I微笑む・月の光・幻
まさか、有り得ないと思った。とても遠くに行ったわけではなかったけど、家を飛び出てから数年間見つからなかったから、もう大丈夫だろうと思っていた。とっくに捨てた名前を呼ばれた瞬間、伯寧の声と認識する前に走り出した。それでもすぐに捕まってしまい、どう頑張っても逃げられなくなった。
「ななしなんだろう?」
肩と腕を掴まれて、至近距離で名前を言われても、無反応を貫こうと思った。声を出したら気付かれてしまう。世の中に似ている人なんて沢山いるのだから、黙って否定し続けたら諦めて帰ってくれるだろう。暫くの間沈黙が続いたけど、伯寧は手の力を緩めなかった。
「答える気はないんだね。そしたら私にも考えがあるからいいよ」
伯寧はそう言うと、私の前髪へと手を伸ばした。あっと言う間の出来事で、伯寧の手を止めようとするも間に合わず、前髪を上げられた。
「左の額に薄っすらと残る傷跡があるね。これは君が四歳位の時に木から落ちてできたものだろう」
伯寧はこの傷跡のこともしっかりと覚えていた。伯寧が私のことをななしと確信しているのがわかり、もう誤魔化しきれないと思ったのと同時に、そんなに小さかった頃の出来事まで覚えていてくれたのが少し嬉しかった。目を合わせるのが怖かったから、顔は反らしたまま小さく頷いた。
「聞きたいことは山程あるんだけど、まずはこれだけ言わせてほしい」
伯寧の手に力が入り、ぐいっと引かれる。予想外の出来事に驚き、そのまま伯寧の方へと倒れ込んだ。伯寧の香りに包まれて、懐かしさのあまり胸が締め付けられた。
「ななし、ずっと会いたかった。生きていてよかったよ」
耳元で言われて、くすぐったくて軽く身をよじった。それをまた逃げられると勘違いしたのか、伯寧の腕に力が入る。もう逃げるつもりはなかったから、伯寧の腕にそっと触れた。
「私のこと、覚えていてくれたんだね」
「当たり前だろう。忘れた日なんて一日もないさ」
大切な妹としてずっと一緒に過ごしていたからなのだろうけど、それでも消息を絶ってからの数年間、ずっと忘れないでいてくれたことが嬉しかった。私だって忘れた日なんて一日もない。忘れたくても忘れられなかった。
「どうしてななしが家を出ていったのか教えてほしい」
伯寧は腕を緩めて私を真っ直ぐ見る。私も顔を上げて、伯寧の顔をしっかりと見た。久し振りに見る伯寧の顔は、最後に見た時とあまり変わらない。それが凄く懐かしく感じて、泣きそうになった。こみ上げてくる涙をこらえて、家を出た理由をぽつぽつと話し始める。
「満家のみんなは本当の家族のように接してくれて、それがとても嬉しかった。でもふとした瞬間にやっぱり私はここにいられないって思っちゃって、辛くなって、それで家を出たの」
「そのきっかけは何だったんだ?ななしが最後に残した文では私のことをいつもと違う呼び方をしていたけど、それが関係しているのかい?」
「お母様から、お兄様と呼ぶか伯寧様と呼ぶかどちらかにしなさいってずっと言われていて。今更呼び方を変えるなんて無理だったから」
「私の前ではいつも通りだったじゃないか」
「伯寧の前だけ。お母様たちがいる場では呼び方を変えていたよ」
「そうだったのか……。どうしてそれを言ってくれなかったんだ。何か一言でもあれば力になれたかもしれないのに」
伯寧の言葉に口をつむぐ。物心付いた時から兄として見ていないこと、様をつけることで距離が生まれる気がして呼べなかったと言えるわけがない。呼び方を変えたくない理由を伝えられないから、仕方なく一人で抱え込んだのだ。
「ななしは私のことを慕っていたと思っていたのに。私はそんなに頼りない兄だったのかい……?」
その言葉に、堪えていた涙が一気に溢れてきた。ずっと私のこと忘れずにいてくれた伯寧に、少しだけ期待をしてしまった。私と同じように一日も忘れた日がなかったのなら、もしかしたら伯寧も、という淡い期待だ。それでも今の伯寧の言葉で、伯寧にとって私はやはり妹でしかなかったのだと再認識してしまった。二度も同じ思いをしたのだから、いっそのこと全てを伝えて見放された方が楽になるかもしれない。
「兄じゃない……。私にとって、伯寧は兄じゃないの」
「え?」
伯寧が固まった。妹と思っていた相手に兄じゃないと言われたのは、かなりの衝撃を受けただろう。少しだけ申し訳ない気持ちになったけど、私はこの衝撃を二回も受けているのだから、一回位はいいだろうと思ってしまった。
「私はずっと、一人の男の人として伯寧のことが好きだったんだよ」
伯寧は固まったまま動かない。驚きのあまり返す言葉が見つからないのだろう。私は視線を落として、言葉を続けた。
「本人から大切な妹だと断言されたら、諦めるしかないでしょ。伯寧の縁談の話が上がり始めた頃にお母様は私を伯寧の侍女にしたがっていたのも伝わってきた。好きな人が別の人と幸せそうに暮らしているのをずっと側で見守るなんて、私には耐えられない。これ以上一緒にいたら自分が辛いだけだと思って、家を出たの」
言い終わる頃には涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。今までずっと一人で抱えていた思いを吐き出したら、少しだけ楽になった。
暫くの間、私のすすり泣く声だけが響いていた。時間は経っているのに、全然涙が引かない。暫く固まっていた伯寧がようやく動いた。懐から何かを取り出したと思ったら、目元にあてられた。
「ずっと辛い思いをさせてしまっていたんだね」
布のようなものをあてられ、涙が拭われる。見覚えのある刺繍が視界の端に入った。家を出る前、苦手なりに頑張って作った桔梗の刺繍を施した手巾だった。伯寧がまだそれを持っていたことに驚いて、顔を上げる。
「これ、まだ持っていてくれたの」
「当たり前だろう。ななしが残した唯一のものなんだから」
「すぐに汚して使い物にならなくなったとばかり思ってた」
「勿体無くて使えなかったよ。だから懐に入れて常に持ち歩いていたんだ。使うのはこれが初めてだよ」
伯寧から手巾を取って、広げる。折り目がついているだけで、渡した時と変わらず綺麗なままだった。良い布を使っただけに、あまり綺麗じゃない桔梗の刺繍がちぐはぐに見えた。こんなお粗末なものをよく渡せたなと今更ながら恥ずかしくなってきた。手巾を持つ手に伯寧の手がそっと重なる。
「ななし、きちんと話をしてくれてありがとう。聞いた上でもう一度言わせてもらうよ。やはり一言でもいいから言って欲しかったな」
「こんなこと言えるわけないよ」
「ななしがもっと早く本当の気持ちを私に伝えてくれていたら、私もななしへの気持ちに早く気付くことができたかもしれない」
どういうこと、と聞こうとしたら、腰に手を回されてぐっと引かれた。
「私もななしのことが好きだよ。勿論妹としてではなくて、一人の女性としてね」
伯寧の言葉に耳を疑った。伯寧が私のことを好きだなんて、そんなことは有り得ない。でも、この状況であんな冗談を言えるような人ではないとわかっていたから、混乱してしまった。
「嘘……」
「嘘じゃないさ。君がいなくなって気付いたんだよ」
顔を上げると、優しく微笑む伯寧と目が合った。直後に頬をすっと撫でられる。
「ななしがいなくなってから、ななしが何処へ行ってしまったのか、危険な目に遭っていないかと気が気じゃなかったよ。それに、ななしが夢にも出てきた。それも何度もね。言い方は悪いけど、血が繋がっていない妹のような存在を何年経っても全く忘れられないなんて、普通じゃ有り得ないだろう。何年経ってもずっと会いたかったし、こうして実際に会えた時には柄にもなくとても嬉しかったよ」
伯寧から次々と溢れる言葉についていけず、今度は私が固まってしまった。伯寧は笑いながら私の様子を見ている。
「ななしがまだ本物の親と暮らしている時に一度だけ見たことがあるんだ。母親から貰った肉まんを、頬を真っ赤に染めて嬉しそうに食べている様子を可愛いと思ったんだ。その時はまだ私も幼かったから好きという感情はわからなかったけど、目を離せないでいたから、その時からななしに惹かれ始めていたんだと思う」
ここまで言われてしまったら、信じるしかないだろう。何度も夢に見たことだった。伯寧は夢に出てきても会話はおろか、声を発することもなかった。ずっと欲しかった言葉をようやく私にくれたのだ。夢を越して幻のようだと思った。でも、伯寧が触れている手が、徐々に熱くなっていく頬が、うるさく高鳴る心臓が、全て本当に起こっていることだと教えてくれた。
「はは、あの時のように顔が真っ赤だよ」
「だって、嬉しいし恥ずかしい……」
あまり見られたくなくて下を向いたら、伯寧が額をこつんとくっつけてきた。そしてもう一度手を握られ、指を絡め取られる。
「ななしがいなくなった時、夢を見たんだ。ななしに何度も手を伸ばしたけど、触れられなかった。木から落ちた時もそうだ。手を伸ばしたけど間に合わなくて空を切った。こうしてようやく掴むことが出来たんだ。もう絶対に離さないからね」
伯寧の言葉に応えるようにぎゅっと握り返したら、伯寧が満足そうに微笑んだ。月の光に照らされた伯寧の顔は、私が昔からずっと大好きな優しい顔をしていた。
20220331