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生存if 壱 三二
宇髄のせいで口付けがお預けになり、杏寿郎は少し不機嫌だった。
深月も恥ずかしがって、杏寿郎と一定の距離を保つようになってしまい、彼の不満は募る。
しかし、目覚めてからの杏寿郎の回復速度は凄まじく、翌日には普通に食事を摂れるようになり、そのさらに翌日には帰宅の許可が出た。
「え、もう帰っていいの?」
アオイから説明を受け、深月は驚きを隠せずにいる。
胸に穴が開いて長いこと眠っていたのに、目覚めて三日目には帰宅許可が出るとは。
杏寿郎は本当に同じ人間だろうか、と少し不安になる。
千寿郎が着替えを持って迎えに来るとのことで、深月は杏寿郎の病室で、彼と話をしながら千寿郎を待った。
話の内容は、杏寿郎が眠っている間のことだ。
「そうか、深月が俺の業務を……」
深月の話を聞き終えた杏寿郎は、俯きがちになって微笑んだ。
自分が昏睡状態の間、深月が代わりに夜の警備や任務をこなしてくれていた。
杏寿郎は、汽車での戦いの後の、深月の言葉を思い出す。
『もう誰も救わなくていい……私が代わりにやるから!全部やるから、死なないで!お願い!』
あの言葉通り、深月は自分の代わりを立派にこなしてくれていたのだ。
男として情けないと思う前に、彼女の成長を心より嬉しく思った。
そして、自分の身体の状態について考える。
左目は潰れてもう見えない。
胸の傷は、消化器官を傷付けている。食事は摂れるようになったが、以前程の量も栄養も摂れない。
栄養が取れなければ、今後筋肉は衰えていくだろう。
生きているだけで奇跡のこの身体では、もう──
「深月。ありがとう」
杏寿郎は深月の頬に手を伸ばし、優しく微笑む。
深月は嬉しそうに目を細め、杏寿郎の手に自分の手を添える。
「どういたしまして。杏寿郎さんのためなら、私、何だってできますから」
杏寿郎はぐっと息を詰まらせる。
深月は杏寿郎の代わりを務めたが、柱の称号は継いでいない。病み上がりの身体にはとんでもない激務だっただろうに、給金も変わっていない。
しかも、合間に自身の任務までこなしていたようだ。
杏寿郎はゆっくりと口を開く。
「……深月、聞いてほしいことがあるんだ」
「嫌」
「えっ」
「嫌!聞かない!」
子供のように寝台に突っ伏す深月。
行き場のなくなった杏寿郎の手が宙をさ迷う。
少しの間、面食らった顔をしていた杏寿郎だったが、困ったように眉を下げ、深月の頭を撫で始める。
どうやら、彼女には杏寿郎が何を言わんとしているのか察しがついているようだ。
「聞いてくれ。お願いだ」
「嫌。私、このままずっと頑張れるから」
深月はぎゅうと音がしそうなほど、掛け布団を握り締める。
杏寿郎は小さく溜め息を吐く。
「約束通り、俺の代わりを立派に務めてくれているようだな。君には感謝している」
深月は何も答えなくなるが、杏寿郎は続ける。
「強くなったな。初めて会った頃とは大違いだ」
深月と出会った頃を懐かしむように、杏寿郎は目を細める。
深月は随分と強くなった。階級は甲まで登り詰めたし、自分なりの炎の呼吸を極めつつある。
そして、杏寿郎は深月の秘密を知っている。
深月の鎹烏が要に話したのを、要が杏寿郎に伝えたのだ。
「君は、下弦の陸を倒したことがあるだろう?」
「それは……」
深月が漸く反応を見せ、ゆるゆると顔を上げる。
今にも泣き出しそうな彼女の顔は、見ているだけで辛かったが、杏寿郎は無理矢理笑顔を作る。
「すまん、深月。俺は引退だ」
「嫌……」
「全部、君が代わりにやってくれるんだろう?」
意地悪な言い方だとは思ったが、こうでも言わないと深月は納得してくれないと思った。
「確かに、そう言ったけど……でも、でも……」
悔しい。悲しい。寂しい。
そんな感情が心の中で渦を巻いて、深月の目から涙が溢れる。
杏寿郎の身体のことも、しのぶやアオイから説明を受けたので、理解はしている。
自分が何をすべきかも、わかっている。
しかし、心が納得してくれない。
ずっとわかっていた。でも認めたくなかった。
杏寿郎が、もう戦えないなんて。
深月は俯くが、杏寿郎は彼女の頬に手を添えて、上を向かせる。
目を合わせて、優しい笑みを浮かべる。
「深月。君が、次の炎柱だ。頼んだぞ」
「ううっ……」
深月はいやいやと首を振る。
何も、柱になるのが嫌なわけじゃない。
杏寿郎が引退するのが嫌なのだ。
確かに、杏寿郎の代わりをすると言った。
彼に『もう誰も救わなくていい』と言った。
それでも、深月の中で炎柱は、杏寿郎か槇寿郎だけなのだ。自分ではない。
ずっと、自分の階級や給金はそのまま、杏寿郎の代わりとして任務をこなすつもりだった。
炎柱の称号は、今は杏寿郎のためにあるのだから。
「あの時、私が、もっと早く……早く、駆け付けていれば、杏寿郎さんは……」
「深月。それは違う」
杏寿郎は深月を引き寄せ、強く抱き締める。
一昨日もそうだったが、その腕に以前程の力強さは感じられず、深月はしゃくりあげて泣く。
杏寿郎は目を伏せ、深月の背中をとんとんと撫でるように叩く。
「君は乗客の手当てをしてくれた。おかげで、誰も死ななかった。深月はあの時、自分の責務を全うしたんだ」
「そうかな……」
「そうだ。よくやった。深月はすごいな!」
杏寿郎は、深月の背中を叩くのを止め、両腕で彼女を抱き締める。
深月はすがり付くように、杏寿郎の背中に腕を回す。
「君になら、任せられるんだ──いや、君にしか任せられない」
そんなことを言われたら、承諾するしかないじゃないか。
「うう……はい。わかり、ました……」
涙声で、なんとか承諾する深月。
杏寿郎は目を開け、深月を離して、彼女と目を合わせるように顔を移動させる。
「最後まで、隣で戦えなくてすまない。それと……」
杏寿郎は視線を横にずらし、恥ずかしそうに続ける。
「俺はきっと弱くなるんだが、その……捨てないでほしい」
「えっ?」
杏寿郎が何を言っているのかわからず、深月は首を傾げた。
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