暁蓮は走った。



 まだ夜も明け切らぬ中、ただひたすらに。元々そこまで上等ではなかった靴は片方しか残っておらず、裸足の右足は石や砂利を踏みしめたせいで傷付き、小指の爪は躓いた時に剥がれてしまった。じくじくと痛むが、そんな事に意識を取られている暇は無い。



 暁蓮は走っていた。



 小高い丘の間にひっそりと栄えた小さな集落。孤児だった自分をまるで本当の子供の様に愛して育ててくれた大好きな養父母がいて、今はもう鬼籍に入ってしまったがいつでも自分を守ってくれた義兄の思い出が残る小さな村。暁蓮の住まう世界はそこにあった。
 人々は皆貧しいながらも、穏やかでささやかな幸せに包まれて生活を営んでいた。名産といえるような物はあまり無いが、村の中心部に樹齢百年を超えるという大木と、その袂には小さく美しい湖がある。毎年夏が来ると一面に蓮の花が咲き乱れ、村人の心を癒してくれた。夫婦で蓮の花を見ると子宝に恵まれる、なんて噂も立つくらいに神秘的な光景。



 暁蓮は走り続けた。



 今日は養父母と馬を見に行く予定だった。馬といっても騎乗用ではない。農耕馬として村に一頭迎え入れようという話になり、暁蓮達が市へ出て見繕ってくるはずだったのだ。
 城下へと出るのは久しぶりの事で、それはもう楽しみで昨夜はなかなか寝付けなかった程。村の素朴な風景もいいが、人で溢れる広い通りや屋台から漂う美味しそうな匂い、美しく着飾り楽しげに談笑している女性達。そのどれもが暁蓮にとっては憧れだった。
 だから、今日はとても素敵な一日になるはずだ。


 それなのに、今。



「ッ!!」
 ろくに舗装のされていない農道を全速力で駆けていたせいか、大きめの石に躓き暁蓮はその場に盛大に倒れ込んだ。土埃が舞い、目や鼻に入り込んで痛い。げほ、と数度噎せ込むと整わない呼吸のまま両手を付いて上体をゆっくりと起こす。つい今まで駆け抜けて来た道をゆっくりと振り返り。
「……ぅ、ぐ……ッ……うぇ……」
 突如襲う吐き気に手の平で口元を押さえる。しかし吐き出す物は何もなく、暁蓮は歯を食い縛ると体を丸めてうずくまってひたすらに耐えた。
 
 視界の先は、紅。
  
 村の象徴でもあった大木は既に燃え尽きて煤となり、ちらほらと点在していた民家からは未だ火の手が上がっている。大分離れたはずなのに、実際には聞こえない筈なのに、耳の奥で馬の蹄の音と男達の下卑た笑い、逃げ惑う人々の悲鳴や泣き声が聞こえ続けている。
 思わず目を閉じると、脳裏に蘇ったのは目の前で首を切り落とされた村人の虚ろな瞳。ひ、と息を飲み目を見開く。
 走らなければ。兵が駐留している町まで走り、助けを求めなければ。
 暁蓮はふらつく足に力を入れて立ち上がった。ずき、と右足に鋭い痛みが走る。どうやら捻ったらしい。踏ん張りが効かない。
「……はやく、助けを……」
 自分を鼓舞するように呟いて前を見据える。もう走れないが、右足を引き摺って進み始める。

 痛い。けれどまだ村には逃げ惑い隠れている者もいる。家族を守ろうと農具を手に必死に戦っている者もいる。兵が駐留している隣町に助けを求めろ、そう願い自分を逃がした養父母もきっと村を守るために戦っている。今自分に出来る事は、ただひたすらに進んで助けを求める事だけだ。
 どれだけ経っただろう。もう何時間も走り続けた様にも感じるが、それでもまだ町への門は見えない。引き摺った足には既に感覚が無く、次の一歩を踏み出したところで膝が抜けてその場に座り込んでしまった。立たなければ、と気ばかり焦るが恐怖と疲労でまともに息を吸う事も出来ない。

「いたぞ!逃がすな!!」

「――ッ!!」

 背後から迫る複数の蹄の音に身を硬くする。逃げなければ、と立ち上がろうとするが足が縺れて体を地面に打ち付けてしまった。起き上がろうとする間にも追っ手は迫り、一瞬で暁蓮の周囲を三人の男が取り囲む。土で汚れた顔を上げれば、馬上の男達は皆にやついた顔で己を見下ろしていた。
「手間掛けさせやがって。悪いが一人も逃がす訳にはいかねえんだよ、諦めな」
「ったくよ、しけた村かと思えば……ちゃあんと、居るじゃねぇか。なぁ?嬢ちゃん」
「ヒヒ、殺す前に少しばかり楽しませて貰うとするかね。村を襲ってはみたものの大した金も無けりゃ馬もいねえ。これくらいの楽しみが無きゃやってられねえよなぁ?」
 一人の男が馬から降りると暁蓮の髪を掴み乱暴に引き上げる。節くれ立った太い指が顎を捉え、粘ついた視線で値踏みするかの様に顔を覗き込まれた。
「は、離し……離して、っあ!!」
「けっ、乳くせえ体だな。まあいい、少しは楽しめんだろ」
 汚れた服の上からぐい、と乱暴に乳房を掴まれ短い悲鳴が上がる。その手を引き剥がそうとして、しかしそれも叶わずにその場へと押し倒された。ざり、と頬が砂で擦れて鈍く痛む。
「おい、手ぇ押さえとけ」
「へっへ、大人しくしときゃ極楽見せてやるからよ。先俺な」
 男の太い手首に掛けた手すら頭上で押さえつけられ、強引に開かされた脚の間には男が無理やりに体を挟み込む。喉が貼り付いたように渇き、声を上げようとしても細く息が漏れるだけだ。村を脱出する際に聞こえてきた女性の絶望に満ちた悲鳴を思い出す。自分も同じ様に、このまま貪り尽くされてしまうのだろうか。
 更に蹄の音が近付いてくる。既に上着は引き千切られ、素肌の上を男の手が這い回っている。もう駄目か、と暁蓮はきつく目を閉じた。このまま辱めを受けるくらいならば、いっそここで。食い縛った歯を薄く開き、自身の舌を滑り込ませた。


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