「っ月子…!」

か細い声だった。涙目で迎えられ、随分と心配させたらしいと今更ながらに思った。領主の嫡子に呼び出される等何があったかと冷や冷やするだろう。
胸に飛び込んできた竹千代を受け止めるとよしよしと頭を撫でた。

「なんともなかったよ。大丈夫大丈夫」

邸を出る時も、我ながら顔が白かった自覚はある。
ぎゅっと服を握られた。ぴったりとくっついた竹千代の顔は見えない。吐く息がほんの僅かに揺れている。…恐怖。竹千代は怖がっている。

「…竹千代?」

竹千代の頭が強く胸に押し付けられた。離すものかと言わんばかりだった。
そんなに心配させたのだろうか。いや、もう少し違う。ただ私を心配しているのとは、少し違うものを感じる。

「月子が…か、帰ってこなかったら…」

6歳の、小さな肩が縮こまっておそろしく小さく見える。多少大人びてはいるものの、現代なら小1。幼稚園児とさして変わらない。この子供は、この時代であったとしても大人の庇護下にあってよい年齢の子供だ。

「わしは…」

震えるこの身体の言いたいことはよく分かる。
ここへ来たばかりの頃、ひとりはいやだと狼狽していた竹千代を思い出す。
ここは織田という勢力の膝元で、邸も家人も全てが織田の人間だ。人質という立場の竹千代にとっては、周囲にいるすべての人間がいつ自分を殺すとも知れない人達ばかりだ。そこに唯一、私という『織田の人間ではない人間』がいる。そんな私がいなくなれば、竹千代は正真正銘独りになる。自分を傷付けないという保証のある人間は消える。
正直なところ、私も危害を与えない保証はあるのかというとないわけではないのだが、織田の人間よりかはマシというところだろう。どこの誰だかは分からない、ただ『織田の人間ではない人間』。たった1人だけれど、そんな『年上の人間』が近くに寄り添っている。
それだけの理由が、竹千代を支えうる大きな理由になる。

「ひとりにしないって言ったじゃない」

竹千代は子供だ。守ってくれるひとがいないとその身も心もあやうい。身を挺してまで守れるのかと訊かれたら、そうなったら、私は竹千代を守れるはずもない。しかもこの身は12歳程度の子供だ。非力である。
それでも縋ってくる竹千代の傍に寄り添うのは、単に竹千代が可哀想だからとかそんな憐憫の情によるものだけではない。
私は竹千代がいないと路頭に迷う未来が見えているからだ。人間多少のことはあっても死にはしないというが、さすがにこの時代は死ぬ。

竹千代にとって私が安心できる場所であるように、私にとっても竹千代は唯一の安全地帯だった。だからこそ竹千代に寄り添うのだから質が悪い。自覚はある。

「大丈夫だよ」

安心させるように頭を撫でて背中をとんとんとあやせば、竹千代は目に見えて肩の力を抜いた。

何を話していたのか、と聞かれて正直答えには窮した。
世話話しかしていない、と返せば竹千代は渋々ながらも納得したようだった。

「…また来いとも、言われていないのだな…?」
「言われてませんね」

なにその恐ろしい発言。
正直上総介にはもうお会いしたくない。嫡子であらせられるので、見ることくらいはあるのだろうけれど。

部屋に帰った私は明日竹千代に教えるための題目を探そうと積みあがった『今昔物語集』を開く。ついでに携帯も開いて辞書ツールを起動する。
それから、明日教える内容をまとめたメモも。この時代、紙は高価でもらえることはほぼないと言ってもいい。
必要なものとして頼めば少しは貰えたが、大した量ではなかった。
人に見せることはできないが、携帯機能をフル活用する時だ。

メモ帳にはその日覚えたこともつらつらと書き綴っていった。でなければこの時代の常識を覚えきることはできない気がしていた。
異端は排除される。近代までその傾向が強かったのだ、私は死にもの狂いでこの時代に馴染む必要があった。
けれど、現代で培った道徳観や考え方も消したくない。馴染んで『今までの私』が消えるのは嫌だった。だから思ったこと、価値観の違いで戸惑ったこと、全部をメモした。
可愛げのない日記のようになったその日課は、今でまだ20項程度。これからどんどん増やすつもりではある。

いつか読み返したときに、この日記が宝物になっていればいい。
 
ゆりのやうに