暁蓮が郭嘉に救われてから約半日。既に日は傾き始め、あれ程美しく咲き乱れていた蓮は日が昇りきると徐々にその花を硬く閉じていき、今は橙色の光が焼けた村と蓮の蕾を照らしている。あの後すぐに曹操の指示によって兵が派遣され、賊の残党狩りが行われた。近くの山に潜んでいた残党は尽く殲滅され、無事だった物資は村人達の下へと返された。改めて被害を確認したところ、村人の約半数の命が奪われたらしい。村の至る所ですすり泣く声や生き残った人々の声が聞こえていた。
 暁蓮は一人、家の裏手に立ち尽くしていた。目の前には土の山が二つと、その上に刺された木の板が二枚。

 不思議と、涙は少しも出なかった。

「暁蓮」
「……郭嘉、様」
 後方から聞こえる足音に首だけを動かしてそちらを見る。視線の先では己を助けてくれた青年、郭嘉が手に花を持ちこちらに向かっていた。
「……供えても?」
 こくりと首を縦に振ると、郭嘉は暁蓮の隣に片膝をついた。そうして墓の前に花を並べ、暫しその両目を伏せる。
 暁蓮が養父母の遺体を目にした際、郭嘉によってその視界はすぐに塞がれた。おそらくは曹操から命じられたあの時に、この青年は全て察したのだろう。暁蓮が恐慌し、己を失わないようにと共に来てくれたのだと、幾分落ち着いた頭の今なら理解できた。
「あなたのご両親は勇敢に戦われたそうだよ。お陰で裏口から逃げられた、と向こうでご老人が感謝していた」
「韓周のおじいちゃんですね。村が襲われた時に、ここまで知らせにきてくれましたから……」
 助かったのなら良かった、とぽつりと呟く。足の悪い韓周が死ぬ気で走って教えてくれなければ、きっと暁蓮も脱出する事は出来なかっただろう。結果を見れば、養父母は助けられなかったけれど。
 暁蓮は土で汚れた顔を手の甲で拭うと、郭嘉の横を通りすぎて家の中へと入る。扉を開いた途端に溢れる血の匂いにももう鼻が慣れたせいか、何も感じなくなっていた。室内にはまだ賊の遺体が放置されたままだ。暁蓮は中に入り、机の上に置かれた腕輪を手に取った。どちらの物かは分からないが、どす黒く変色した血がこびりついているのを見て僅かに眉を寄せる。
「……大事な物、なのかな」
 郭嘉も隣に立ち、暁蓮の両手に包まれたその腕輪を眺める。びちゃ、と濡れた音がするのは足元の血溜まりを踏んだせいだろう。彼が履いていたのはきっと上質な靴なのに、今ので汚れてしまっただろうな、と場違いな事をぼんやりと思う。何故かおかしくなってきて、暁蓮はふふ、と小さな笑い声を上げた。青年の眉が僅かに上がる。
「兄の形見なんです。……ひとりに、なっちゃいました」
 血を拭うように親指を腕輪に滑らせる。すっかり乾いてしまったそれが落ちることは無かったが、何度か同じ動作を繰り返しながら暁蓮はぽつりと呟いた。
「この先、当てはあるのかい?」
「わかりません。けど……」
 手にした腕輪をそっと己の左腕に嵌める。男物であるそれは暁蓮の手首には大きく、二の腕まで押し上げて漸くぴたりと嵌った。決して豪華ではないが丁寧な細工が施されているそれを暫く見つめ、くるりと郭嘉に向き直ると、暁蓮はにこりと笑って見せた。きっと上手く笑えていないだろうと心の何処かで思いながら。
「命が助かっただけでも幸運ですよね。まずは皆で村を再建しないとだし、やることはいっぱいありますから」
 だから、大丈夫です。
 自分自身に言い聞かせるように、右手を胸に当てて瞳を閉じる。
「……暁蓮」
「あ、そうだ。これ、ありがとうございます。今着替えてくるのでお返し……あ」
 胸に触れて、その手触りが普段着ているものと違う事に漸く気付く。助けて貰った時からずっと、彼の外套を身に巻きつけたままだった。慌てて返そうとして、墓を掘るときにすっかり汚してしまっていたのだと今更ながらに青くなる。
「ご、ごめんなさい!こんなに汚してしまって、どうしよう……」
「気にしなくていいよ。……そうだね、じゃあそれは暫くあなたが持っていてくれるかな?」
「え?」
 郭嘉の両手が暁蓮の肩をそっと叩く。頭一つ分背の高い彼が身を屈め、同じ目線で穏やかに瞳を細めた。その整いすぎているともいえる容姿に薄らと目元を紅く染めるも、郭嘉は優しげに微笑みながらこちらを真っ直ぐに見据えている。
「村が無事復興したら、その時にあなたの手から直接返して貰う……というのはどうだろう」
「……郭嘉様」
「約束だよ、暁蓮。また会える日を楽しみにしているから」
 長い指がくしゃりと髪を撫ぜる。傍から聞けばただ甘い言葉を囁いているようにも思えるが、暁蓮にはわかっていた。
 この人が、自分に「生きて欲しい」と願ったのが。たとえ一人ぼっちになってしまったとしても、ここで全てを諦めて欲しくないと。約束という形を借りて、また会う日まで強く生きてくれと。
(……やっぱり、似ている)
 無意識に腕に嵌った腕輪に触れる。記憶の中の兄も、同じ様に優しい人だった。己より先に彼岸へと旅立ってしまったが、いつでも暁蓮の事を一番に想い、慈しんでくれていた。
「……お約束します。絶対に、そう遠くない内に。必ず、お会いしに行きますね」

  
 大丈夫、この人に助けてもらった命がある。生きてさえいれば何だってできる。


 今度は自然に笑えた様だ。郭嘉も嬉しそうに頷いてくれた。
 この短い時間で何度も自分を助けてくれた恩人に、この先何としても報いたい。自分の全てを賭してでも。暁蓮は静かに誓うと、もう一度深々と頭を下げた。
 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。これから暁蓮がやるべき事は山のようにあるだろう。もう一度腕輪に触れ、次いで先を歩く郭嘉の背を見、暁蓮はもう一度心中で誓いを反芻するのだった。


 君は暁に夢を見る。―壱―  了

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