@刹那・横顔・触れる
十を過ぎた位の時だろう。物心ついた頃から父や周りの教えに従い、不自由なく学問や武芸に勤しんでいたが、成長するにつれ、ふとした瞬間に息抜きをしたくなり、合間の時間を見ては屋敷を抜け出して街に飛び出た。時間までに帰ってこないと怒られるからあまり遠くへは行けなかったけど、見飽きた屋敷とは違った外の光景が楽しくて、いつもぎりぎりの時間まで街を駆け回っていた。その日もそろそろ帰ろうと屋敷の方へ体を向けた時、料理屋の角に小さく座っている女の子が目に入った。体の大きさから三つくらいの年齢だろうか。まん丸の頬と小さな鼻先が真っ赤に染まっていて、何となく引き込まれた。自身の周りに小さな女の子がいなかったから、珍しく見えたのかもしれない。足を止めて遠くから見ていたら、店から女の人が出てきて、その子に湯気の立った肉まんを渡した。その子は立ち上がり、嬉しそうに肉まんを受け取ると、女の人の服の裾を掴みながら肉まんを食べ始めた。店員なのか客なのかはわからないけど、女の人はこの子の母親のようだ。よくある親子の微笑ましい光景で、笑っている横顔と、横から見ても赤くてまん丸の頬が印象的で、暫くの間眺め続けていた。ずっと眺めていたかったけど、はっと我に返る。気を抜いていた。今から走っても間に合わないことだけはわかっていたけど、だからと言って悠々と帰る方がより怒られるのが目に見えていたから、全力で屋敷へと向かった。
屋敷に着くと、案の定母に怒られた。私が遅れるのは今回が初めてではないけど、今回も母は大層お怒りのようだ。言い訳をしても火に油を注ぐだけのことだと今までの失敗でわかっていたから、黙って頭を下げたまま母の怒りが静まるのを耐えた。その間も今日見た女の子の事が忘れられず、まん丸の頬を真っ赤に染めて母親と笑い合っている光景が脳裏から離れなかった。
それから半年を過ぎた頃、街が賊に襲われた。父の元に知らせが届いた頃には殆ど荒らし回された後だったようで、駆けつけた時にはすぐに状況が把握できないくらい滅茶苦茶になっていた。まだ戦に出たことのない私にとって、これが初めて目の当たりにする戦場だった。父がその場で応戦していた兵に話を聞くと、賊は使いの者が屋敷へと走る様子を見て早々に退散したらしい。父は動ける兵を集め、火事の消火と怪我人を助け出す指示を出した。私は火の手が回っていない場所に人が残っていないか見てくるように言われた。父の声は耳に入ってはいたけど、初めて戦場の空気に触れたことで思考が停止し、父の言葉を理解するのに時間がかかってしまった。書物から想像していた戦からはとてもかけ離れた光景に加えて、建物が焼ける臭いや血生ぐさい臭い、怪我をした人の呻き声、そこら中の炎から巻き上がる煙を吸って痛む自分の喉。この惨事を全身で感じたことで、体が思うように動かなかった。反応のない私に父は小さくため息をつく。このままでは父に見限られてしまう。何とかして動こうと体に力を入れた時、とんと両肩に父の手が置かれた。
「寵、お前が動くことで助かる命があるんだ。初めて見る惨状に恐怖を感じるのは当たり前だ。それでも私達は民の為に動かなければいけないんだよ」
いつも厳しい父だったから、早く動きなさいと叱られると思ったのに、かけられた言葉は予想外のものだった。そのまま父の両手が私の顔を包むように触れる。
「さあ、充分に注意して行っておいで」
父の手の温かさのおかげで、強張った体から力が抜けていった。先程と違い、父の言葉や周りの物音をはっきりと聞き取り、ちゃんと理解もできた。私は腰に差した剣を握り締め、はい!と大きく頷いた。
火の手が回っていない場所は少し暗く、月の光のお陰で何とか辺りを見渡せた。この辺りは元々空き家が多かったから、被害が少なかったのだろう。屋敷を抜け出して街を走り回っていたことが少しだけ役に立った。でも火の手の少ない方に逃げ延びた人がいるかもしれない。見逃さないよう一軒ずつ声をかけ、慎重に見回っていった。少し大きな通りを越えて次の場所に移ろうとした時、向かう先にある角の店に既視感を覚えた。その店に近付くと、とても小さな声だったけど、子供の泣き声のようなものが聞こえた。慌てて声のする方へと駆け寄ると、二人の大人が子供に覆い被さるように倒れていた。隙間から少しだけ覗いた顔を見たその刹那、半年前に見たまん丸で真っ赤な頬を持つ女の子が脳裏に浮かんだ。この場所は女の子が母親と一緒に饅頭を食べていた料理屋だった。
「大丈夫かい!?今助けるからね!」
声をかけても女の子は弱々しく泣き続けて、軽く引き付けを起こしている。この子に覆い被さっているのはきっとこの子の両親なのだろう。母親らしき女の人には見覚えがあった。二人に触れてみたが、ぴくりとも動かなかった。そうだろうとは思っていたけど、実際に息をしていないのを確認すると、苦しくなった。しかしいつまでもこのままではいられない。力の抜けた大人を動かすのは大変だったけど、少しずつずらしたことで二人の間から女の子を引っ張り出すことができた。やはりあの時の女の子だった。ただ、あの幸せそうに笑っていた面影はなく、涙でぐちゃぐちゃになっていた。真っ赤な頬は健在だったけど、泣き続けたことによって赤くなったのかと思うとやり切れなかった。なのにかける言葉が全く思い浮かばない。小さな女の子の扱い方がわからないというのもあった。悩んだ末に、先程私が父にされたように、この子の頬を両手で包むように触れる。自分がそれで安心したから、そうすることしか思い浮かばなかった。父のように出来たのかはわからないけど、私の体温が伝わったのか、女の子は少しずつ落ち着いてきた。
「君の名前は何ていうんだい?」
声は聞こえなかったけど、口元は動いていたから、一旦頬から手を離して口元に耳を寄せる。
「ななし……」
とてもか細くて掠れた声だったけど、ちゃんとななしという名前を聞き取れた。私は立ち上がり、ななしを抱き上げた。
「ななしだね。私は満寵。伯寧と呼んでくれて構わないよ」
ななしは泣き疲れたのか、小さく頷くと、そのままこつんと私の胸にもたれ掛かった。一瞬だけ不安に感じたけど、程なくして聞こえた寝息に安堵した。
20220301