第三者目線
花のようないい匂いに、深月はうっすらと目を開けて、少しだけ口角を上げる。
これはおそらくアロマの匂いだ。
彼女が自宅で使っているアロマは、ゆずやオレンジといった柑橘系のもので、花の匂いを嗅ぐ機会は少ない。
とても落ち着く匂いに、開きかけた瞼はまた閉じそうになる。
(なんでこんなにいい匂いがするんだろう。お花の匂いのアロマなんて買ったっけ……)
まだ覚醒していない頭で、ぼんやりと考える。
そして、数秒後。
「いや、買ってない!」
深月は目を見開いて、勢いよく飛び起きた。
花のアロマなんて覚えがないし、ここがどこかわからない。自宅じゃないのは確かだ。
おまけに服を着ている感覚がなくて、急いで布団を抱き寄せる。
きょろきょろと辺りを見回して、深月はまず部屋の豪華さに圧倒された。
白を基調とした部屋は、なんだか高級感が滲み出ている。ソファもカーテンも白。テーブルも木目調の白。
コーヒーでもこぼそうものなら、きっと大惨事だ。
天井から吊り下げられている照明は、あまり見ないようなおしゃれな形をしている。
ちなみに、深月の自宅はLEDのシーリングライトだ。長持ちするし、圧迫感がないし、女性の一人暮らしなら、そういったもので充分だ。
ふと壁に視線を移せば、小さい写真がいくつか飾られている。風景写真だが、深月にはそれがどこのものかわからない。わかるとしたら、ヨーロッパだろう、ということぐらいだ。
別の壁際には、家電量販店でしか見たことがないくらい大きなテレビが置いてあり、そのテレビの下の台にはメニュー表のようなバインダーが、ベッド脇の小さいチェストには電話がある。
深月は、とりあえずここが宿泊施設なのだろう、ということは察した。
ただ、電話の隣にはティッシュケース、ベッド脇にはゴミ箱があって、ただの宿泊施設ではない気がしてきて、少々顔を青ざめさせる。
深月はそっと、ミニチェストの引き出しを一つ開ける。見なかったことにして戻した。
ここがどこかなんてはじめから気付いていたが、気付かないふりをしていただけだった。
何故なら、深月には昨日の記憶がないのだ。
恐る恐る布団の中をのぞきこんで、自分の身体を確認する。
服どころか下着もない。アウトだ。
深月は自身の腹に触れる。
下腹部に違和感があった。そういうことをした後特有の、ちょっと重い違和感が。
それにしても今日はかなり重いな、と労うように腹を擦る。
そして、先ほどから見ないように見ないようにしていたが、隣から穏やかな寝息が聞こえていて、相手は確実にこの寝ている誰かだろう。
確認したいような、したくないような気分なので、未だにその誰かの方に顔を向ける勇気はない。
(赤の他人、しかもおじさんとかだったらどうしよう。お金を渡されたりしたら……いや、さすがにそこまではないか)
考えれば考えるほど怖くて、一旦、部屋をもう一度確認する。
床に昨日着てた服と下着が散らばっていた。ついでに、男性の服と下着も。
(え、シャワー浴びてないのかな。嘘でしょ)
深月はそっと自分の頬に触れる。化粧も落としていなかった。
今から落としてスキンケアしたところで、お肌のコンディションが戻るのに一体何日かかるのやら、と溜め息を吐く。
記憶を失くすまで酔って、シャワーも浴びず化粧も落とさず、どこの誰とも知らない男と寝たのか。
そんなに悪い酔い方をするほど、ストレスは溜まっていなかったはずだが。
「最悪」
ぽつりと呟いて、再度床に散らばっている下着を確認する。
それらは、深月にとって特別なものだった。
きっと知らない男に、この特別な下着を見られてしまったのだろう。
再度溜め息を吐いて、下着から視線を逸らす。
いつまでもぐちぐちと考えてても仕方がないので、深月は意を決して、自分とこんな高そうなホテルに来た人物の方を見る。
「ええっ!?」
思わず、大きな声を出す。
隣で寝ている男性は、どこの誰とも知らないじゃなかった。
所々が赤く、炎を思わせる髪色に、特徴的な形の眉毛。閉じられている目には長い睫毛が生えていて、形の良い唇は僅かに開かれている。布団から出ている腕は太くて筋肉質で、深月はついその寝姿に見惚れてしまう。
しかし、すぐに見惚れている場合じゃないと気付いて、ぶんぶんと首を降る。
「なんで、杏寿郎と……」
隣で寝ているのは、深月が長年片想いをしている相手だった。
長年片想いしている相手と、なし崩しに寝てしまったのか。知らないおじさんよりはましかもしれないが、最悪なことに変わりはない。
いっそ、杏寿郎が起きる前に逃げよう、と思って、深月はいそいそとベッドを出る。
化粧を落として、シャワーを浴びて、ホテル代を置いて、さっさと姿を消そう、と考える。
そして、次会う時は何事もなかったかのように振る舞扇とも。お互いのためにも、きっとそれが最善だと思ったのだ。
自分の服と下着を回収して、ついでに杏寿郎の服も回収し、杏寿郎の服だけ壁際のハンガーに掛ける。
どちらも皺がついてしまっていて、今更ハンガーに掛けたところで手遅れのようだったが。
奥の仕切りを見ながら、お風呂はあっちかな、などと考えていると、突然脇の下に何かが差し込まれ、深月の身体は宙に浮いた。
「ぎゃああ!」
割とガチで上げた悲鳴には、色気もへったくれもない。
後ろから、押し殺したような笑い声が聞こえてきて、深月は少し膨れる。
その笑い声は押し殺したようで、あまり押し殺せていなかった。
一旦降ろされて、今度は横から抱き上げられる。
深月は咄嗟に持ってた服で身体を隠す。直後、頭上から明るい声が降ってきた。
「おはよう!」
「お、おはよ……」
深月はつい返事をするが、そこから口にする言葉がわからず、黙り込んでしまう。
せっかく逃げようと思ったのに、杏寿郎が起きてしまった。しかも、お互い裸のままで、どうしていいかわからなくなる。
杏寿郎の腕や身体の感触と体温を感じて、深月は昨夜のことをほんのり思い出してきた。
確か、彼と二人で飲んでいて、彼が同僚の女性の話を楽しそうにするものだから、情けなくも嫉妬してお酒が進んで。
(そうだ。私から誘ったんだ)
顔が熱くなるのを感じて、深月はぎゅっと自分の服を抱き締める。恥ずかしくて、杏寿郎の顔が見れない。
「どこか痛んだりしないか?昨夜は大分激しかったからな」
「はげし……!?だ、大丈夫だけど……」
杏寿郎が何気なく言った言葉に、深月はわなわなと震える。
通りで、下腹部がいつもより重いわけだ、と納得もする。
彼女の学生時代の記憶によれば、杏寿郎は体力おばけだった。
ふと気付くと、ベッドの横まで戻っていて、杏寿郎は深月をそっとベッドに降ろす。
深月は身体を布団で隠しつつ、ついついベッド脇のゴミ箱をのぞいてしまう。そして、見なきゃよかった、とすぐに後悔する。
そこには、ティッシュや使用済みのゴムが目を塞ぎたくなるほど入っていたのだ。
(何回したの?っていうか、男の人ってそんなに何回もできるものなの?歴代の彼氏は、多くても二回が限度だったけど……)
さすが体力おばけ、と深月は感心する。
きっと、生命力やら繁殖力やらも強いのだろう、と。
しかし、なんとなくだが──
「杏寿郎って、性欲無いと思ってた」
思っていたことを、そのまま口に出してしまう。
「何を言っている。俺も男だ」
杏寿郎は深月の顎を掴み、ぐいっと上を向かせる。
炎を思わせる瞳と目が合って、深月は『相変わらず綺麗だなあ』と呑気な感想を抱く。
「あれだけ艶っぽい誘われ方をしたら、期待に応えたくなるものだろう」
「ひ、え……」
杏寿郎が浮かべている笑みは、いつもの太陽のような明るいそれではなかった。柔らかく細められた目には妙に色気があって、深月は鼓動が速まるのを感じる。
そして、自分はどういう誘い方をしたんだ、と頭を抱えたくなったが、それはなんとか我慢した。
誘ったことは思い出したが、断られた記憶もあるので、その後にもう一回お誘いしてしまったのだろう。もしかしたら、一回じゃないかもしれないが。
そう思うと、恥ずかしくて仕方がなくなってきた。
これは思い出したら恥ずかしさで悶え死ぬ自信があって、思い出さない方がよさそうだ、と結論付け、深月は杏寿郎から視線を逸らす。
顔の熱も速くなった鼓動も、大分落ち着いてきていた。
「ご、ごめんなさい……あんまり覚えてないの……」
杏寿郎からの返事はない。
怒っているのかと不安になって、彼へ視線を戻すと、彼は驚いたように目を見開いていた。
「あんなに愛し合ったのに、覚えてないのか?」
愛し合った。
言葉のチョイスが甘すぎて、深月の心臓が再び跳ね上がる。
「すみません……」
つい敬語で謝罪して、深月は自嘲気味に笑う。
ああ、もう彼との心地好い関係は終わりだろう、と。
たまの週末に飲んで、遊んで、仕事の愚痴を聞いてもらって。
告白する勇気はないくせに、他の男と付き合っても寂しさを埋められず、こんなぬるま湯みたいな関係にすがって生きてきた。
その罰が、今になって下ったのだ、と。
杏寿郎は「むう……」と何か考えるように呟いて、深月の布団を剥ぎ取った。
「ぎゃあああ!」
深月は本日二度目の、色気皆無な悲鳴を上げる。
せめて服で身体を隠そうとするが、それも奪われて床に放り投げられる。
それを見て、先程と同じような散らばり方だと気付く。
昨夜は、杏寿郎が自分を脱がせて服を散らばらせたのか、とまた気付かなければよかったことに気付いてしまう。
杏寿郎は深月を押し倒され、深月は困惑する。
杏寿郎が押し倒してくる意味がわからないし、ベッドも枕もふかふかで動きづらくて、思うように抵抗できなかった。
杏寿郎は、そっと深月の頬に触れる。
お互い全裸なのに、彼はさっきから堂々としている。
せめてパンツだけでも履いてほしい、と深月は心の中で願う。屈強な胸板や腹筋だけでも目の毒で、下半身なんてとてもじゃないが視界に入れられない。
そして、裸を見られるのと同じくらい、崩れた化粧を見られるのが恥ずかしくて、深月は顔と身体のどちらを隠せばいいかわからなくなる。
「見ないで……」
杏寿郎の手から逃れるように顔を背けて、ぎゅっと目を瞑る。身体も横向きにして、少しでも見えないように縮こまる。
「昨日、散々見た。電気つけっぱなしでしただろう」
「嘘でしょ!?」
深月は一瞬恥ずかしさを忘れ、目を見開いて杏寿郎に詰め寄る。
彼は先程から、知りたくなかった事実をいくつも放り投げてくる。
杏寿郎はふっと笑って、改めて深月の頬に手を添える。
その手は首、肩、胸へと降りてきて、脇腹を滑って臍の下あたりを擦る。
「たくさん掻き回されて、気持ち良さそうにしていたじゃないか」
撫でられているだけの下腹部がぞくぞくして、深月の脳裏に昨日の記憶がさらに蘇る。
なんとなくだが、最初から最後まですごく気持ち良くて、今まで生きてきて一番だったような気がして、思い出すだけで腹の奥が熱くなった。
杏寿郎の手はさらに降りていき、太腿を何度か擦った後、内腿へと滑り込む。
「ひぅっ……」
深月は自分の意思とは関係なく、短く声を上げる。
恥ずかしくて、心臓が止まりそうで、杏寿郎の顔をまともに見れない。
杏寿郎は内腿も触れるか触れないかの強さで擦りながら、深月の耳元に顔を寄せる。
「自分から上に乗ってくれたし、随分可愛い反応をしていたが……」
「お、覚えてないもん! 恥ずかしいことばっか言わないで!」
もう耐えられなくて、深月は脚をぎゅっと閉じる。杏寿郎の肩を押して、離れてほしいと抗議する。
しかし、そんなことでは体力おばけで筋肉おばけの杏寿郎はびくともしなくて、彼の手はどんどん中心に向かって滑っていく。
深月は杏寿郎の肩をより強く押して、眉間に皺を寄せて目を瞑る。
「ダメ!ごめん、私が悪かったから!もう誘わないから!こういうことは彼女としなよ!」
「彼女はいないし、どうでもいい女性とこういうことはしない」
「えっ……」
杏寿郎の言葉の意味を考えてしまい、深月の抵抗する手が緩む。
杏寿郎は深月の耳元に顔を寄せたままで、深月から彼の表情はうかがえない。
それでも、少しだけ見えた耳はほんのり赤いような気がして、深月はきょとんとする。
「チェックアウトは昼過ぎだ。思い出せないなら、新しく記憶に刻んでもらうとしよう」
耳元で囁かれたその声に、深月はすっかり抵抗する気をなくし、表情は一瞬でとろんと蕩けてしまった。
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