名前を呼ぶ存在
「心配じゃのう…新一君…」
食後のコーヒーをのんでいたら博士がそう呟いた。
三日前からコナンが風邪で寝込んでいる。そう聞いたのは昨日蘭に電話を掛けた時。さらに信じられない事に彼女は新一に会えたと喜んでいた。コナンが新一だというのに、あり得ない。
蘭から聞かなかったら私たちは知ることはなかっただろう。ホウレンソウも出来ないのか、あの推理オタクは。
沸々と怒りがこみ上げてきてコーヒーカップを一気に煽った。その時。
ピンポーン―――
玄関の呼び鈴が鳴った。こんな夜更けに訪ねてくるのはアイツしかいない。彼はリビングに駆けこんでくるなり叫んだ。
「聞いてくれ!博士!天音!元の体に戻れるんだ!!」
一瞬の沈黙。衝撃的過ぎて訳がわからない。
「なにぃ!?体が元に戻れるじゃと!?」
「ああ!この酒を一口飲んだらな!」
「そ、そんな…まさか…」
なるほどと思った。蘭が言っていた事がようやくつながる。この酒を飲んだコナンが新一になり蘭に会った。そんな所だろう。
新一は手に持っていた瓶を一気飲み始めた。瓶のラベルを見ると白乾児と書いてある。
白乾児とは別名高粱酒といい、高粱を主原料とした中国の蒸留酒だ。
一時間後。酔っぱらったコナンが床にのびていた。抗体が出来てしまったのだろう。
「ならよー…ヒック…天音なら戻れるんじゃ…ねーか?ヒック…」
酒瓶を抱えたコナンはうつろ目でただの酔っ払いだ。ふむ、と一呼吸置いて考える。
「じゃあコナン、それ頂戴」
「いやらっ!オレは新一なんら!」
……新一は酔うと絡み酒になるらしい。とっても面倒だ。こいつが成人したら酒の席では気をつけなくては。
「天音がそう呼んでくれらいと渡さねーじょー!」
言ってる事とやってる事がちぐはぐ過ぎる。酔っ払いの相手を律儀にするほど私はバカじゃない。
テーブルの裏に隠していた麻酔針で彼の首元を刺す。うん、これでよし。突然の出来事に驚いていた博士にはちゃんと量は子供用にしてある事を伝えた。
彼の手から酒瓶を奪って博士に引き渡す。
「天音君は飲んでみなくていいのかね?」
「今はいいや。あとで抗体ができないような薬を博士に開発してもらうつもりなので、どうぞよろしくお願いします」
「さすが天音君じゃのう……」
「賢い賢い」と笑顔で頷く博士になんとも言えない気持ちになった。
いざという時私だけでも確実に戻れるのなら守り方の幅も広がるだろう。そう思ったけれど、それは自分が可愛いからその後付けの理由なんじゃないか、本当は自分さえ戻れればなんて心の奥では思っているのではないか。
疑心暗鬼の思考回路は博士が戻ってくるまで途切れることはなかった。
後日、薬品の専門知識が薄い私たちがそんな薬を開発できるわけがなかった。私は切り札として白乾児を飲まずに取っておくことにした。
ここ最近、博士は羽振りがいい。夜ご飯は外食が続いているしお菓子もよく買って帰って来る。
その金はどこから出ているのか聞くと、どうやらどこかの会社から契約金を貰ったらしい。その会社と開発したのがペンの形をしたボイスレコチェンジャーというもの。
これを少年探偵団にあげるために数個持って博士は今朝出かけて行った。今日は彼らを連れて博士の叔父の別荘にて宝探しをする予定らしい。
宝探しのための簡単な暗号は私が考えた。ヤイバーのフィギアの暗号の事をふまえて、小学校一年生でも解けるものにしたつもり。
対して私は米花図書館に籠って過去の新聞や雑誌を一から洗い出す予定だ。玄関を出ると自宅の前に誰かが立っていた。
気配を殺してそっと博士の家の塀から顔を出す。立っていたのは20代半ばの男。色素の薄い髪と褐色の肌が印象的だ。服はスーツで真っ黒ではないことからあいつらの仲間ではない。近くには彼の移動手段であろう車が路上駐車されている。車はマツダのRX-7、色は白、ナンバーは“新宿330 と 73-10”。素早くメモを取る。
彼は辺りを見渡してから呼び鈴を鳴らした。もちろん誰も出てくるはずがない。
男は考える素振りをすると敷地内に侵入していった。一応痕跡は消してあるものの、得体のしれない人物にやすやすと情報をくれてやるつもりはない。
「そこの人、最近留守みたいだよ」
背中に呼びかけた。彼は手を家の引き戸に伸ばし、手袋をしている。あと少し遅かったらピッキングでもされていたかもしれない。
「あ、やっぱりさっきから僕をみていたのは君だったんだね」
男は柔らかく笑った。途端に恐怖が全身を駆け抜ける。
なんだこいつ。最初から気づいていたのに泳がせていたってことか。後ずさりそうになるのを必死で食い止めた。顔も引き攣らないように全神経を集中させる。
「普通なら気づかないくらい上手かったよ。それは誰から教わったのかな?」
そんな努力も空しくこの男には筒抜けらしい。心が読まれているみたいだ。思考を巡らそうにも恐怖で上手くいかない。
どうする、どうする。何が最善だ。
「まあいいや、それよりここの家の人っていつから留守にしているか知ってたりする?」
声が思いのほか近い。俯いていた顔を上げるとアイスブルーの瞳と視線がかち合った。少し懐かさを感じたのは気のせいだろうか。
急いで帽子のツバを下げるがもう遅い。ばっちり顔を見られた。
「…君…名前なんていうの?」
「知らない人に名前教えちゃダメって学校で習った」
「確かにそうだ。僕はこの家の人の友達なんだけどそれでもダメかい?」
知らない。こんな男、記憶に存在しない。初対面のはずだ。
男は家に入るのを諦めてくれたのか立ち上がり敷地から出た。とりあえず一安心だ。男はくるりと振り返った。
「じゃあこの家の人に伝えといてもらえるかな……“怖がらないでほしい、君を守りたいだけだ”とね」
男はまた柔らかく笑う。今度は背筋が寒くなることはなかった。