首にかかる縄
さて、どうしよう。
惜しいところまではいったのだと思う。組織が壊滅する日より先を見たのは初めてだったわけだし、あの刑事に扮装していた男さえどうにかできれば。
結局、最後に俺を殺した工作員も組織解体時に捕まるようにライとバーボンに情報を流すことで同じような経過をたどり組織の施設に強制捜査が入った。
前回と同じように警察署に拘留され知っていることの何もかもを喋る。警察官だとかFBIだとか国選の弁護士だとか入れ替わり人がやってきて必要な事を聞いて出て行く。何度も同じ話を繰り返すのは面倒臭いがまあ仕方ない。
「アメリカに行こう。向こうなら証人保護がある」
「ライって実は暇?ってかそれって国籍関係ないもんなの?」
本気ではないだろうから適当に返事をする。ライもそこまで詳しくないのだろう。『どうにでもなるさ』などと軽口を叩くライは多分俺とスコッチを追わせたいんじゃないかと思う。先にライにいろんな情報を渡して信用してもらった上でスコッチを死んだことにしてもらってアメリカに渡ってもらった。もともとスナイパー要因として組むことの多かったせいかそれとも同じノック同志だったせいか関係性は悪くないらしい。そんなこともあってか、それとも俺の勾留期間が長いせいなのかそれともスコッチを通して関わりが大きかったせいか、多分同じように逃してくれようとしてる。よく顔を出す彼は俺に本当のところ何を求めているのかはわからないけど情報のほとんどはしゃべってしまっているから俺の価値はほとんど無いに等しい。それなのに時間を見つけてはここへやってくる。
「別に保護して欲しいわけじゃない」
「何故だ?組織の情報が頭に入っているスイをよく思わない残党やそれを利用したい他の犯罪組織もいるだろう。このまま日本にいても保護は必要だろう」
「保護じゃなくていいんだ。そのまま裁いてくれれば。どれだけの情報を渡そうが俺が犯罪者であることに変わりはないわけだし。その犯罪を軽減して欲しいわけじゃない。いっそ責任って言うと変かもしれないけどその罪ごと死刑になっても構わない。行動には結果が伴うもんだろ」
一気に捲し立てるとライは何も言わなかった。それ以来今後の話を彼がすることはなかった。
「やぁ調子はどうだ」
それでもライは飽きることなくやってくる。
「普通」
「いつもそれだな」
「朝から『今日は調子いいぞ』って人いるの?」
「君は違うのか?」
「いつもニュートラルでその日のうちにいいことがあればそっちにギアが入るし悪いことがあればそっち。だから普通」
「なるほど」
「忙しいのにわざわざ顔を出さなくてもいいよ」
「君の顔を見れないほどじゃない」
「スコッチか明美が見てこいっていうの?」
ライは返事の代わりに片眉を上げて笑う。ライは顔には出ないが意外と表現豊かな方だと最近知った。
「意外と面倒見いいよね」
「そんな事を言うのは君くらいだ」
「口に出さないだけだろ。ライ、話しかけにくいから」
笑うと体をそらせてバツが悪そうに胸ポケットからタバコを出して禁煙だと思い出したのかそのまま収める。愛想がいい方ではないという自覚はあるらしい。分かりやすいリアクションに笑いが出る。。わざとそうしてくれているのかもしれないけど。
「でも、ライのことは結構好きだよ」
「ホォ。それはどういうところでそう思ったのか是非ともお伺いしたいね」
「確実に急所をつく射撃の腕かな」
苦しまず死ねる。それはありがたいことだった。どうせ終わりはしないのに自分の命が溶けていく感覚を苦痛と共に味わう時間は短ければ短いほどいい。ゆっくりと目を閉じる。
国際組織だったせいか俺の身元をどこで拘留するか決めきらないまま時間だけが過ぎる。ここからもし先に進んだとして裁判とかもっと時間がかかるのかと思うとげんなりする。ただライとこうして無駄話をする時間が楽しみになっていることが自分でも信じられなかった。
一方で一緒に組織が管轄しる施設に乗り込んできたバーボンははじめの取調べでしか会わなかった。まぁ元々バーボンは俺のこと嫌いだったしな、会わないようにライに来させているのかもしれない。もし、俺が最初からずっと正義の味方でバーボンと一緒に行動していれば組織解体を自慢げに話す彼を見れたんだろうか。全く想像ができないけど。
「少年は元気?」
すぐ誰のことかわかったんだろう。ライは頷いて持ってきていたコーヒーが入ったマグカップを傾ける。
「そう。ところで俺にコーヒーはないの?」
拘留されている身にコーヒーの自由はないのだと不満げに視線を向けると少し考えたあと飲みかけのマグカップを差し出してくれるライを笑える程には信頼ができていることが嬉しくもあり、辛くもあった。
だってこの会話を覚えているのは俺だけだ。そしてこの穏やかな時間に縋って辛くなるのも。
時間が俺を置いて進んでいく。そんな感覚を冷めたコーヒーに溶かして流し込む。
その時はすぐにきた。
部屋を移動中だった。
ようやくどこに移送するのかが決まったらしい。警察内のマニュアルや対応までは知らないからFBIとの交渉がどのように行われて俺がどこに行くのかも知らない。興味もない。なるようになる。きちんと裁いてくれるならそれでいい。
模範的だからと移動の際には警察官が1人。話したことは一度もないが顔だけは何度も合わせている彼が前から来る駆け足と言うには重い足音に押しのけられる。
随分乱暴な人間がいるんだな、そう思った。
今度は本物の捜査員らしい。雑多の中、腹に食い込んだナイフが力任せに引き抜かれる。
ずるり
そこから内臓が引き出されるような感覚が気持ち悪い。落ちていく一部に連なった臓器が体外に溢れていく。
「俺の家族を、よくも」
引き抜かれて、また刺される。内臓がナイフにと一緒にまた体へ押し込められる。肉を滑る感覚がやけに鮮明だ。また刺される。押し込まれたナイフと連動するようにどこから上がってきたかわからない血液が口から溢れる。
「妻が何をしたって言うんだ。お前ら犯罪者は1人残らず殺すべきだろう。必死に捜査してやっと手がかりを見つけたと思った。ようやくお前らを引きずり出せると。そんな俺を家で待ってるだけの妻の何が気に入らなかった。関係ない人間を巻き込んで証拠を消すだなんて野蛮なことは人間にできることじゃない。お前らは全員人間じゃないんだろう。だから俺が終わらせてやるよ。なぁ喜べよこれでこれ以上お前たちは犯罪をせずに済む。お前らさえ消えれば。死んでくれ。妻を返せ。あの証拠で出世できるはずだったんだ。そしてローンでも組んで小さい家を買うんだよ。全部お前たちのせいだ。俺がこうなったのも全部全部全部全部全部全部全部。返せ。」
至近距離でブツブツと途切れなく呪詛を吐き出す男は何度も何度もナイフを壊れた機械のように突き出す。
ナイフが短いせいなのか、刺した場所のせいなのかなかなか死ねず「う、がッ、ぁ」と言葉にならないうめき声をあげる俺のことが腹立たしいのか、死なない相手が恐ろしいのか。自分の血で鈍くなっていくナイフの切れ味を皮膚を通して実感する。
幸せだった人間がそれを奪われるとこうなるのか。
1人の人間をこんな風にしてしまった。ゾワリと背を這う恐怖が襲う。そして幸せな生活が奪われることがこんなにも人を狂わせるのかと思うと怖かった。まだ何かを言っている男の言う通りだと思う。組織にいて犯罪に加担し自分では止められもせずいろんな人の手を借りてどうにかここまで辿り着いた。結局何もできない。中途半端な人間がいるせいで。俺が迷っているうちにノックたちは死んでいき、組織に関わった人間の人生を狂わせた。
この人をこんな風にしてしまった。
もうこれ以上刺すところがないというころ、突然のことに呆けていた何人かが我に返った様に男を止めにかかる。男の刺すナイフに支えられてた体が自分の血溜まりに沈む。駆け寄って腹の傷の上に何か布がかけられ圧迫される。そんなものではもう意味がないとわかるほどの体の脱力なのになかなか飛びもしない意識が煩わしい。生きることに執着しているようでみっともない。早く死んであげなくてはと思うが自分ではどうにもならない。唯一動く眼球が必死に腹を押さえているのがライだと捉えた。何かを言っているが言葉が脳味噌に伝導しない。生きて償え?情報源を殺すな?どれだろう。
少し仲良くなったと思っている俺に投げる言葉が呪詛でないことを祈る。何に祈ればいいのかはわからない。
そういえば普通の人が死に際にかけてもらえる言葉って一体どんなものなんだろう。
俺よりも人に囲まれ宥められているおかしくなってしまった捜査員を見てそう思った。
暗くなった意識を引きずりあげられる。
さっきまでミンチだった腹をさするがそこにぬめりはない。さっきまでの触り心地の違う腹にまた始まったことを自覚する。
結構良かったと思ったのにな。
言いようのない虚しさに胸の奥が重く沈む。四肢が泥に沈んだように重い。
きっともうライが優しい顔で話しかけてくることはないだろうな。また彼にとって俺は胡散臭い怪しいガキだろう。よかった。もっと求めなくて。助けて欲しいとか言わなくてよかった。期待をしなくてよかった。
でも、どうにか前進している。
そしてまた組織が崩れた後を手放せずに性懲りも無く繰り返し、警察署と検察署の行き来をしている。上手く立ち回れているつもりだった。終わりに向けて。俺が思いつく限りの正義で。
でもそう上手くはいかない。
次もまたFBIの捜査官だった。
組織解体後事後処理の応援できたという彼は聞き取りのためと言って何度か話をしにきた。今回初めて関わる彼はとてもフレンドリーに話しかけてきた。歳の離れた兄弟がいて俺と同じくらいの年齢だとか、自分の今まで経験した仕事の話とか。俺が適当に相槌を打っても一方的に笑顔で話しかけて去っていく。今までに出会った中で初めての部類の人でどう対応すればいいかがわからない。そんなことにも構わず何か差し入れを持って、相棒の話をしては去っていく。そういう作戦なんだろうか。まず相手を絆させてから情報を引き出そうとするような。そんなことをしなくても大体の情報は引き渡したはずだ。
そして何度目かの面会の時だった。
「なぁ、死んだFBI捜査官とその家族について知らないか」
「情報としては」
「じゃあ、ジェーンのこともお前にとってはただの情報か。死んだってことも幼い娘がいたこともただ紙の上の文字か」
個人名が出てきて雲行きが怪しいな、とは思った。普段の人の良さそうな顔が俯き表情を隠して震えている。
「あいつは俺の相棒だったんだ!上はFBIの情報を流していたと言っていたがそんなはずはない!あいつはそんな奴じゃない」
まるで自分に言い聞かせるように体を震わす男をどこか覚めた気持ちで見る。こんな風に誰かを思うって言うのは羨ましいよりも、気の毒だなと思う。その気持ちに生活の基盤まで揺るがされて、せっかくいい仕事をしているのにそれを棒に振るために腰のホルターに手を伸ばすほどの思い。
「FBIが組織に人を送り込んだように、組織もFBIの人間を利用していたのは間違い無い」
『それがその人かは知らないけど』と言う言葉よりも彼の頭に血が登る方が先だった。ドンと音がして右の肩が吹き飛ばされたような衝撃が突き抜ける。骨が砕ける感覚に強がって「外れ。しっかり狙えよ、捜査官」と脂汗を浮かせながら笑みを浮かべる俺がどう映ったのだろう。今度はしっかり左手でグロックを支え、銃口が胸を向く。怒りで血走った目が正気を失ったように見開かれている。これでしっかり狙ってちゃんと殺してくれるはずだ。部屋の外から足音が聞こえるからサイレンサーのついていない銃声は他の部屋にも届いたらしい。もしくはマジックミラー越しに見ていた人がいたのかも。でももう遅い。
「舐めやがってクソガキが!」
そう言って男の腕に力がこもるのが目に見えてわかる。
マズルから弾ける火花はよく見れば綺麗なんだなって初めて思った。そして意識がとぶ直前にこの捜査員は死んだ相棒の話をして俺の様子を窺っていたんだとやっと気づいた。早く気づいて懺悔すれば未来は変わったのかはわからない。でも心にもない懺悔を聞いて彼は満足しただろうか。俺は、彼の相棒を知らない。
胸を貫いた弾丸で彼の気が少しでも紛れることを願うばかりだ。
瞼が上がる。目を覚ます。自分が自分を自覚する。この瞬間が何よりも恐ろしい。
例えば、人には輪廻があって死んだ後も巡ってまたうまれるのなら俺は前世でどんな業を犯したのだろう。輪廻から外れて地獄にも行けず永遠を繰り返す。その苦しみを知ってくれる人はいなし、そもそも生きている間だって別に俺という人間を大事に思ってくれる人なぞ存在しない。なんのために繰り返すのだろう。俺の魂はどこへ向いていくのだろう。
いつ終わるのかもわからない終わりを求めて繰り返す。何度死んだって痛いものは痛いし、苦しみは変わらない。籠の中の鳥はすでに死んで腐ってしまったのか。最近はどんどん感情が抜け落ちているような感覚さえある。いっそ狂ってしまえれば楽になるのだろか。いっそ、何も感じなくなってしまえれば。なのに頭は勝手に思考を始める。どうしたら止められるんだろう。
見慣れた部屋の見慣れた壁にゴチンゴチンとリズムを刻むように頭をぶつける。もしかすると繰り返しているのも死んだと思っているのも全部この頭の中の出来事で、本当の俺はボロアパートで妄想に耽っているだけじゃないのか。
ぬるっとした温かいものが顔を伝って落ちる。それがこれが現実であることを証明してみせる。痩せこけた体と最近性能が落ちている脳みそ。
そう思うだけ無駄だとわかっているのに考えずにはいられない。ざわざわとうるさい胸を押さえ込むように深呼吸をして写していただけの目を閉じる。
もう、どうでもいい。好きにしてくれ。
なるべく自分で考えないように。
そう思って、人に言われるがままなんでもやった。
自分の意思がないようにまるで人形のように感情を殺してやったのに何度も繰り返される。
囮用の心臓をライの正確な銃弾が貫く。裏切り者の頭をジンのベレッタが吹き飛ばす。瓦礫に埋もれた凶悪犯の上をバーボンが歩く。目的に邪魔だったので美しい女性に注いでもらった慣れない酒で心臓の筋肉が止まる。家族を殺した男の臓器を正義の拳銃が突き抜ける。稼ぎ口を潰した男が海に沈められる。どこで買ったか知らない恨みで腹が裂かれ、知らない情報を吐かせるために足が一本ずつ折られ踏み潰される。昇進のために邪魔だった子供を風呂に沈める。
『お前が組織を潰したんだろう!』『お前たち組織が俺の家族を殺した!』『あなたの覚えていた設計図のおかげで良いオモチャが作れたわ』『大した役にも立たなのになぜ組織にいるんだ』『あなたがに細工すれば誰も死ななかったのでは』『邪魔なんだよ』『親の役に立てて良かったでしょ』
いつだって誰かの邪魔なのだ。
目が覚める。飛び降りる。
目が覚める。頭を撃ち抜く。
目が覚める。首を括る。
目が覚める。ハサミで喉を裂く。
目が覚める。爆発に飛び込む。
目が覚める。交差点に入り込む。
目が覚める。薬を飲む。
目が、覚める。
どうして。
どうすれば。
ここは、どこだろう。
投げやりに過ごしてきたせいか、久しぶりにちゃんと頭を動かすと自分が何をしていたのかわからない部屋で目を覚ます。体を起こして自分の手を見ると比較的大きい。ここまで成長した上で無機質な部屋にいるのは既に組織に引き取られているはずだから施設の中だと思う。ベッドから起き上がって立つのも歩くのも比較的スムーズだからそこまで引きこもって筋力を落としているわけではないらしい。
コンコンと音が聞こえドアが開く。ボディラインを主張するスーツに身を包んだベルモットがタバコを咥えて俺を見据える。
「起きてたのね。買ってきて欲しいものがあるからここにメモを置いて置くわ。9時には戻るからあなたも夕方までには戻ってらっしゃい」
「…わかった」
今回はベルモットと行動しているんだろうか。ベルモットは俺に優しかったけど、俺のことを好きなわけじゃなかった。だからずっと一緒に行動することは無かったような気がする。いつ、何があったっけ。考えるのが面倒臭い。思考にもやがかかったように脳味噌の中で上手く電気信号が作用しないらしい。人間、死にすぎると脳みそもバカになっていくんだろうか。唯一の取り柄だったはずなのに。
★買い出しに来たデパートの騒がしさが居心地悪い。人が多いところに来ることが少ないし、どこを向いても家族や友人を連れて歩いている。一人でいるのは自分だけなんじゃないかと錯覚するほどに。
欲しいものがあれば買っていいわよ、と走り書きされたベルモットのお使いメモには男用のスーツの受け取りとワインとチーズだったので上から順番に済ませようとエスカレーターに乗る。通り過ぎる人を見ては年齢や職業を想像する。若い2人は学生かなとかいい靴を履いてるから医者かなとか。誰も彼もが楽しそうで隣の誰かに顔を綻ばせている。ここから出ても家では待っている人がいるし、必要としてくれる場所がきっとある。家族や恋人や友達とか多分きっと唯一無二の人が。
例えばバーボンにとってのスコッチとか。
例えばライにとっての明美とか。
例えば工藤にとっての毛利蘭とか。
例えば俺にとっての誰だろう。
父と母だった人は俺を出世の道具として見ていた。組織での俺は代えのきく駒だし、ライやバーボン、ノック達にとってはいい情報源でしかない。工藤にとってもただ協力してくれる人間ってだけで別に特別ではない。俺にとっての俺も別に大事ではない。自分の中に1番がない人間は誰にとっての1番にもなれないと言うことだろうか。
ぐるぐるとエスカレーターを登る。横にある鏡に幽霊のような自分が映る。
そういえば一度だけライが迎えにきたことがあったな。組織に連れてこられて少ししたくらいのまだ銃の組み立てしている頃にほとんど人がくることのない部屋をノックしたのがライだった。部屋から出ようといったライが何をしたいのかわからず手を振り払った。その後は任務について行って流れ弾で呆気なく死んだので結局ライが俺をどうしたかったのかは謎のままだ。
目的の階でエスカレーターから降りる。ずっと勝手に動いていたので自分の足を動かして歩くことに浮遊感を覚えながら目的の店まで歩く。店員に名前を告げ、伝票を渡す。プロは不気味なガキにも丁寧にお辞儀をして手際よくスーツを渡してくれる。『高級な店は商品へのこだわりはもちろんだけど、買う人間の品性を上げてくれるから好きよ』とベルモットが言っていたのはきっとこういうことなんだろうな、と思いながら上がってきたエスカレーターを今度は下向きに進む。
なんだか騒がしい。ざわついているというよりもパニックに近い人の流れを通り過ぎる。すれ違う人たちの顔があまりにも必死なので気になって目的ではない階で降りる。流れとは反対方向に進めば進むほど混乱しているようで状況がわからない。普段なら構わずに通り過ぎていたはずなのに混乱の元に向かって行ってしまうのはいろんなことを考えすぎていたせいだろうか。
「何故、ここに?」
ほとんど人がいなくなったデパートのど真ん中に険しい顔で立っていたのはまだ高校生の姿をしている工藤だった。何故、こんなところで。不安そうに駆け寄った女性の顔を見て誘われてやってきたのだろうかと想像する。見栄えのためだろうか、エスカレーター近くの観葉植物の下にある紙袋を仕切りに気にしているようだった。
「何があったんですか」
通りすがりの中年の男に話しかけると脂汗をかいた顔で「爆弾が仕掛けてあるらしい。高校生探偵が言ってたから間違いない。君も早く逃げたほうがいいぞ!」と早口で捲し立てて去って行った。
なるほど、それなら彼がわざわざ残っている理由もわかる。
「初めまして。警察関係者ですが、状況を教えてもらってもいいですか」
なるべく自然な笑顔をしたつもりだけどどうだろう。
「ええ。実はこの紙袋の中身が時限式の爆弾のようです。脅迫などがあったと聞いていませんか?」
初めましてな工藤は少し不審そうな顔をしてるけど返事はしてくれた。警察関係っていうには若かったかな、何がよかっただろう。犯罪の専門家?する方だと知ったらどんな顔をするのかは見てみたい気がするけれど。どうやら彼は毛利蘭を非難させたいようだが、彼女の方も工藤を心配して残っているようだ。
『ご来館の皆様にお知らせです。当館5階にて火災報知器が稼働いたしました。安全確認のため皆様には1階への移動をお願いいたします。またお客さまの集中を避けるため、エスカレーターおよび階段の利用をお願いいたします。ご迷惑をお掛けしております』
おそらく彼の指示で動いた従業員により上の階の客を避難させるための放送が鳴り響く。上手い言い回しを思いつくものだな、と感心しながら紙袋を覗く。
「あいにく非番なのでそうした情報は聞いていません」
怪しまれないよう適当に相槌を打つ。どうやらお手製のプラスティック爆弾のようだ。タイマーが仕掛けられているが、受信機もついているので遠隔で起爆もできるんだろう。時間はおよそ5分。
「ただこの手の犯人は自分がしたことを確認したがる傾向にあるので外の野次馬に混じっているかもしれないですけどね」
「確かに」
険しい顔で口元に手をもっていった彼の頭ではもう犯人探しが始まっているのだろうか。まぁこういうのは連続したりするから俺の知らない情報を繋ぎ合わせてるのかもしれないけど。しゃがんでいたのを立ち上がると一瞬目の前が真っ暗になる。ゆっくり深呼吸して遠目で居所を無くした体をソワソワさせている従業員に向かう。
「屋上って解放されてます?」
「い、いえ、鍵が必要になっております」
「持ってますか?」
「はい!」
ポケットというポケットを探してでてきた小さな鍵を受け取る。警察関係者と名乗ったのはよかったかもしれない。すんなりと渡された鍵の溝をなぞる。
「あ。この荷物。スーツなんですけど預かっててもらえます?」
「わかりました」
「ありがとうございます。ではお客さんを誘導しつつあなたも避難してください」
「は、はい!」
『ゆっくり、落ち着いて進んでください!』と声を上げながらエスカレーターに向かっていく彼を見送るとほったらかしになっている紙袋を持ち上げる。見たところ水平器も圧力感知器もついていなかったので大丈夫だろう。
「君たちも危ないので避難して。見たところ単純なものだから人気が少ないところで解除します」
「それじゃああんたが危ないだろ!」
「解除の仕方を知っている人間がせっかく居合わせたんだから活用したほうがいい。それに彼女も君がいないと不安そうだ」
横にいる毛利蘭に視線を移すと彼女も俺の意見に同意するように不安げに工藤を見上げる。毛利を危険に晒すまいとずっと悩んでいたのだろう、「警察が到着した後の状況説明のためには下にいて欲しい」というと渋々納得したようで避難者の波に紛れていく。
どうにか説得できたようでよかった。反対方向とは対照に誰もいない上りのエスカーターに乗る。カバンの奥に沈んだ普段あまり触ることのないスマートフォンでベルモットにスーツはデパートのカウンターで受け取るようにメッセージを送る。返事が来る前に鞄へしまう。わざわざ解除をするつもりじゃないので死ににいく階段をのぼるような、象徴っぽくてちょっと面白い。別に死にたいわけじゃないんだけどなぁ。生きたくないだけで。もがいて考えてしんどくないならなんでもいいのにそれが叶わないから死ぬしかないってだけで。理想通りは難しい。理想と現実に折り合いをつけられないから、ヒーローにもヴィランにも成れない。難しい。
上の階にいくにつれて人がどんどん少なくなる。避難誘導がうまく行っているのか最上階には誰もいなかった。エレベーター奥の階段を利用して屋上を目指す。預かった鍵は返せないのであの従業員が怒られませんように。あと、俺が死んだことで工藤が後悔しませんように。この規模の爆弾ならビル全体は倒壊しない。最上階の柱が少ない場所、もしくは屋上で放置すれば被害が少なく済むであろう爆弾を抱えて死ぬのだから自己責任だ。たぶん上手く身元不明遺体にはなると思うけど破片を集める係に当たった人にはまぁ申し訳ないとは思う。というか、戸籍があるかも定かではないので人の形をしていても身元不明は不明だと思うけど。組織に関連するものは何も持ってないので調べた警察官が狙われるってこともないはず。
無造作に置かれたコンクリートブロックに腰をかけて膝の上に紙袋と鞄を置く。ふと見上げた空が高層階のおかげか他のビルに邪魔されず広範囲に青が広がっていたのでブロックから降りて横になる。時折飛んでいく鳥はなんていう名前だろうか。今度図鑑でも入れてみようか。腹の上の紙袋がピピピと規則的な音を立て始めた。
雲一つない初夏の空があまりに眩しくて目を閉じる。
- 27 -
*前次#
ページ: