荀ケの残り香がつく話




蔡文姫様の護衛兵に推薦された時はとても嬉しかったけど、戦のない時にやる事といえば、蔡文姫様に従って書物を読み漁ることばかりだ。勿論戦がないのは平和な証拠だし、何よりも蔡文姫様が楽しそうに書物を読まれているから、私がとやかく言うような事ではない。蔡文姫様が書物を読まれる時は、私は好きにして良いと指示されているので、最近は塩鉄論に目を通している。私にはかなり難しい内容で、理解するのにかなりの時間を有するからなかなか先に進まない。それでも知っている単語や聞いたことのある話が出てくると嬉しくなり、もうちょっと読んでみようかなという気持ちになる。今日はまだ知っている内容に出会えずにただ文字を目で追っている状態だったけど、案外集中していたようで、蔡文姫様が隣にいることに気が付かなかった。

「ななしさん、かなり集中していましたね」
「すみません、何か用でしょうか?」

いきなり声をかけられたことに驚いて、思わず書物を伏せてしまった。私なんかがこんな難しい書物を読んでいると思われるのが何だか恥ずかしくて、反射的にそうしてしまった。

「いえ、最近ななしさんが集中して読んでいる物が気になったので、立ち上がるついでに来てみました」

蔡文姫様はちらりと書物の表紙を見やると、何の書物かすぐにわかったようで、「ああ、ふふっ」と笑いを抑えていた。

「その書物、かなり前にとある方が探していらっしゃったのをお手伝いしたことがありますよ」
「そうだったのですか?」
「ええ、随分とお探しになられたようで、色々な方に聞き回っていたみたいです」
「随分と苦労してここにたどり着いたのですね」
「一度探しにきたらしいのですが、書庫の中があまりにも汚くて探すのが難しかったみたいです」
「蔡文姫様が戻っていらしてから書庫の中も随分と変わりましたからね」

護衛兵になる前だけど、蔡文姫様と一緒に書庫の整理整頓の手伝いもしたことがある。かなり大変な作業だったけど、そのおかげでとても探しやすい書庫に生まれ変わった。様々な文官の方々が足を運ぶようになったのも、蔡文姫様の行動のおかげである。蔡文姫様に感謝する声を今だにあちこちで聞いているから、護衛兵の私まで嬉しくなってくるのだ。過去の話を思い出してちょっとだけ得意気になっていたら、蔡文姫様が更に近づき、体が触れ合うくらいまで近くにきた。すんと鼻の音が聞こえてきたから、もしかして私臭っているのかと思い、慌てて身を引いたら、蔡文姫様はまた笑いを抑えるように口元に手を当てた。

「ななしさん、いつもと違う香りがしますね」
「えっ、臭いますか…?」
「いいえ、逆です。とても良い香りがします」

調練など、臭う原因になる心当たりはあるとしても、良い香りを発する心当たりはなかった。料理はしていないし、香を嗜む趣味もないのにと思った矢先、自分の頭に浮かんでいた香という言葉で一つ思い浮かんだものがある。同時に、顔が熱くなった。

「その様子だと、思い当たることがあるのですね」
「いえ、別に私は荀ケ様とは何も…」
「あら、私は荀ケ様のお名前は一度も出していませんよ」

自滅してしまったと思い、手で顔を覆った。蔡文姫様は笑いを抑えるのをやめたようで、くすくすと声を上げている。

「荀ケ様はいつも香の良い香りがしますからね。今朝挨拶した時の香りがとても良かったので、何となく覚えていたのですよ。そしたらななしさんからも同じ香りがするから、これはと思いました」

屋敷や部屋に出入りするときは最新の注意を払っていたのに、まさか香りで感付かれるなんて思いもしなかった。もしかして今まで私だけが気付いていなかっただけで、周りの人にも香りで感付かれていたりするのだろうか。急に怖くなって血の気が引いてきた。

「あの、そんなについていますか?香り…」
「近くにいかないとわかりませんよ」
「ああ、よかったです…」

朝挨拶した時は普通だったから、恐らく隣に来たときに感じたのだろう。それを確認できて少し安心したけど、これからは人に近づきすぎないなど行動には注意していかなければならない。いっそのこと今日一日中書庫に籠もっていようか。

「ななしさん、ここが赤くなっていますよ」
「え!?」
「冗談です」

蔡文姫様が首筋の当たりをとんと指差したから慌てて手で隠したのに、蔡文姫様は笑っている。これは完全に遊ばれている。蔡文姫様にそういう一面があったことに驚いているけど、この先こういう事が増えるのかと思うと、心底安心できない。蔡文姫様を通して甄姫様や辛憲英様に伝わらないことだけ祈っている。

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