10.0 (私)

ピリリとした肩に走る痛みで目を覚ました。起き抜けに昨日の出来事を思い出した私は、珍しくどんよりした気分だった。
あの後、はらはらと涙を流す少年を避けるように、突き放す様に自分の部屋に閉じこもった。我ながら本当に大人げないと思う。食事をとる際も、終始無言だった。今思うと、あんなに静かだったのは零君と暮らすようになってから初めての出来事だった。
零君は元居た場所に戻って、そして大人になるにつれて私のことは忘れていくだろう。それでいいと思っているのに、何故こうも一人きりになりたくなるほどに切なくなるのだろうか。きっと、私が必要以上の感情を零君に抱いてしまったから。
昨夜後輩から届いたメールに予定よりも早く謹慎を解くといった記載があった。昨日零君に話したことを少しだけ後悔していたが、そういう事となると結果オーライな気にもなる。どのみち、私と零君は相容れぬ存在。少年が何かしらの好意を私に抱いてくれているのは知っている。ならば、傷は浅い方がいい。私にとっても、零君にとっても。

「…気が重い」

あの時、零君を助けたことは後悔していない。そして、ここに住まわせたことも後悔していない。ただ、こんなにも私の中で存在が大きくなってしまったということが誤算だった。
着替えるのが面倒で部屋着のままリビングへと向かうと、いい匂いがしていた。まさかと思って扉を開ければキッチンに立つ零君と目が合った。

「おはよう、肩…大丈夫か?」

冷蔵庫に残っていたもので作ったのだろう、コンソメスープとカリッと焼けたベーコンの匂いが食欲をそそる。

「大丈夫だよ、悪いね…用意してもらっちゃって」

ダイニングテーブルにはトーストされたパンやみずみずしいサラダ、ベーコンとスクランブルエッグがプレートに綺麗に盛られていた。そして慎重にスープカップに注がれたコンソメスープもコトリと音を立ててテーブルに置かれた。

「今のその肩じゃつらいだろ?俺で出来ることなら手伝う」

エプロンを外し、椅子の背もたれの部分にかけてから、私側の椅子を引いて座る様に促す仕草は大人顔負けのものだった。

「ありがとう」

そう、言葉にして伝えた途端、さっきまで部屋で考えていたことがスゥと消えてしまいそうになった。傷は浅い方がいいだなんて、無理な話だ。本当に、どこまでも自然に踏み込んできてしまうそれを私は甘んじて受け入れてしまうのだ。

「…いただきます」

誰かの作る料理を、こうして口にすることが出来る。私の作ったものを、私じゃない誰かが食べてくれる。当たり前なのに、いつしか当たり前じゃなくなってしまったこと。それをまた、当たり前にしてくれた子。零君が作ってくれたスープを一口含むと鼻の奥がツンとした。歳、なのかな。

「…美味いか…?」

スープを飲んだまま固まっていた私に対して不安になったのか、零君はそう聞いてきた。そう、この表情も何度か見たけれどキュウと胸を締め付けるような顔に私にも母性があったのかと思った。

「ん、美味しいよ。零君が作ってくれたものは全部、全部美味しいよ」

大事なことなので二回言ってみれば、頬を赤く染めて照れくさそうに笑っていた。ああ、この顔を見れなくなるのは嫌だな。ずっと此処に居られるわけじゃないのに、帰らないで欲しいと思ってしまった。

「そうだ、零君。ご飯食べ終わったら少し付き合ってよ」

私の幼稚な欲をスープと一緒に飲み込んで、そう話しかければ嬉しそうに目を細めて頷いた後、私の肩を見てハッとしたのか眉をハの字にして首を横に振った。

「…肩、そんな状態なら大人しくしてた方がいいと思う」

「大丈夫。無理はしないから」

約束、と言って右手の小指だけを立てて零君に向かいずいっと突き出せば、私の様子をチラチラと伺いながらもその指に私の指よりも骨ばった指を絡ませた。

「痛くなったら、すぐ言うこと」

絡められた指はすぐに離れ、何事もなかったかのように私たちは朝食を済ませた。





「一回、ちゃんと来ておきたかったんだよね」

食後に零君とやってきたのは、彼が初日過ごしたという公園。私が車を横付けして彼を乗せたのは公園の入り口から少し進んだところだ。そして今、その公園の入り口に立ち、少しずつ強くなる日差しを浴びながら遊具や芝生、花壇を見渡した。

「…どう?あんまり来たくなかった…かな?」

公園内をじっと見つめる零君にそう問えば、少しだけ間を置いてゆっくりと首を左右に動かした。

「…別に。名前が心配するようなこと、今は思わない」

私の気持ちを見透かしたかのように、零君はさらりとそう、軽く言ってのけた。あの日の恐怖は、もう彼にとっては小さなものになっていて、それを未だに心配していたのはどうやら私だけだったようだ。

「…零君には悪いけど、私…零君に会えてよかったって思ってるよ」

我ながら本当に不謹慎だと思う。いきなり見知らぬ場所に居て、帰る場所も頼り人も、一瞬にして何もかも総て無くしたというのに、私はそれを良かった、と思っているのだから。

「…一緒に居て楽しかった。ずっと仕事ばかりで、中身のない人間だったのに…久しぶりに、幸せってこういうことなのかな、って思えた」

本当に歪んでいる。彼の気持ちを知りながらも、私は零君と居る時間に喜びや幸せを見出してしまったのだ。

「ごめんね、それと…ありがとう」

勿論申し訳ない気持ちだってある。一緒に過ごしていたって、彼が帰るという兆しなど私には予想さえもできないのだから。帰ってほしくないという気持ちが今でこそハッキリと分かり切っているが、もしかしたら私は最初から彼を返す気など無かったのかもしれない。

「…俺だって、いつ帰れるか分からないのにいつまでも世話になって…。怪我までさせて、ごめん」

南から吹く風が少しだけ強まり、ざわりと公園の木々が唸った。色素の薄い髪が乱れ、その隙間から除く蒼に思わず見入ってしまう。

「…こんなに名前が俺に良くしてくれて、親切心だって分かってるのに…好きになって、ごめん」

葉が擦れる音がいつの間にか遠くに聞こえていた。私と零君の立ち位置には距離があると言うのに、これでもかと言う程、耳元で喋られているんじゃないかと錯覚するほど、その言葉だけがクリアに聞こえた。

「…っ、え」

何も聞こえなかった、誤魔化そうと頭で考えるよりも早く動揺を含んだ声が漏れてしまった。
ゆらり、私の視界が一瞬歪んだように見えたのは私自身のせいなのか、それともこの強い日差しと夏の暑さのせいか。
取り繕うさえことも出来ずに、ただその強い意志を秘めた蒼い瞳に射抜かれてしまった私はごくりと息を飲んだ。

「…俺、名前のことが好きだ」

改めて発されたその言葉は、どうしようもないぐらい私の胸をぎゅうと締め付けた。少なからず好意を抱かれていたことは分かっていた。けれど、こんなにも甘酸っぱい感情を彷彿させるような好意だと思うと、むずかゆく感じてしまう。

「……ありがとう、でもね、」

私はあなたよりもずっと年上だし、こうやってイケメンを構いたいおばさんが珍しくて…、きっと、何かの気の迷いだよ。纏まらない、情けないぐらいに拙い言葉を紡ごうとする前に、一歩また一歩と私に近づいた零君がそれを許さなかった。

「いつか!…いつか俺が大人になった時。名前のこと迎えにいく、だからそれまでは…誰のものにもならないでいてほしい」

何の冗談?そう言えれば良かった。僅かな期間ではあるけれど、一緒に過ごした少年のこんな真剣な表情は初めてだった。人生で初めて、熱烈な愛を囁かれたせいか、夏の暑さ以上のものが私の中に込み上げてきた。

「約束」

金魚のように口をはくはくと動かすだけの状態の私を見て、目元を緩やかに細めると、褐色の指先が私の右手を取り、少し汗ばんだ小指に軽く唇を落とすのだから、くらりと眩暈を起こしそうな気分になってしまう。
バッと手を引き、くらくらする頭で再び少年に目を向けると、ぐにゃりと歪む視界と世界。思わず目を見開く私と同じように、歪んだ景色に映る零君もまた驚いたような顔をしていた。

「えっ、何これ…」

私の腕や脚、身体には特に異常が無く、夏の暑さが魅せるようなその現象は目の前にいる少年にのみ襲い掛かる。さっきまで触れるほどの距離にいたというのに、今はもう随分と遠くまで引き離されたような感覚に、焦りを覚えた。

「零君…!ちょ、ま…っ」

待って、そう言おうとしたけれど、それは言葉になることはなかった。だってそうでしょう?今まで目の前に居たっていうのに、まるで幻だったかのようにふわりと消えていなくなったのだから。何もないところで掴もうと伸ばされた手はただ虚しいだけなのに、熱をもった小指が現実だと告げていた。
ひと夏の命を謳歌する蝉の鳴き声がうるさいぐらいに頭に響いて、じりじりと照り付ける太陽は肌を焦がし、頬を濡らす生ぬるい感触は汗なのかそれとも別のものなのか。ゆらゆらと歪む視界の先をぼうっと見つめながら、じくりと痛み出した左肩をぐっと握りしめた。
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