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生存if 壱 三三
杏寿郎の言葉を理解し始めた深月は、さらに首を傾げた。
杏寿郎が弱くなることと、彼を捨てるかどうかは別の話ではないだろうか、と。
杏寿郎は恐る恐るといった様子で、深月の瞳に視線を戻す。
「婚約は、今後も有効だろうか?俺を、側に置いてくれるだろうか?」
不安そうに尋ねられ、深月は思わず吹き出す。
こんなに不安そうな杏寿郎は初めて見たかもしれない。
しかも、深月に捨てられるかどうかで不安なようだ。
「ふふ。杏寿郎さん、かわいいですね」
深月は杏寿郎の頭に手を伸ばし、自分の胸元に抱き寄せた。
それによって杏寿郎は身体が傾き、安定を求めて深月の背中に腕を回す。
深月は杏寿郎の頭を撫でた後、頭頂部に口付ける。
「深月!?」
かわいいと言われたし、頬に柔らかい感触があるし、頭上からちゅっと音がした。
杏寿郎は赤面する。まるで、以前と立場が逆になったようだ。
珍しく動揺する杏寿郎が可愛くて仕方がなくて、深月は彼を抱き締める腕に力を込める。
「私は、杏寿郎さんがいない世界でなんて生きていけません。嫌って言っても離しませんからね」
その言葉に、杏寿郎は一瞬目を見開き、深月の背中に回している腕に力を込める。
「ああ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。生きててくださって……杏寿郎さん、大好きですよ」
そこで、杏寿郎がもぞもぞと身動ぎするので、深月は腕の力を緩めた。
すると、杏寿郎は上を向き、蕩けるような笑顔を見せる。
「俺も、深月が大好きだ。愛している。ずっと側に置いてくれるか?」
「はい。ずっと、側に居てくださいね」
そう答えると、杏寿郎が嬉しそうに残った右目を閉じるので、深月は彼の唇に自分のそれをそっと重ねた。
*****
蝶屋敷に着いてから、杏寿郎が帰宅するまで。いや、帰宅してからも、千寿郎は嬉しそうに兄の世話をした。
それこそ、深月の出る幕などないくらいに。
槇寿郎はまだ気まずいのだろう。相変わらず、部屋から出てこない。
しかし、酒は辞めるようで、深月や千寿郎が彼の部屋に運ぶのは主に食事や茶となった。
杏寿郎のことは千寿郎に任せて、深月は任務に向かうべく、いつも通り準備をする。
暗器を仕込んで、洗濯済みの隊服を着て、羽織に袖を通す。
最後に日輪刀を持って、早めに出発するから食事は要らない旨を伝えよう、と千寿郎の姿を探す。
今日の彼は兄にべったりだったから、杏寿郎の部屋だろうか。
そう思って、杏寿郎の部屋に向かう。
声を掛けて中に入るが、そこに千寿郎の姿はなかった。
「あれ?千寿郎君は……」
「千寿郎なら、茶を淹れに行ってくれたぞ!何か用か?」
杏寿郎だけが、部屋の真ん中にぽつんと座っていた。
寝ていなくていいのだろうか、と深月は杏寿郎が心配になったが、彼は鬼と戦えなくなっただけで、それ以外は割と元気だ。
きっと、起きている方が落ち着くのだろう、と勝手に結論付ける。
「もう出ますので、夕餉はいらないと伝えようと思いまして」
「うむ。それは俺が伝えておこう」
杏寿郎がそう言うので、深月はそれに甘えることにして、軽く頭を下げた。
そして、杏寿郎の部屋を後にしようとしたところ、杏寿郎が深月を手招きした。
「深月、ちょっと来てくれ」
「はいはい。何ですか?」
深月は素直に杏寿郎に近付く。
杏寿郎は深月の耳に口を寄せ、内緒話をするように囁く。
「任務が早く終わったら、俺の部屋に来てくれ」
「えっ!?」
これはつまり、そういうお誘いだろう。
つい先日まで昏睡状態だったのに、何を考えているのか。
深月は耳まで真っ赤にして、バッと杏寿郎から離れる。
恐る恐る杏寿郎の顔を見れば、妖しく微笑んでいた。
「待っているからな」
その表情に、深月は息を詰まらせる。
どうしようかと悩んで、こう答えた。
「怪我とか、何もなければ……」
結局、了承してしまうのだ。
杏寿郎は嬉しそうな笑顔を見せて頷いた。
*****
「どうしよう……!」
煉獄家の門の前で、深月はうんうん唸っていた。
思いの外、任務が早く終わってしまった。
怪我も少なければ、疲労もそんなに溜まっていない。
約束した手前、杏寿郎の部屋に行かねばならないが、今更ながらに恥ずかしくなってきた。
そもそも、任務明けなのだから、湯浴みをせねば汚いだろう。
しかし、湯浴みをすると、千寿郎が起きるまでに事を済ませられるだけの時間がなくなりそうだ。
とりあえず、湯浴みをする旨について、杏寿郎に伝えに行こう。それで時間が足りなくなれば、次の機会まで我慢してもらおう。
そう思って、深月は閉まっている門を飛び越えた。
杏寿郎の部屋に行き、声を掛ける。
「杏寿郎さん、只今帰りました」
すると、すぐに中から障子が開いて、杏寿郎が出てきた。
包帯はしていないようで、左目は閉じられていた。
「おかえり、深月。怪我はないか?どこか痛むところはないか?」
「大したことないですけど……どうしたんですか?」
今まで、深月が任務から帰っても、杏寿郎がここまで心配してきたことはなかった。
急にどうしたのだろう、と深月は困惑する。
杏寿郎は安心したように息を吐き、深月の両手を握る。
「君だけを任務に行かせるのが、こんなに不安だとは思わなかった。もちろん、深月のことは信じているが……」
自分はもう、深月の隣で戦えない。
彼女に何かあっても駆け付けられないし、同じ任務で彼女を助けることもできない。
帰りを待つだけの夜は、ひどく不安だった。
眉を下げる杏寿郎を見て、深月はくすっと笑う。
「大丈夫ですよ。なんたって、私の強さは杏寿郎さんのお墨付きですからね!」
「ああ……そうだな!」
これ以上心配するのは深月に失礼だと考え、杏寿郎も太陽のような笑顔を返す。
そして、深月に顔を近付け、額を合わせる。
「ところで、誘いに乗ってくれた、ということでいいのか?」
「あ、そのことなんですけど」
深月は少し頬を染めながら、湯浴みをしたいと伝えた。
それから、時間が足りなくなれば、次の機会にしたい旨も。
杏寿郎は「そうか」と呟いて、深月の腕を強く引いて部屋に引き込んだ。
障子を閉めて、油断していたせいでされるがままの深月を布団に転がす。
「俺は気にならないから、問題ないな!」
「私が気になるんですって!」
深月の抵抗虚しく、杏寿郎は彼女の隊服に手を掛けた。
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