紫陽花に染まる
その男は、鬼に脅されているのではなかった。
鬼に憧れ、鬼になりたくて、人喰い鬼に協力しているとのことだった。
家族などを人質にされ、脅されているのであれば、まだ交渉の余地があった。
必ず鬼を倒して家族を助けるから、協力してくれ、とお願いすることができたが、この男は違う。
「いいから早く、鬼がどこに逃げたか教えなさい!!」
深月が男の胸ぐらを掴んで声を荒げても、男は気味が悪い薄ら笑いを浮かべるだけだった。
さらに、今回の鬼は厄介だった。
姿どころか、気配も臭いも音も消して逃げる類の血鬼術を使うのだ。
女の子を一人抱えたまま、隠れ家へと去ってしまった。
かくなる上は、鬼の隠れ家を知るこの男に助力を乞おうとしたが、彼はまともじゃなかった。
女の子を助けるには、もう一刻の猶予もない。
深月は、最悪な手段を取らざるを得なかった。
*****
「それで? その男の顔面を、形が変わるまで殴ったのか?」
「は、はい……」
杏寿郎の冷めた声に、深月は縮こまりながら返事をした。
先日の任務で、鬼に連れ去られた女の子を助けるべく、深月が取った手段は、非協力的な男への武力行使だった。
焦りと怒りも相俟って、一発殴るだけでは飽き足らず、男の顔の原型がわからなくなるまで連続で殴った。
それでも男が口を割らなかったので、深月は男の睾丸を踵で踏み潰したのだ。
今でも、その気色悪い感触と、周囲の隊士や隠達の怯えきった顔や悲鳴が忘れられない。
後から聞いた話によると、男は顔面より股間の方が重傷だったとか。
「鬼に協力する愚か者とはいえ、相手は人間だぞ。深月の膂力で危害を加えて、後遺症が残ったらどうするんだ」
杏寿郎の言っていることは正しい。
深月だって、人間に危害を加えるために修行しているわけではないし、鬼殺隊もそういう組織ではない。
正しいが、その男の怪我は、女の子の命や恐怖と天秤に掛けられるようなものだったのだろうか。
それに、深月だってある程度手加減はしたのだ。
男の骨は折れていないし、睾丸だって本当に潰したわけではない。子供を作れなくなったわけではないのだ。
男は痛みで口を割ってくれたので、鬼に追い付き、女の子は無事に助けることが出来た。
鬼も逃さず頸を斬れた。
深月の取った手段は最悪だったが、間違っていたとも言えないのだ。
「だったら、どうすればよかったんですか」
ついつい、不満を口にして、深月は後悔した。
杏寿郎が冷ややかな視線を送ってきたからだ。
これは、相当怒っている。
「どうすれば、か……姿が見えず、気配がわからなくとも、足跡なり木の枝なり、追跡する方法はあっただろう」
「でも、そんな時間無かったですし……」
「『でも』じゃない。常々思っていたが、君は注意力が少し足りないんじゃないか? 甘露寺だったら、もっと穏便にどうにかできそうだがな」
鬼を倒して女の子を救ったことは一切褒められず、自分の悪いところを指摘された上に、急に妹弟子と比べられ、深月は悔しさで唇を噛み締める。
今回の任務では、あれが自分の精一杯だったのに、と。
蜜璃は可愛い妹弟子だが、恐らく自分よりも優秀だ。
分かっていても、比べられておもしろいかと言われればそうではない。
「杏寿郎さんの馬鹿……」
ごくごく小さな声で恨み言を吐く。
杏寿郎の耳は、それをしっかり捉えてしまった。
「師に向かって馬鹿とはなんだ。仕置きを所望のようだな」
聞かれたならもう後戻りはできない。
深月は開き直った。
「杏寿郎さんの馬鹿! わからずや! 頑張ったんだから、そこは少しくらい褒めてくれてもいいじゃない!」
「あのな、深月……」
「もう、家出しますから!」
杏寿郎の言葉を遮り、子どものような事を叫んで、深月は杏寿郎の部屋を飛び出した。
その後の深月の家出先は台所で、きっちり夕食を作り、彼女は槇寿郎や千寿郎の前で普段通り振る舞っていた。
そのため、杏寿郎は油断していた。
まさか、翌朝、任務を終えても深月が帰ってこないなんて、思っていなかった。
行き先には心当たりがあるが、迎えに行くのは少し気が重く、杏寿郎は小さく溜め息を吐いた。
*****
深月の本当の家出先は、蝶屋敷だった。
そもそも、彼女には他に行く宛などないのだが。
まさか、家出ごときで藤の花の家紋の家に世話になるわけにもいかない。
蝶屋敷の主人であるしのぶとしては、蝶屋敷も家出先にしないでほしいのだが、妹達は深月の来訪に喜んでいるし、深月を放り出すのも可哀想で、結局彼女を受け入れてしまった。
そこにたまたま宇髄も居合わせ、一緒に家出の原因を尋ねたところ、深月は正直に全てを話した。
その結果。
俯いて小刻みに震えるしのぶ。
腹を抱えてげらげらと笑っている宇髄。
彼らの反応を見て、不貞腐れる深月、という三人の図が出来あがった。
「何がそんなにおかしいんですか……!」
深月がぶすっとした顔で尋ねると、しのぶは震える声で謝罪し、宇髄は「いや、だってよお……」と笑いながら話し始める。
いくら焦っていたとはいえ、顔の形が変わるまで殴った挙げ句、股間を踏み潰す妙齢の女子がいるか。
杏寿郎との喧嘩の末、夕食を作った上で家出してきたのも、滑稽でしかない、と。
「だって、どうしていいかわからなかったですし、ご飯作っておかないと、槇寿郎様と千寿郎君が困るじゃないですか!」
その言い訳に、宇髄はさらに笑い転げる。
微笑ましいとか可愛らしいとかを通り越して、もはや面白かった。
これは、杏寿郎もかなり手を焼いているだろう、と想像すると、余計に笑えたのだ。
そこで、しのぶが咳払いをして、いつもの笑顔で口を開く。
「そういうときは、怪我を最小限に、大きな痛みを与えればいいんですよ」
それを聞いて、ようやく笑いが治まった宇髄が頷く。
「そうだな。殴ったり切ったりは跡が残りやすいから、骨折るか脱臼させるか……」
「えっ……」
物騒な具体案に、深月はきょとんとする。
それでも、自分の行動よりましだし、杏寿郎の案よりも単純で効率的だった。
二人が話す具体案について、深月はいつの間にか真剣に聞き入っていた。
*****
そして、日がかなり高く昇った頃、迎えが来た。
「やはりここだったか……胡蝶、毎度申し訳ない」
蝶屋敷のとある部屋で丸くなって眠っている深月を見て、杏寿郎はしのぶに頭を下げる。
しのぶは「いえいえ」と朗らかな笑顔で返す。
深月は先程まで起きていて、アオイや少女達の手伝いをしていたのだが、遅めの昼食後に休憩していたら眠ってしまったのだ。
蝶屋敷の誰かが準備してくれたのだろう。彼女には、布団が掛けられている。
しのぶも少女達も何も言わないが、こんな風に迷惑を掛けるくらいなら、意地を張らずさっさと迎えに来ればよかった、と杏寿郎は少し後悔する。
深月から布団を剥ぎ取り、彼女の肩を揺さぶる。
「ほら、深月。起きなさい。帰るぞ」
しかし、任務で余程疲れていたのか、深月はなかなか起きない。
杏寿郎は呆れたように溜め息を吐いて、彼女を抱き抱えた。
「すまん、邪魔をした。失礼する」
「はい。お気を付けて」
しのぶに見送られ、杏寿郎は蝶屋敷を後にした。
*****
その後、帰り道の途中で目覚めた深月はやけに素直で、反省しているようで、杏寿郎は怒る気をなくした。
それどころか、素直に謝って縋り付いてくる深月が可愛くて、駄目だと思いつつも、ついつい甘やかしてしまい、これ以上追求はせず許すことにしてしまった。
「反省しているなら、もういい。今後はできるだけ穏便に済ませるんだぞ」
「はい。わかりました!」
満面の笑みで返事をする深月が、しのぶや宇髄から何を吹き込まれたのかなど、杏寿郎は知る由もなかった。
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