法正×バイオレットフィズ×私を覚えていて


 先週の金曜日、知らない男とホテルに行った。バーでたまたま意気投合した男とホテルに行ったと言うとよく聞く話ではあるけれど、まさか私がそれをやると思っていなかったから、数日経った今でもその時の出来事を思い出してしまう。
 その夜は最初は友達と飲んでいた。月曜日に大事な商談があるから、気合を入れたくて友達を誘ったのだ。一軒目でたくさん飲んだはずなのに、酔いが回っていたこともあり、まだ飲みたい気分だったから近くのバーに移動した。そこで最初に頼んだカクテルを飲んでいたら、友達のところに「近くにいるから迎えに行く」という彼氏からの連絡が入り、先に帰ってしまったのだ。もうちょっと飲みたかったけど、それなりに酔いが回っている中一人で飲み続けるのもなと思ってお会計を済ませようとした時、その男に声をかけられた。「よかったら、少し話しませんか」と話しかけてきた男は一見物腰柔らかそうな口調だったけど、あまり関わらない方が良いような香りを感じた。今思えばそう思った時点で躱しておけばよかったのに、それをしなかったのは、その時点で既にその男のペースに乗せられていたのかもしれない。どうやら同業者らしく、私が仕事の話を友達に話しているのを聞いていて話しかけたと言っていた。このあたりから本格的に酔いが回ってきて記憶が曖昧になっているけど、その男の話す仕事の話がなかなかためになったことと、その男が飲んでいたカクテルがきれいな紫色をしていたことはよく覚えている。カクテルの名前を聞いたはずなのに、全然思い出せなかった。
 ホテルに行ったのも、はっきりと誘われたわけではなくて、流れでそこにたどり着いたからだった。まだ電車がある時間だったから帰ることもできたのに、そうしなかったのは、私がもっとその男のことを知りたいと思ったから。その証拠に、ホテルに入る直前に「本当に良いのですか?」と聞かれ、私は小さく頷いた。男のペースに乗せられていたのかもしれないけど、行くことを選んだのは自分の意思だ。私の答えを確認すると、男も満足そうににやりと笑った。
 その日の夜のことを繰り返しずっと思い出してしまうのは、その男と過ごした夜がよかったのもあるけど、その男が一つだけ質問に答えてくれなかったからというのもある。一夜限りの男に聞くことでもなかったけど、何となく気になったから朝部屋を出る前に名前を聞いたのだ。

「あの、名前を聞いてもいいですか?」
「そうですね…。俺達に縁があればまた会えると思いますので、その時に教えますよ」

 本当にそう思っているのか教えたくないのかわからなかったけど、今答える気がないことだけわかったからこれ以上追求はしなかった。その男の言うことを信じたらまた会う時がくるということだけど、出会ったバーはたまたま入ったお店で常連というわけではなく、どこで会えるのか全く検討がつかなかった。仕事が始まってからもその事ばかり考えてしまい、集中できないでいた。これから大事な商談があるからきちんと気持ちを切り替えなければ。両頬を軽く叩いて気合を入れ直し、先方の待つ会議室へと入っていった。お待たせしました、と入った先で、私は言葉を失い、固まった。部屋で待っていた人物は、さっきまで私の頭の中にいた男だったのだ。扉の前で固まる私に男は笑みを浮かべながら近づいてきて、名刺を差し出した。

「法正と申します。本日はよろしくお願い致します」
「あっ、申し遅れました。私は…」

 慌てて自分の名刺を取り出して交換する。まともに顔が見れなくて、声が裏返ってしまった。商談の相手が一夜を過ごした男なんて、そんなマンガのような展開になるなど考えてもいなかった。折角気持ちを切り替えたのに、数分の間で台無しになってしまった。

「今日は双方にとって良い話になるといいですね」
「はい、そうですね」

 失礼だと思いつつも、目を合わせないまま返事をした。これから私の上司もここに来るから、何事もなく話が終わればいい。そう願っていたのに、一瞬の隙をついて男…法正さんの手が腰に回り、ぐっと引き寄せられた。

「その時には貴方が気になっていたバイオレットフィズで乾杯しましょうか」

 耳元でそう囁かれて、息を飲む。吐息混じりの低い声が身体に響き、身震いした。そうだ、私がきれいだと思ったそのカクテルの名前はバイオレットフィズと言っていた。ゆっくりと顔を上げたら、法正さんはあの時と同じ顔で、楽しそうににやりと笑った。


20210425

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