれたり、手を引っ張られたりと、こういったやり取りが当たり前になるのだろうか。 翔飛は、紫季が両親にさえも打ち明けることができない性癖による願望を叶えてくれる。 こうして今は、密やかな楽しみを持つようになった。いつか終わりが来るだろう、翔飛との――恋人といる過ごす毎日を想像し、味わっているのだ。 「ね、オーナー。このまま、ずっと俺にご飯を作ってよ」 それは食事時の決まり文句。翔飛からの告白じみた甘いセリフ。 甘い言葉は彼の癖なのかもしれない。 実際、彼はとてもモテる。 それは女性客の大半が彼目当てで通っているほどだ。 だから、彼の言葉を本気にしてはいけない。 紫季はそう言い聞かせる。 それなのに……。 ずっと、この時が続けばいいと願ってしまう自分がいるのだ。