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第二章 二十
脱衣所、湯殿、と戸を開ければ、本当に湯船にお湯が張ってあって、いいのだろうか、と深月は少し首を捻る。
まだ昼過ぎで、湯浴みするにはかなり早い。しかも、このまま湯浴みをすれば一番風呂ではないか。槇寿郎を差し置いて一番風呂など、申し訳ない。
「うーん、でも槇寿郎様はこんな時間にお風呂入らないしなあ……」
深月は少し悩んでいたが、せっかくだから頂いてしまおう、と脱衣所の戸を閉めてから服を脱いだ。
手拭いだけ持って湯殿に入る。
そして、椅子に座って、桶を取り、お湯を肩からかけた直後。
湯殿の戸が開いた。
「え?」
何事か、と深月が出入口を振り返ると、一糸纏わぬ姿の杏寿郎が居た。
堂々としていて、前を隠そうともしていない。
「何してるんですか!」
深月は一瞬で真っ赤になり、持っていた桶を杏寿郎に投げ付ける。
しかし杏寿郎はそれをあっさり受け止め、後ろ手で戸を閉めて深月に近付いていく。
近付いてくる足音に、深月は思わず立ち上がって後退る。手拭いや腕で体を隠してはいるが、どうにも心許ない。
あっという間に壁に追い詰められ、深月は困惑した顔で杏寿郎を見上げる。
杏寿郎は深月の顔の両側の壁に手をつき、ちらりと下を見る。手拭いと腕で隠されただけの体は、目に毒だった。
視線を深月の目に移し、杏寿郎はにこにこと笑う。
それが、深月の不安をどうしようもなく煽り立てる。
「きょ、杏寿郎さん……?」
「背中を流しに来た!」
深月は、自分の血の気が引いていくのを感じた。
千寿郎は、買い物に行ってしまった。
槇寿郎は、相変わらず部屋から殆ど出てこない。
そもそも、深月の入浴中に彼らが湯殿に近付くことは滅多にない。近付いたとしても、気配を察したら離れていく。
早い時間に湯浴みを勧めたのは、このためだったのか。
杏寿郎は困惑している深月を素早く抱えあげ、椅子に座らせる。
それから、深月の後ろに膝をつき、彼女の髪を高い位置で纏めていく。
深月も観念してあまり抵抗はしないが、杏寿郎を振り返って念のために尋ねる。
「背中を流してくれるだけですよね?」
「んー?さて、どうしようか……」
「何ですかその返事」
曖昧な返事に深月が眉をしかめていると、杏寿郎は「結いにくいから前を向いてくれ」と深月の髪を軽く引く。
深月は大人しく前を向き、どうやってこの場から逃げ出そうか考え、すぐに無駄だと気付いた。
こういう状況で、杏寿郎から逃げ仰せた試しがない。
まあ、病み上がりに無理をさせるほど理性をなくしてはいないだろうから、背中を流せば満足して出ていくかもしれない、と深月は楽観的に結論付ける。
深月の髪を纏め終えた杏寿郎は、自分の髪も軽く纏め、深月の手から手拭いを奪い取る。
それから石鹸も取って、手拭いでわしゃわしゃと泡立てる。
杏寿郎に背中を向けているとはいえ、自分の体を隠すものがなくなった深月は、これ以上赤くなる余地がないくらい赤面する。
こんなに明るいところで肌を見られる機会はあまりないので、改めて恥ずかしくなったのだ。
傷跡だって、昔に比べて随分増えている。
任務で負ったも小さなものから、一ヶ月前の大怪我のものまで。
今居る湯殿は小窓から差し込む陽光に加え、電気までついている。杏寿郎の目の良さも相俟って、細部まではっきり見えていることだろう。
杏寿郎は傷跡を気にしないだろうが、深月は気にする。できるだけ見ないでほしい旨を先に伝えておこうと考えて口を開く。
「あの、杏寿郎さん……」
「傷なら気にするな。君の強さと優しさの証は、いつでも綺麗だ」
深月の考えを察していた杏寿郎はそう言って、深月のうなじに口付けた。
突然の事に驚いた深月は「ひっ」と上擦った声を上げる。
杏寿郎は、はて、と首を傾げる。
うなじとはいえ、つい深月の首に触れてしまった。
しかし、深月が呼吸困難になる様子はない。
後ろなら心的外傷を刺激しないのだろうか、と考えつつも、淡い期待を膨らませ、そっと彼女の首を泡のついた手で優しく包む。
深月は一瞬震えたが、それは驚きによるもので、特に取り乱す様子はない。
そのまま手を滑らせ、首周りだけを洗っていく。
何故か首を重点的に洗われ、深月は困惑する。
「きょ、じゅろ、さん?」
「深月、苦しくないのか?」
「……あれ。そういえば、あんまり」
深月も首に触れられているのに、自分が取り乱していないことに気付く。
それは、首を締めるための行為ではないとわかっているからなのか。
優しい手付きに殺意が感じられないからなのか。
それとも、杏寿郎の手だからなのか。
理由はわからないが、反射的に末の弟の死に様を思い出すことはなかった。話の流れで少し思い出したが、呼吸は正常だ。
「大丈夫みたいです」
深月は安心したような、申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
あの夜の惨劇を忘れることはできないが、もう深月の命を縛り付ける程の悪夢ではなくなったらしい。
しかし、家族に悪い気がした。自分だけ生き残って、幸せを手に入れて、家族の死から離れようとしている。
これは殺された家族への裏切りではないか、と考えそうになって、すぐに止めた。
家族の死から離れる代わりに、もっとたくさんの人を救うことで前に進もう、と考えを改め、深月は目を伏せた。
杏寿郎はふっと微笑んで、深月の肩に手を添え、彼女の耳に口を寄せる。
「大丈夫ならよかった」
そう囁いて、肩から胸に手を滑らせた。
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