途端に、視界が蒼く染まる。



 びちゃ、と何かが飛び散る音。次いでどさりと砂袋が落ちるような音がした。
 腕を押さえつけていた手が離れ、己に覆いかぶさっていた大きな体が消えていく。

 ふわり、と体が浮き上がった。


「……怖かったね。もう大丈夫」


 視界を遮る様に顔に掛けられた蒼い外套。それを外された時、暁蓮は一人の青年に抱き上げられていた。
 助かったのか、と恐る恐る下を見れば、そこには。

「、……っ」
「ああ、駄目だよ。……下は見ずに、私だけ見ているといい。この先の村の娘かな?」
 見開かれた目と視線が合ってしまい、暁蓮は思わず青年の胸に顔を埋める。己を蹂躙していた男達は既に首と体が分かたれ、未だ溢れる血溜りの中で物言わぬ屍と化していた。恐慌状態に陥りそうな暁蓮の背を、青年の手があやすようにぽんぽんと撫ぜる。
「ゆっくり息を吐いて。……そう、それでいい。名前は言えるかい?」
「……暁蓮、……」
 青年の体にしがみつき、促されるまま震える唇を何とか開く。細く長く、震えた息を吐いて胸元から顔を上げると、そこには穏やかな笑みがあった。青年はもう一度優しく、だがはっきりと「もう大丈夫だよ」と暁蓮に告げた。
 もう安心していいのだと、そう自覚した途端に体中から力が抜ける。このまま気を失いそうになるが、次いで問われた言葉に己が走っていた理由を思い出す。
「私の名は郭嘉。暁蓮。あなたの村はこの先だね?」
「は、はい!あの、まだ賊が沢山……み、みんな、襲われて……火が、っ助けを呼ばないと……!!」
 郭嘉と名乗る青年に村は、と問われてはっと弾かれた様に振り向いた。未だ村からは黒煙が上がり続けている、暁蓮は咄嗟に郭嘉の腕の中から離れ駆け出そうとするが、それは彼自身の腕に遮られて適わなかった。
「後は私達の仕事だよ。それにそんなに怪我をしているんだ、無理はしない方がいい」
「……え……」
 もう一度体が浮かび上がる。郭嘉の両腕で持ち上がった暁蓮の体は、見事に引き締まった体躯の軍馬の上にと横座りに乗せられる。ぼろぼろの体を隠す様に外套を巻き付けられて初めて、己が半身裸体に近い姿を晒していた事に気付いて僅かに顔を赤らめた。くす、と笑いを誤魔化す様な吐息が聞こえ、暁蓮は尚更、郭嘉を直視出来ずに俯いた。
「あ、ありがとうございます」
「気にしないで。……むしろ謝らないといけないのはこちらの方だ、思ったよりもあちらの動きが早かった……読みが甘かったかな」
 土で汚れた頬を長い指が拭う。ただそれだけの事なのに暁蓮には不思議と、この青年を信じて良いのだと思えた。謝らないといけない、という言葉がひっかかるも、それを問う前に別な声がそれを遮る。
「とはいえ、その格好でここに一人にする訳にもいかんだろう。時間だってそうある訳じゃない。どうする気だ、郭嘉」
 声のする方を見ればもう一人、馬上で刀に付いた血を振り払っている隻眼の男がそこに居た。蒼い軽鎧を身に纏い、暁蓮をちらりと一瞥するとそのまま馬を並べる。思わずびく、と肩を震わせると男は僅かに眉根を寄せた。
「迂回して先行している曹操殿と夏侯淵殿も気になります。かといって夏侯惇殿の言う様に今から町に送り届ける暇は無い。となれば連れて行くしかないでしょうね。……暁蓮、村に戻るのは辛いかもしれないが、私達と共に居るのが一番安全だと思う」
 夏侯惇と呼ばれた男の言葉に頷いた青年は暁蓮を前に抱える様にして馬の背に乗った。片腕が己の体を支えるように宛がわれ、儚げな風貌とは裏腹にしっかりとした力強さで寄りかかる様に抱き寄せられた。
「む、らに……」
「あなたを危険な目には合わせない。私が守るよ」
「……たすけて、くれるの……?」
「勿論だ。その為にここまで来たのだからね」
「……っ、おねがい、村を助けて……!!」
 気付けば彼の背に両腕を回し抱き付いていた。押し寄せる嗚咽を噛み殺そうとするが上手くいかず、押し殺したような声が漏れる。助けてくれる、と。今まさに暁蓮を救ったその手で、大事な場所を救ってくれると言ってくれた。
 郭嘉は何も言わずに暁蓮の背を撫でる。
「急ごう、舌を噛まない様に気をつけて」
 軍馬が一度嘶いた次の瞬間、風を切り村へ向かって走り出した。夏侯惇も並走して馬を駆り、二頭分の蹄が地面を打ち鳴らす。
 かなりの距離を走ったように思えた道は、軍馬という事を差し引いてもやはり実際には大した距離ではなかったようだ。そう間を置かず村の入り口が見えてくる。ふと郭嘉が隣を走る男へと目配せすると、夏侯惇は小さく舌打ちして馬の足を速めた。未だ黒煙を吹き上げ、僅かに剣戟の音や悲鳴が聞こえてくる村。暁蓮が無意識に身を乗り出すと、それを咎める様に後頭部に手が掛けられ青年の胸へと顔を押し付けられる。
「っ、?」
「大丈夫。目を開けたら全部終わっているよ。そのまま目を閉じて、私に掴まっているんだ」



『大丈夫だ。目が覚めたら家に帰れる。兄ちゃんが傍にいるから、そのまま目を閉じて眠るんだ』



「……あ……」

 脳裏に蘇った光景。それは優しかった義兄の最期の言葉だった。
 どうして初めて会ったこの青年の言葉にこうも安堵できるのか、暁蓮はやっとその理由が分かった。似ているのだ。言葉も、纏う雰囲気も、大好きだった義兄によく似ていた。
 何一つ疑う事も無く暁蓮は言う通りに目を閉じた。馬は既に門を抜け、村の中を走りぬける。相当の人が倒れたのだろう、口の中にも血生臭さが広がった。途中途中で野蛮な怒鳴り声が響くも、直ぐにその声は断末魔と化し消えていく。郭嘉が賊を打ち倒すその間も、暁蓮の背に回された腕が緩む事は無かった。彼が約束した通り、暁蓮には何一つ危険が及ばないように。
 

 やがてどれほどの時間が経っただろうか。剣戟が止んで走り続けていた馬の足が止まり、暁蓮はゆっくりと目を開いた。今度は妨げられる事もなく、郭嘉の胸に埋めていた顔を上げて辺りを見渡す。そこは村のほぼ中心、湖が広がる広場だった。
 未だ炎が燻っている所はあるものの、生き残った村人達が湖から水を汲み上げ消火活動に当たっているのが見える。燃え尽きた大木の根元には子供たちや、村の老人達の姿もあった。犠牲は無かったとはいえないが、それでも助かった人々も大勢居たようだ。先程の隻眼の男が村の若者から感謝を告げられているのが見える。
 慌てて馬を降りようとした暁蓮だが、その身は郭嘉の腕により引き止められる。困惑して見上げれば、どうも暁蓮の傷だらけの足を気にしているらしい。首をゆっくりと横に振った後に馬をゆっくりと歩ませ始めた。
「無理はしない方がいい。……あなたの家はどこかな、無事だといいのだけれど」
「っ、家は、湖の向こうの……」
「あそこだね。送るよ」
 先とは打って変わりゆっくりとした足取りで馬が進む。途中途中で顔馴染みの村人が暁蓮に気付き、互いに無事を喜びあった。中には家族や恋人を亡くしたり、家を焼かれ財産をすべて失った者もいたが、それでも命が助かっただけでも喜ばしい事だと気丈に振舞う。そしてその誰もが馬上に跨る青年へと深々と頭を下げて礼を告げた。暁蓮はその目で活躍を見てはいないが、その様子からするとこの青年も見た目によらず相当の益荒男なのだろう。ちらりと郭嘉を見上げれば、彼もまた暁蓮の視線に気付きにこりと笑んでくれた。  
 

「……お主、何をしておるか」
 暁蓮の住む家まで後もうすぐという頃、不意に後ろから聞こえた声に郭嘉が馬を止める。暁蓮も振り向くと、そこには黒馬に跨った壮年の男がいた。その隣には兜を被り弓を手にした男の姿も見える。
「何だ?お前こんな時にちゃっかり女を口説いて来たのか?」
「これは曹操殿、夏侯淵殿も。ご無事で何よりです」
 夏侯淵、と呼ばれた男の茶化すような言葉に軽く肩を竦めた郭嘉が黒馬の上の男へと軍礼を取る。どうやら郭嘉よりもかなり身分の高い人物らしい。暁蓮をじっと見据える壮年の男に、どうしていいか分からず慌てて頭を下げた。
「ちゃんと働いてきましたよ。この娘は村へ向かう途中で助けただけです」
「ほう。……娘、幸運だったな。見つけたのがこやつでなければ助からなかったやもしれぬ」
 低く重厚な声が暁蓮の耳を打つ。曹操、という名に聞き覚えがあると首を傾げていると、曹操はむう、と低く唸った。
「わしの名もこの地にはまだまだ届かぬという事か」
「そのような事はありませんよ。……彼女は少し混乱しているようですし」
 ね?と郭嘉の優しい声が届く。恐らくは庇ってくれたのであろう。
「あ、あの……本当にありがとうございます。村を救って下さって、何とお礼を言ったらいいのか」
 もう一度深く頭を下げ、男達に感謝を伝える。暁蓮の家はすぐそこだ、ここからなら一人で歩けるだろう。暁蓮は未だ背を支えてくれる青年へと振り返るともう大丈夫です、と頷いた。
「私の家、もうすぐですから。送って頂いてありがとうございました」
 馬から下りようとする暁蓮を、青年は今度は遮ることはなかった。少しばかり危なっかしいのか、夏侯淵がその体を支え地面へと下ろしてやる。郭嘉の物とは違う太く逞しい手に子供の様にひょいと下ろされ、暁蓮はわ、と小さな声を上げてしまう。
「いやあ、命が助かってよかったなあ、嬢ちゃん。家はどの辺りなんだ?」
「本当にすぐそこなんです。あの、湖の畔の。火が回っていないみたいで良かった……」
「……あー……殿」
 暁蓮が家を指し示す。指の先には普段と変わらない簡素な作りの家があった。村の中心から外れていたせいか、ここまで火の手は回っていなかったらしい。良かった、と胸を撫で下ろす暁蓮とは逆に、夏侯淵はどこか気まずそうに視線を曹操へと向ける。曹操は暫し顎に手を当て目を伏せるも、やがて踵を返し馬を進め始めた。
「郭嘉よ」
「はい」
「お主が助けた命だ、任せる」
「……御意」
 短いやり取りが交わされる。郭嘉がそれ以上なにも聞かずに馬から降りると暁蓮の隣へと立った。馬で駆け回ったせいか、乱れてしまった暁蓮の髪を撫でて整えてくれる。くすぐったさに思わず首を竦めてしまうと、郭嘉が口端を緩めるのが見えた。
「暁蓮。私も行っていいかな」
「はい!両親も、きっと皆さんに感謝していると思います」
「……あなたの様な素敵な女性のご両親だ。きっと素晴らしい方なのだろうね」
 血は繋がってないとはいえ、大好きな両親を褒められては悪い気などする筈もない。僅かに頬を染めてこくりと一つ頷きを返せば、暁蓮は家へと続く道を歩き始めた。湖の傍に伸びる一本の細い道。ふと水面に視線を移せば、そこには見事な蓮の花が咲き乱れている。焼かれ荒らされた村の中、唯一ここだけが被害を免れたとも思える程の見事な花。僅か数日しか花をつけないという蓮の花畑。ここだけを見ればまるでいつもと変わらない風景に、暁蓮は酷く安堵した。早く、両親にも自分の無事な姿を見せて安心して貰わなければ。自然と歩む足が速くなる。
 家に辿り着く。扉はしっかりと閉ざされていた。庭で飼っていた鶏の物だろうか、白い羽と血が玄関先に散らばっている。ごくりと小さく息を飲み、そうして暁蓮は扉に手を掛けた。

「父さん、母、さ……――」




 暁蓮を出迎えたのは、家中に広がる紅と、数人の賊の遺体と。

 既に物言わぬ、養父母の遺体だった。

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