0.0 (俺)
昨日、部活の成果を発揮する機会である大会に出場し、ほかの部員や後輩、顧問の先生やコーチと帰る際、ぐにゃりと視界が歪み、思わず蹲ってしまったのだ。そして、顔を上げた時にはテニスコートのあった会場とは違い、小さな子供立ちや、その母親やのんびりと散歩をする老人がいる公園に佇んでいた。
夢かと思った。急に現れたであろう自分に見向きもしない、違和感も感じないのか、周りの人たちは俺が見えていないのかと錯覚するほどに。
大会で疲れ切った体に鞭を打ち、公園の周りを散策し、帰る道はないのかとあても無く彷徨った。駅を見つけたが、聞いたことのない名前のもので不安は募るばかりだった。そして路線図を見て、俺の不安はどんどん加速していく。
自分の使用している最寄りのものがなく、所々見覚えのある名前の駅があるが、掲載されている路線図の端から端まで眺めても馴染みのある駅名は載っていなかった。
日が沈み始めたころ、これからどうすれば良いのかを考えた。深夜徘徊などで補導なんてされてみろ、自分の告げる住所や電話番号が存在しないとなると本格的に頭がおかしいやつだと思われかねない。
何処か身を隠せる場所を探さなくては。帰る前には今日の夕飯は何だろうとぼんやりと考えていたというのに、今では空腹さえも感じない。
ぽつぽつと街灯に明かりが灯り始める頃、俺は最初にいた公園に辿り着いていた。
水飲み場で喉を潤すも、ここが自分の知らない場所ということだけで変な緊張が走り、また喉が渇いた。

公園にある遊具の中で一晩明かしたが、相変わらず空腹は感じなかった。
此処は何処なのだろうか、帰れるのだろうか。普段から誰かを頼りにするタイプではなかったが、この時ばかりは縋りたい気持ちでいっぱいだった。
屋根のあるベンチの上で三角座りをし、膝に額を寄せ、縮こまる。
誰からも声をかけられず、視界にも入っていないことを認めたくなくて自分自身が周囲を見渡すのをやめた。
真夏なのに、暑いはずなのに、感じるはずのものがどんどん遠のいていくようだった。

「ねぇ、君…ずっとここにいるけど…大丈夫なのかい?」

誰に向けた発言なのだろう、そう考える間もなく方に手を置かれる重みを感じた。
顔を上げるとあたりはすっかり暗くなっていて、この空間には俺と、この男の二人きり。
男は何処か品定めするような、気色の悪い視線を俺に向けているのだから不審者としか言いようがない。

「いっ、家出とか…かな?もし良かったら家においでよ、泊めてあげるから」

にたり、と歪められた目にゾワリと寒気を感じ、肩に置かれた手を振り払うと同時に走り出す。
自慢ではないが、足には自信がある。見た感じから言うと、不審な男は中肉中背、筋肉で引き締まった身体とは無縁そうだった。
やっと見知らぬ土地で声を掛けてもらえたというのに、安心どころか奈落の底まで落とされるかのような不安ばかりが残る。
公園沿いの歩道を暫く走っていると、後ろから追いかけてくる男の足音ともう一つ、車のエンジン音が徐々に距離を縮めてきた。
車高の低い、黒塗りの車がキキッとブレーキ音を立て停車すると、ウィンドウが下がり運転席にいる女性が俺の姿をはっきりと捉えたのだ。

「乗りなさい!」

知らない土地、知らない車、知らない女性、でも後ろから追いかけて来ている知らない公園で声を掛けてきた知らない男よりも信頼できると思った。
ロックが解除されているドアを開け、素早くシートベルトを装着すれば、女性が車を勢いよく発進させた。
助手席側のサイドミラーには先ほどまで追いかけて来ていた男が映っており、その影がどんどん小さくなっていく。

「ありがとうございます」

小さくなる影を見ながらそう呟けば、同じように横目でサイドミラーを確認していた女性からの視線を感じた。

「いえいえ、余計なお世話じゃなかったみたいで何よりだよ」

女性はにこりと笑ったが、その言葉から受け取れる意味に少しだけあの時の寒気が再びよぎった。
それもそうだ、自分と同じ年ぐらいの女の子が追われているならまだしも、部活着のままの男子中学生だ。
誘拐や暴行だなんて考えに直結することが全くないわけではないだろうが、その可能性は高いものではない。
人によっては問題視せずに無視されることこともありえる案件だったのだ。
この女性が通りかからなかったら、この女性が気にとめなかったら…

「大丈夫?何もされてない?」

優しい声色で俺に話しかけるこの声の主が、俺を助けてくれた。
運転をしているから真っすぐ前を向いているが、先ほどの声色からも俺のことを気にかけてくれているのが分かった。
出来るだけ心配を掛けないように返さなくては、そう思ったが俺の口から出た言葉は強張ったものだった。

「…はい、大丈夫です」

「ん、なら良かった。家まで送って行くけど、何処かな?」

少しの間を置いて、女性が再び声をかけてきたがその言葉に公園にいた時と同じ不安がせり上がる。
帰る場所なんてない、己の身に起きたことを正直に告げていいのだろうか?おかしいやつだと思われやしないか?
優しく、安心させてくれようと努める女性に対し申し訳ないが肩が震えたのは仕方がないことだった。

「あぁ…ごめんね、一緒にお巡りさんのところに行こうか。私よりもお巡りさんに送ってもらった方が君も安心だよね」

この女性はどこまで優しいのだろうか。先程の俺の反応をみて、頼る矛先を女性自身から警察へと変えた。
眉を下げて笑う横顔が、俺を落ち着かせようとする声色が、ここに来てから初めて俺自身を見据えてくれた真っすぐな瞳が…子供のように泣いて縋りたい気持ちにさせた。

「っ、違うんです…あの、貴女が怪しいとかではなく…その、」

情けない。必死になって絞り出した声は震えていて、きっとこの女性にも俺の姿は情けなく映っているのだろう。

「…俺には、帰る家が…っ、ないんだ」

やっとの思いで吐き出した言葉は相変わらず震えていて、さらに情けないことに…俺は泣いていた。頬を伝い落ちていないものの、涙の幕がうっすら張っている。
すると女性は路肩に車を停車させ、身体ごとこちらを向くと白く綺麗な手でいつの間にか俯いていた俺の頬を持ち上げ、撫でたのだ。

「…親御さんと、喧嘩したの?」

家出をしたのかと、聞きたいのだろう。ゆるゆると撫でるその手の暖かさが、より涙腺を刺激する。首を横に振りながら、どう伝えればいいのか考えた。

「ここ、俺の知らない場所みたいなんだ…顧問の先生も、部活の仲間や後輩だって…近くにいたはずなのに…
…俺の知っている地名と、若干の誤差があるんだ…、正直何が正しいのか分からない、現実を受け入れる余裕もない…」

ぽかん、と目を丸くしたかと思うと、懸命に紡ぐ俺の言葉に耳を傾ける。徐々にその表情が真剣なものに変わり、少し考え込むような仕草をするとゆるりと目を細めた。

「…そっか、じゃあお巡りさんの所に行くのはナシだね」

…今、何と言ったのだろうか?今、俺の目の前で、頭を撫でながら…何もおかしいことなど無かったかのように。さも、当然のように。

「あ、頭がおかしい…って、思わないのか…?」

信じて貰えたのか?そうなら嬉しい、いや、違う。表面には出さないだけできっと…おかしいと、そう思っているはずだ…!混ざり合った感情がぐるぐると俺の心を駆け巡り、蝕む。

「なぁに?嘘、ついたの?」

口の端を上げて、笑ったのだ。細められた目は、まるで愛しむかのようだった。女性の瞳に映る俺の顔はひどく滑稽で、それを認識すると同時にハッとした。

「ち、っちが…嘘じゃない…!」

嘘なんかじゃない。俺を真っすぐ見つめ、そして優しく接してくれるこの女性に、信じてほしいと思った。

「分かってるよ、君が私に嘘をつく理由もないしね。それに、同情してもらいたいなら突拍子もない話なんてしないだろうし」

へにゃりと笑う姿と、その言葉に安心した。信じてほしいと思った矢先に、信じて貰えたのだ。

「…その、突拍子もないものを信じるんですか…?」

本当に?本当に信じて貰えたのだろうか?正直、俺がこの女性の立場なら信じない…と思う。
信じて貰えたのなら嬉しい、だけどこんなにも優しく、お人好しという言葉がピッタリな女性が心配になり思わずじっと見つめた。

「君が信じてほしいって、言ってるように見えたからね」

そう言うと、頭を乱暴にかき混ぜるように撫でてきた。その暖かな手と、言葉を享受せずにはいられなかった。
嬉しい、この女性は俺を見て、俺を理解しようとしてくれている。それがただただ嬉しいのだ。その時俺は、ここに来て初めて笑った。

「よし、じゃあひとまず君の衣食住を確保しなくちゃね」

得意気に笑って言うが、ほんの少しだけ不安になる。俺の話を信じることと、衣食住の確保は別物だと思うからだ…
この女性には、自分の生活があり、仕事だってあるだろう。

「確保にあたって、条件があるんだけど…聞ける?」

まるで幼い子供に問いかけるように首を傾げる女性に対し、ゆっくりと頷けばにんまりと子供のように笑った。

「オーケー。じゃあ、ちょっと諸事情で暇を持て余すアラサー独身女に付き合ってもらおうじゃない」

体制を変え、きちんと座席に座りなおした女性が顔だけこちらにむけて、ウィンクをした。何故だかその仕草に一瞬だけドキリとした。
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