夢主目線
ああ、いい匂い。
アロマだろうか。自宅でたまに使ってるアロマは、ゆずやオレンジといった柑橘系のものだけど、なんだかお花みたいな匂いがする。
とても落ち着く匂いに、開きかけた瞼はまた閉じそうになる。
なんでこんなにいい匂いがするんだろう。お花の匂いのアロマなんて買ったっけ。
いや、買ってない。
私は目を見開いて、勢いよく飛び起きた。
ここはどこだ。自宅じゃない。
しかも服を着ている感覚がなくて、急いで布団を抱き寄せる。
きょろきょろと辺りを見回して、まず部屋の豪華さに圧倒された。
白を基調とした部屋は、ちょっと高級感が滲み出ている。ソファもカーテンも白。テーブルも木目調の白。
コーヒーでもこぼそうものなら、きっと大惨事だろう。
天井から吊り下げられている照明は、なんというかおしゃれな形をしていて、うちでは絶対使わないタイプだ。
うちのはLEDのシーリングライト。一般的な女性の一人暮らしだし、そういうので充分。
ふと壁を見れば、小さい写真がいくつか飾られている。知らない街の風景写真だ。ヨーロッパっぽいけど、実際にはどこの写真なのかわからない。
そして、別の壁際には、大きなテレビがどーんと置いてある。何インチあるんだこれ。
そのテレビの下の台にはメニュー表のようなバインダーがあって、ベッド脇の小さいチェストには電話もあるから、ここが宿泊施設なのだろうということはわかった。
ただ、電話の隣にはティッシュケース、ベッド脇にはゴミ箱があって、ただの宿泊施設ではない気がしてきた。
ミニチェストの引き出しを一つ開けてみる。見なかったことにして戻した。
いや、ここがどこかなんてはじめから気付いていたけど、気付かないふりをしていた。
だって、昨日の記憶がないんだもの。
恐る恐る布団の中をのぞきこんで、自分の身体を確認する。
服どころか下着もない。アウトだ。
まあ、これもわかっていたけど。だって、下腹部に違和感があるもの。そういうことをした後特有の、ちょっと重い違和感が。それにしても今日はかなり重いな。
先ほどから見ないように見ないようにしていたが、隣から穏やかな寝息が聞こえていて、相手は確実にこの寝ている誰かだろう。
確認したいような、したくないような。
赤の他人、しかもおじさんとかだったらどうしよう。お金を渡されたりしたら……いや、さすがにそこまではないか。
でも怖くて、一旦、部屋をもう一度確認する。
床に昨日着てた服と下着が散らばっている。ついでに、男性の服と下着も。
え、シャワー浴びてないのかな。嘘でしょ。
そっと自分の頬に触れる。化粧も落としていなかった。
今から落として、スキンケアしたところで、お肌のコンディションが戻るのに一体何日かかるのやら。
最悪だ。記憶を失くすまで酔って、シャワーも浴びず化粧も落とさず、どこの誰とも知らない男と寝たのか。
そんなに悪い酔い方をするほど、ストレスは溜まっていなかったはずだけど。
意を決して、私とこんな高そうなホテルに来た人物の方を見る。
「ええっ!?」
思わず、大きな声が出た。
隣で寝ている男性は、どこの誰とも知らないじゃなかった。
所々が赤く、炎を思わせる髪色に、特徴的な形の眉毛。閉じられている目には長い睫毛が生えていて、形の良い唇は僅かに開かれている。布団から出ている腕は太くて筋肉質で、ついその寝姿に見惚れてしまう。
しかし、すぐに見惚れている場合じゃないと気付いて、ぶんぶんと首を降る。
「なんで、杏寿郎と……」
長年片想いしている相手と、なし崩しに寝てしまったのか。知らないおじさんよりはましかもしれないけど、最悪なことに変わりはない。
いっそ、杏寿郎が起きる前に逃げよう、と思って、私はいそいそとベッドを出る。
化粧を落として、シャワーを浴びて、ホテル代を置いて、さっさと姿を消そう。そして、次会う時は何事もなかったかのように振る舞うんだ。きっとそれがいい。
今何時だろう。今日は休日のはずだよね。
自分の服と下着を回収して、ついでに杏寿郎の服も回収し、彼の服だけ壁際のハンガーに掛ける。
どちらも皺がついてしまっていて、手遅れだけど。
お風呂はあの仕切りの向こうかな、なんて考えていると、突然脇の下に何かが差し込まれ、身体が宙に浮いた。
「ぎゃああ!」
割とガチで上げた悲鳴には、色気もへったくれもない。
後ろから、押し殺したような笑い声が聞こえてくる。言っとくけど、押し殺せてないから。漏れてるから。
一旦降ろされて、今度は横から抱き上げられる。
咄嗟に持ってた服で身体を隠すと、頭上から明るい声が降ってきた。
「おはよう!」
「お、おはよ……」
つい返事をしてしまった。でも、そこから口にする言葉がない。わからない。
杏寿郎の腕や身体の感触と体温を感じて、昨夜のことをほんのり思い出してきた。
確か、彼と二人で飲んでいて、彼が同僚の女性の話を楽しそうにするものだから、情けなくも嫉妬してお酒が進んで。
そうだ。私から誘ったんだ。
顔が熱くなるのを感じて、ぎゅっと自分の服を抱き締める。恥ずかしくて、杏寿郎の顔が見れない。
「どこか痛んだりしないか? 昨夜は大分激しかったからな」
「はげし……!? だ、大丈夫だけど……」
杏寿郎が何気なく言った言葉に、私はわなわなと震える。
通りで、下腹部がいつもより重いわけだ。
そういえば、学生時代の記憶だけど、杏寿郎は体力おばけだった。
ふと気付くと、ベッドの横まで戻っていて、杏寿郎は私をそっとベッドに降ろす。
私は身体を布団で隠しつつ、ついついベッド脇のゴミ箱をのぞいてしまう。すぐに、見なきゃよかったと後悔する。
そこには、ティッシュや使用済みのゴムが目を塞ぎたくなるほど入っていた。
何回したの? っていうか、男の人ってそんなに何回もできるものなの? 歴代の彼氏は、多くても二回が限度だったけど。
さすが体力おばけ。きっと、生命力やら繁殖力やらも強いのだろう。
でも、なんとなくだが──
「杏寿郎って、性欲無いと思ってた」
思ってたことがそのまま口に出てしまった。
「何を言っている。俺も男だ」
顎を掴まれて、ぐいっと上を向かされる。相変わらず綺麗な色の瞳と目が合う。
「あれだけ艶っぽい誘われ方をしたら、期待に応えたくなるものだろう」
「ひ、え……」
杏寿郎が浮かべている笑みは、いつもの太陽のような明るいそれではなかった。柔らかく細められた目には妙に色気があって、どきどきしてしまう。
というか、私はどういう誘い方をしたんだ。誘ったことは覚えてるけど、断られた記憶があるので、その後にもう一回かお誘いしてしまったのだろう。もしかしたら、一回じゃないかもしれないけれど。
これは思い出したら恥ずかしさで悶え死ぬ自信がある。思い出さない方がよさそうだ。
「ご、ごめんなさい……あんまり覚えてないの……」
視線を横に逸らして、とりあえず謝る。
顔の熱もどきどきも結構落ち着いてきた。
杏寿郎からの返事はない。怒っているのだろうか。
不安になって、彼へ視線を戻すと、彼は驚いたように目を見開いていた。
「あんなに愛し合ったのに、覚えてないのか?」
愛し合った、って。言葉のチョイスが甘すぎて、どきどきがぶり返す。イケメンなら甘い言葉も様になるんだから、心臓に悪い。
「すみません……」
つい敬語で謝罪してしまった。
ああ、もう彼との心地好い関係は終わりかな。
たまの週末に飲んで、遊んで、仕事の愚痴を聞いてもらって。
告白する勇気はないくせに、他の男と付き合っても寂しさを埋められず、こんなぬるま湯みたいな関係にすがって生きていた罰かもしれない。
杏寿郎は「むう……」と何か考えるように呟いて、私の布団を剥ぎ取ってきた。
「ぎゃあああ!」
私は本日二度目の、色気皆無な悲鳴を上げる。
せめて服で身体を隠そうとしたら、それも奪われて床に放り投げられた。
あ、さっきと同じような散らばり方だ。昨夜は、杏寿郎が私を脱がせて服を散らばらせたのか。
また気付かなきゃよかったことに気付いてしまう。
そんなことより、杏寿郎はどうして私を押し倒してくるのだろう。枕もベッドもふかふかで、とても抵抗しづらい。
杏寿郎がそっと私の頬に触れる。
お互い全裸なのに、彼はさっきから堂々としている。せめてパンツだけでも履いてほしい。屈強な胸板や腹筋だけでも目の毒なのに。
というか、裸を見られるのと同じくらい、崩れた化粧を見られるのが恥ずかしくて、私は顔と身体のどちらを隠せばいいかわからなくなる。
「見ないで……」
彼の手から逃れるように顔を背けて、ぎゅっと目を瞑る。身体も横向きにして、少しでも見えないように縮こまる。
「昨日、散々見た。電気つけっぱなしでしただろう」
「嘘でしょ!?」
私は一瞬恥ずかしさを忘れ、目を見開いて杏寿郎に詰め寄る。
知りたくなかった事実をいくつも放り投げてくるのはやめてほしい。
杏寿郎はふっと笑って、改めて私の頬に手を添える。
その手が首、肩、胸へと降りてきて、脇腹を滑ってお腹を擦る。
「たくさん掻き回されて、気持ち良さそうにしていたじゃないか」
撫でられているだけのお腹がぞくぞくして、うっすら昨日の記憶が蘇る。
なんとなくだけど、最初から最後まですごく気持ち良くて、今まで生きてきて一番だったような気がする。
杏寿郎の手がさらに降りてきて、太腿を何度か擦った後、内腿へと滑り込んでくる。
「ひぅっ……」
やだ、変な声が勝手に出る。恥ずかしくて、心臓が止まりそうだ。
杏寿郎は内腿も触れるか触れないかの強さで擦りながら、私の耳元に顔を寄せる。
「自分から上に乗ってくれたし、随分可愛い反応をしていたが……」
「お、覚えてないもん! 恥ずかしいことばっか言わないで!」
もう耐えられなくて、脚をぎゅっと閉じる。杏寿郎の肩を押して、離れてほしいと抗議する。
しかし、そんなことでは体力おばけで筋肉おばけの杏寿郎はびくともしなくて、彼の手はどんどん中心に向かって滑ってくる。
「ダメ! ごめん、私が悪かったから! もう誘わないから! こういうことは彼女としなよ!」
「彼女はいないし、どうでもいい女性とこういうことはしない」
「えっ……」
杏寿郎の言葉の意味を考えてしまって、抵抗する手が緩む。
彼は私の耳元に顔を寄せたままで、表情がうかがえない。でも、少しだけ見えた耳はほんのり赤いような気がした。
「チェックアウトは昼過ぎだ。思い出せないなら、新しく記憶に刻んでもらうとしよう」
耳元で囁かれたその声に、私はすっかり抵抗する気をなくしてしまった。
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