10.0 (俺)
眠れないまま、朝を迎えた。カーテンの隙間から零れる朝日をぼんやりと見つめながら昨日の出来事を思い出すのはもう何度目になるだろう。
名前はいつも優しくて、それでいて正しかった。少し調子のいいところもあるけれど、すべて俺を思ってのことだと思ってる。そんな名前を嫌な気分にさせてしまった。いつもニコニコとしている名前の顔とは思えないぐらい、表情もなくただただ静かに食事をした。
俺が、名前の触れてほしくない部分に触れてしまったから。知りたいという子供じみた好奇心なんて、抱かないに越したことがないのだと初めて思った。
俺はいずれ、元居た場所に戻るのだろう。確信もないし、保証もない。でも漠然とそう思う。名前と会えなくなる。大人になると子供の記憶が曖昧になって、大事なものを忘れていく。大事なものなんてそうそう忘れやしないだろうに、忘れたことさえも忘れていく。

「…そうは、なりたくないな…」

子どもの俺が思う大人なんて、そんな立派なものじゃなくて、子どものままならここに居られるのだとするならば、ずっと子供のままでもいいんじゃないかと思った。それでも、自分の気持ちに気づいて決まった以上、大人になりたいと強く思ってしまう。

「…よし」

パチンと両手で挟むように両頬を叩いて気合をいれ、まだ肩が痛むであろう名前のことを想い朝食作りに向かった。

いつの間にか身に着けることが当たり前のようになっているエプロンを身に着けながら冷蔵庫の中身を確認する。まだ手の付けられていない野菜から使いかけの野菜、卵にベーコン。名前が料理をする横で手伝うようになってから、各段に腕前が上がったと思う。慣れた手つきで卵を片手で割り、それを菜箸で綺麗に溶きながら改めてそう思う。
無駄な時間が無いように、手際よく進め、作業が終盤となる頃に名前が起きてきた。肩が痛むせいで着替えられなかったのだろう、見慣れた部屋着のままドアを開けこちらを見ていた。

「おはよう、肩…大丈夫か?」

普段よりもトーンの落ちてしまった声色に、心配かけまいと軽く首を横に振り、申し訳なさそうに眉を下げて笑った。

「大丈夫だよ、悪いね…用意してもらっちゃって」

どことなくバツの悪そうなよそよそしい雰囲気の話し方が気になったが、口には出さなかった。

「今のその肩じゃつらいだろ?俺で出来ることなら手伝う」

そして、何もなかったかのようにスープカップをテーブルに置いて、エプロンを外して定位置に戻す。肩が不自由かと思い名前が座る方の椅子を引けば、名前はまた驚いたような顔をしていた。

「ありがとう」

驚いたような顔から一変、ぎこちないけれど僅かに緩められた表情はいつも通りの名前を感じさせるもので、自分の中にあったしこりのようなものが溶けて無くなってしまったように感じた。それに、ひどく安心した。

「…いただきます」

椅子に座った名前は、俺の作った朝食をじっと眺めた後手を合わせて小さな声で言った。湯気の立ったスープを口にすると、少しだけ名前の瞳が揺れ動いたように見えた。

「…美味いか…?」

スープカップを手にしたまま微動だにしない。ちゃんと味見はしたが、それほどにまで不味かったのだろうかと不安が募る。

「ん、美味しいよ。零君が作ってくれたものは全部、全部美味しいよ」

ぎこちなさも全くない、ふわりとした笑みでそう言われてしまうと、自分でも意図していないというのに顔が熱くなった。恥ずかしいけれど、何故だか口元が緩み切ってしまっていて、気が付いたら笑っていた。

「そうだ、零君。ご飯食べ終わったら少し付き合ってよ」

少し間を置いて、名前が唐突な提案をしてきた。俺にとっては願ってもいない提案で、穏やかな状態で一緒に居られるほど嬉しいものはないのだ。しかし、昨日怪我を負った肩を見ると、現実に引き戻された。

「…肩、そんな状態なら大人しくしてた方がいいと思う」

「大丈夫。無理はしないから」

本当なのか嘘なのか分からない、掴めない笑顔のまま白い小指を俺に向かって差し出してきた。恐らくは、指切りげんまんのつもりなのだろうが、この歳になってまでそんな約束の仕方をするのかと思うと気恥ずかしくなった。早く、と言わんばかりにサ再度突き出された小指に仕方なく、自分の浅黒く色づいた小指を絡ませた。

「痛くなったら、すぐ言うこと」

俺がそう言うと否やほどかれる小指。その後は普段よりも少しだけ口数の少ない食事の時間が流れた。





「一回、ちゃんと来ておきたかったんだよね」

ゆったりとした足取りをぴたりと止め、公園の入り口から辺りを見渡す名前。俺が気が付いたら居たというとの公園は、もう何か月も行ったことのない様な場所に感じた。

「…どう?あんまり来たくなかった…かな?」

心配そうに俺を見つめる姿に、どこか嬉しささえも感じてしまった。あの時は誰も俺のことを見ていない、自分がまるでこの世には居ないもののように思えてしまい、苦しかった。でも、それを名前が救い上げてくれた。

「…別に。名前が心配するようなこと、今は思わない」

隣に名前がいると言うだけで、こんなにも景色が違って見えるんだ。確かにあの時は漠然とした、底の知れぬ恐怖があった。それも、今となってはほんとうにちっぽけなもののように思える。今一番恐いと思っているのは、ひとつ。

「…零君には悪いけど、私…零君に会えてよかったって思ってるよ」

…名前を失うことが恐い。隣に居られなくなることが、離れることが。二度と会えなくなることが。ただ恐い。

「…一緒に居て楽しかった。ずっと仕事ばかりで、中身のない人間だったのに…久しぶりに、幸せってこういうことなのかな、って思えた」

我慢が出来ると思っていた。相容れぬ存在だというのは理解していた。ずっとこのまま此処に居続けることが出来るだなんて思っていなかった。だから自分の気持ちは墓場まで持っていくつもりだった。それなのに、何で名前はこんなにも辛そうで、それでいて幸せそうに笑うのだろうか。

「ごめんね、それと…ありがとう」

その一言に、自分の中で必死になって押し込めようとしていたものが、少しずつ、溢れだしてくるような気がした。

「…俺だって、いつ帰れるか分からないのにいつまでも世話になって…。怪我までさせて、ごめん」

じわりじわりと強い感情が流れ出て、我慢できるほど大人にはなれていないのだと、自分はまだまだこどもなのだと実感した。
生ぬるい風が吹き抜け、公園の木々がざわめき立つ。

「…こんなに名前が俺に良くしてくれて、親切心だって分かってるのに…好きになって、ごめん」

ただの自己満足だった。ただ、好きと言葉に出したかった。それなのに、一瞬強まった風音と葉が擦れる音に掻き消されてしまえば良いとさえ思った。だからだろうか、弱々しい声色でしか言わなかったというのに。

「…っ、え」

取り繕うことさえされなかった動揺。正直、俺みたいなガキの抱く感情にこんなにも動揺されるだなんて思ってもみなかった。
驚いたままの薄く開いた唇、綺麗な黒い目は朝食の時と同じようにゆらりと揺れていた。

「…俺、名前のことが好きだ」

名前の耳に届いてしまったのなら仕方がない。今度はハッキリと聞こえるように言えば、僅かに紅潮していく頬と、きゅうと寄せられる眉根。

「……ありがとう、でもね、」

悲しさを滲ませる表情の名前からは、何も聞きたくなかった。俺が名前のことを好きだということを一番理解しているのは他ならぬ自分自身なのだ。それを、否定されたくなかった。自分の好きな人に、どうしても否定されたくなかった。

「いつか!…いつか俺が大人になった時。名前のこと迎えにいく、だからそれまでは…誰のものにもならないでいてほしい」

何て一方的な我儘なのだろう。俺が大人になった時、名前はそれよりもずっと大人で、そもそも俺が名前の事を迎えに行くことが可能かどうかなんて、分からないというのに。
それでも、二度と会えなくてもいいから、今この瞬間だけはそれを約束してほしいと思った。本当に幼稚な独占欲だ。

「約束」

名前がもっと、動揺もせずに冷静に対処をしていたら、俺だってこんなこと言わないし、しなかったと思う。ぱくぱくと口を動かすばかりで何も発せずにいて、白かった頬が綺麗なピンク色になっているなんて、嬉しさを感じずにはいられない。名前の中で、少しは中学三年生の降谷零ではなく、男として見て貰えたように感じたから。
その喜びに目を細めて笑い、朝食の時に突き出された右手を取り、その細く白い小指の先にそっと口付けた。俺の思ってもみない行動によほど驚いたのだろう、勢いよく右手を引いた。その時、目の前の景色が大きく歪んだ。予期せぬ事態に驚く俺と同じように名前も目を見開いている当たり、同じものを目の当たりにしているということだろう。

「えっ、何これ…」

俺が此処に来た時には、こんなだっただろうか?ぐにゃりとは歪み、やがて溶けるかのように消えていく手足。触れられるまでの距離に居た名前が、まだ目の前に居ると言うのに、随分と距離を感じた。

「零君…!ちょ、ま…っ」

最後に耳に残ったのは、焦った名前の声。

気が付けば、あの日大会の行われた会場に戻っていた。そして何事もなかったかのように、同じ部活のメンバーや顧問の先生、コーチもいた。元に戻っただけ、あれは長い長い、夢だったのだ。そう思えたら、どれだけ良かったか。大会終わりで汗だくになっていたはずだと言うのに、俺が身にまとっているユニフォームからは名前が使っていた柔軟剤の香りが、髪からは同じシャンプーの匂いがする。もうここに、名前は居ないのだと思うと目頭が熱くなった。

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