(二) 結局、紫季は有(たもつ)に様子がおかしいことを風邪だと勘違いされ、早退するよう勧められた。 紫季の自宅は、『calm's bar』から二駅のところにある。 翔飛は腹を空かせて自分の帰りを待っているだろうか。 なにせ、自分も翔飛も夜に仕事をしている身で、身体には悪いと思いつつも、自然と朝と晩が逆転してしまう。 そんなわけで、帰宅してから早い朝食を摂り、一眠りした夕方頃に目覚め、遅い昼食を摂って買い物をし、バーに出勤するという、けっして一般的とは言えない生活を送っていた。 こうして紫季が帰宅する間にも、翔飛のことが頭から離れない。 彼と同居してからというもの、一日の大半は翔飛のことばかりを考えていた。 「ただいま」 紫季は、住宅街が建ち並ぶその中で、五階建てマンションの三階にある、二号室のドアを開けた。 二人暮らしをするようになった今となっては、帰宅後の挨拶は、ひとりだった当初では考えられないほど、当たり前になってきている。 「あ、おかえりなさい」 何時もなら、紫季が帰宅すると、必ず出迎えに来てくれる翔飛なのに、今日は違っていた。 紫季が玄関のドアを開けるなり、聞こえてきたのは、鼻にかかった翔飛の声と――漂ってくる匂いは、バターの香りだ。 翔飛は、料理を作るのが苦手だ。だから何時も、紫季の料理する様子を隣で見物しながら、色々と手伝ってくれているだけにすぎない。 それなのに、キッチンから香ってくる、この香ばしい匂い。 ひょっとして、翔飛の友人が遊びに来ているのだろうか。翔飛は人付き合いも上手いから、考えられない話ではない。 紫季は足下を見る。 しかし、靴は翔飛の一足分しかない。 ともすれば、翔飛がこの香りを家中に広げている張本人ということになる。 紫季は、翔飛が料理をしているという事実に動揺した。 靴を脱ぎ捨て、スリッパに履き替えると、足早にダイニングキッチンへと向かう。 すると案の定、キッチンカウンターの前には、広い背中の彼が、青色のエプロンを着用し、立っていた。 「翔飛くん。たしか、ご飯、作れないんじゃなかったっけ?」 訊(たず)ねた声は、若干の震えを帯びていた。 自分の顔を今、客観的に見れば、真っ青になっているに違いない。 だが、翔飛は幸いにも、キッチンと向かい合い、フライパンを器用に動かして、食材を炒めている。 当然、紫季の表情を見ることはない。 「ん〜、紫季さんが料理しているのを見よう見真似で作ってみたんですけど、作ってみると、案外楽しいですね」 翔飛は本当に楽しそうだ。紫季の問いかけに対する答える口調は、とても明るかった。 そもそも、紫季が翔飛と同居するきっかけになったのは、料理が作れず、勤務中に倒れそうになったからだ。その彼が、料理を作れるようになった今、自分は用無しだ。 翔飛との同居生活も、これで終わってしまうのか? そう考えると、胸がじくじくと疼き、痛む。 「そう、か。じゃあ、もう出て行くの?」 「えっ? なんでそうなるんですか?」 「だって、そもそもこの家にいるのは、ご飯を作れないからだっただろう? もう、ご飯が作れるなら……」 ――自分は、いらない。 続きを言おうとすれば、言葉が喉につっかえて、なかなか口にすることができない。 紫季は楽しげに料理をしている翔飛の背中を見つめ続けることができず、視線は足下へと移動した。 同時に、フローリングに陰が生まれる。 翔飛は料理する手を止めたのだろう。 いい年して惨(みじ)めに項垂(うなだ)れるおじさんの自分を見下ろしているに違いない。 瞼が熱い。涙も出そうだ。 自分はこれほどまでに、翔飛を想っていたのかと、今さらながらに思い知らされる。 しかし、ここで涙を見せるわけにもいかず、ぶら下がっている手に力を込め、拳を作り、込み上げてくる涙をひたすら耐える。 しかし、翔飛はすでに紫季の気持ちを見抜いていた。 「ねぇ、どうして素直に言ってくれないんですか? 本当は、俺に居てほしいんでしょう?」 ぴしゃりと胸の内を言い当てられた。目の前が真っ暗になる。まるで脳しんとうを起こしたみたいだ。身体が硬直して動けない。 翔飛の言葉を肯定したい。 だが、ここで頷(うなず)けば、優しい翔飛は年老いた自分を可愛そうだと思い、出て行かなくなるだろう。 たとえば、そう――老いた親を放り出し、独り立ちを拒むかのように……。 (それは、間違っている) 「そ、そんなことはない。ご飯が作れるようになってよかったよ」 紫季は痛む胸を無視して唇を開いた。 慌てて首を振り、顔を上げると、翔飛の真っ直ぐな視線と重なった。 それだけで、紫季の心臓が大きく跳ねる。 「だったら、どうしてそんな、悲しそうな顔をするの?」 「えっ?」 「もう、バレバレ」 眉尻を下げ、翔飛は笑う。 紫季の、心のすべてを見透かすようなその言い方が――苦笑にも似たその表情が――気にくわなかった。 自分よりもずっと年下なのに、翔飛の方が有利な立場に立っているということが、何よりも苛立つ。 「そ、そんなにおじさんを困らせて楽しいのか? 面白いのか?」 紫季は、今が深夜だということも忘れ、声を荒げた。 紫季の上ずった叫び声が、部屋中に響く。 紫季は今まで、自分のことを、誰よりも物静かで控えめな人間なのだと思っていた。だから当然、こうして声を荒げることもなければ、何かに怒ることもない。そう、理解していたのだが、実際はそうではなかったらしい。自分も何かに対して怒ったり、不機嫌になったりもするのだ。 それは、自分でも驚くほどに……。 「……すみません、そういうつもりで言ったんじゃないんです」 普段、職場でも怒った姿を見せたことがなかった紫季に圧倒されたのか、翔飛は一呼吸置くと、ふたたび薄い唇を開いた。 「……俺は、紫季さんが好きです」 「っ!!」 静かに告げられたその言葉が、荒れた紫季の心を簡単に静める。 「俺じゃ、ダメですか? 役不足ですか? 紫季さんよりもずっと年下だし……頼りないですし。……同性だから、そういう対象としては見られませんか?」 首を傾げ、訊ねる翔飛は、どこか寂しげだ。 翔飛が頼りないなんて、とんでもないと、紫季は思った。 職場では常にスタッフ皆のことを気遣い、新人スタッフの面倒も見てくれている。いわば彼はムードメーカー的な存在だ。 彼が居なければ、きっと紫季のバーはもう少し重たい雰囲気になっていることだろう。翔飛が居てくれてこその、紫季が考えていた、『一人でも気軽に立ち寄れるバー』というコンセプトに繋げることができるのだ。 けれど、そんなことは言えない。言ってしまえば最後、翔飛はやはり紫季は自分を必要としているのだと思われてしまう。 そうなれば、紫季は翔飛と付き合うことになる。 自分は良い。そういう性癖だと知り、年甲斐もなく、翔飛に恋心を抱いているのだから……。 しかし、翔飛は違う。 彼はまだ若く、将来有望で、別段ゲイというわけでもなさそうだ。それに、容姿端麗で女性にも人気がある。 紫季の不毛な生き方に付き合わせることはできない。 「っ、僕は……」 (言え! 自分は子供を相手にするほど切羽詰まっていないと――) 常識ある大人なら、同性に好意を持つという間違った考えを改めさせなければならない。 それが、大人の自分に与えられた責務だ。 それなのに、紫季は告げることができない。 一度は翔飛を写した目は、ふたたび下を向く。 口を閉ざし、ただただ床を見つめる。 「もう、ほんっと素直じゃないな!!」 翔飛はあからさまに大きなため息をついた。 俯(うつむ)く紫季の顔を覗き込む。 「俺は、紫季さんと一緒にいたい。キスだってしたいし、紫季さんを抱きたい。愛あるセックスもしたい」 「っ、抱っ!? セッ……?」 薄い唇から飛び出した言葉は、紫季が考えていたセリフよりもずっと率直だった。 ほんの一瞬だけ、紫季の心臓が止まる。 思いも寄らない突飛な言葉に、俯けていた顔が上がった。 すると、視線の先には首を傾げた翔飛の顔があった。 「紫季さんは、俺とそういう関係になるの、嫌ですか? 気持ち、悪い?」 「だ、だって、僕と君の年齢は十二歳も離れているんだぞ? そ、それにっ……」 「男だし?」 紫季の言葉を遮り、翔飛が代わりに告げた。 彼は、楽しそうにクスクスと笑っている。 「そこは、笑うところじゃないだろう……っ!!」 どうして自分は女性ではなく、男に生まれてしまったのかと泣きたくなる。 自分が女性ならば、たとえ年上であっても、翔飛と愛を育むこともできるというのに……。 紫季は、男に生まれた自分を呪うことしかできない。 我慢していた涙が、とうとう溢れ出した。 「あ〜、ごめんなさい……。そういうつもりで言ったんじゃないんです。お願いですから、泣かないで。俺、好きな人が悲しんでる姿を見るの、耐えられない」 翔飛は、大人げなく涙する紫季の目じりを、袖で優しく拭っくれる。 やはり、彼はとても優しい。 「腕、出してください」 紫季は言われるまま、翔飛の前に腕を差し出せば、袖をめくられ、細い手首に銀のブレスレットがはめられた。 「……これ?」 「ここの窪みの模様ね、合わせるとハート型になって、ペアになるんです。ほら、ね?」 得意げにそう言うと、翔飛は自分の腕を出し、紫季の手首にくっつけた。 ふたつ重なり合うブレスレットの模様は、翔飛が言ったとおり、ハートになって、その姿をあらわす。 「今日、何の日か知っていますか?」 耳元で囁かれ、紫季の身体に熱が灯る。 耳孔から翔飛の吐息が入り込み、背中がこそばゆい。 「……山下くんの……誕生日……?」 今日の仕事前に、生クリームケーキをワンホール買って、有の誕生日を皆で祝ったのを思い出した。 紫季は、しばらく考えた後にぽつりと呟くと……。 「そこでどうして山下さんが出てくるんですか?」 翔飛は紫季の、間の抜けた答えに、がくっと肩を落とした。 「ほんっと鈍いですね、オーナーはっ!! 今日は十四日。バレンタインデーでしょう!」 「あ……」 紫季はこれまでずっと自分の性癖に悩んでいたから、『好きな人に告白する』というバレンタイン行事は考えもしなかった。 だから二月十四日は何の日かと問われても、すぐに答えが出てくるはずもない。 それを、まさか翔飛が成し遂げてくれるとは……。 紫季は驚きすぎて、何も言葉にできない。 「それで俺、返事。聞いてないんですけど?」 訊ねられ、動揺をあらわにする紫季。おかげで言葉がつっかえてしまって上手く話せない。 「ぼ、僕は、おじさんでっ!!」 「知ってます。さっきも聞きました。だから返事は、イエスかノーで答えていただけますか? ノーなら、俺、消えますから。二度と、紫季さんの前には現れません」 ――翔飛が消える。 もう二度と会えない。 翔飛が紫季の傍から居なくなることを考えると、胸が痛む。 呼吸困難になったかのように苦しい。 「ほら、また。そういう顔をする。……ちゃんと言ってくれなきゃ、俺、紫季さんを抱きしめて慰めることもできません」 翔飛は、涙する同性にしか恋ができない愚かな自分を慰めてくれようとしている。抱きしめてくれようとしている。 実感すると、痛む胸が今度はキュッと締めつけられた。 ……するり。 先ほどとは違った意味の涙が、痩せこけた頬を伝う。 涙する自分を写し、眉根を寄せて、微笑む翔飛。 その表情は、もうすでに紫季の気持ちを知っているのだろう。 それなのに、翔飛は最後まで紫季の言葉を待っている。 自分の想いを聞きたいのだと、紫季は思った。 だから口を開き、ゆっくりと噛みしめるように、その言葉を告げる。 「っ、す、好きです……」 「よく、言えました」 自分の想いを生まれて初めて口にする。 告白した声は自分が思ったよりもずっと小さかった。 けれども翔飛にはきちんと届いていて、彼は紫季に向かって満面の笑みを浮かべた。 紫季の胸が、トクンと跳ねる。 恥ずかしくてやや俯き加減の紫季に、陰が覆い被さる。すると腕が伸びてきて、薄い唇が愛を告げた紫季の唇を塞いだ。 これはもう、観念するしかない。 紫季は拳を解き、広い背中に腕を回した。これからも、甘い生活が続くことを願って……。 *END*