幕を下せ
目が覚める。
目が覚めたと自覚したと同時に瞼が開く。断片的な映像記憶が流れて気持ちが悪い。前は何をしたんだっけ。飛び飛びの会話が空耳のように鮮明に思い出さてうるさいくらいだ。人間の脳は一定以上の情報を詰め込むとダメになるらしい。前にどうやって死んだかが本当に思い出せない。結局USBにさえなれない役たたずはうるさい記憶の中の会話たちが静まるのを待つしかない。瞼を閉じるのにチカチカと弾ける瞼の裏さえ鬱陶しくて手でこめかみを抑える。息を吸い込んで吐き出す。全身に酸素を運ぶことをイメージしてなるべくゆっくり、深く沈み込むように。しばらくそうしていると記憶たちが静かになる。それから再び開けた瞼が写す天井に違和感を抱く。いつもの部屋じゃない。何度繰り返したかわからない人生に見慣れた何もない部屋の天井はこんな白ではなかったはずだ。
わからない、ということがこんなに怖いと思わなかった。違う何かに心臓が早まる。とりあえず状況をと目玉だけをぐるぐると動かす。人は誰もいない。それはいつものことだ。落ち着け。一度大きく深呼吸をしてから体を起こす。こわばった体に力を込めるがなかなか動かない。しっかり腕に力を入れて要るつもりなのに上半身を起こすだけで筋肉痛を起こしそうだ。ゆっくり指を開いて閉じる。それだけで指をつなぐ関節が軋む。指先が嫌に冷たいのは前を思い出せないせいだろうか。正確には思い出せる記憶のどれが直近だったかがわからない。情報のキャパシティを超えたのに繰り返す意味はなんだろうか。こういうことが増えてくると自分の脳みそに自信が持てなくなってくる。俺が持っているのは今回の世界で通用する正しい情報なのか。情報が引き出せない俺を誰が必要としてくれるんだろうか。ノックにも、組織にも要らない俺の利用価値ってなんだろう。指先から冷たさが登って心臓まで凍りそうだった。
考えても仕方ないことだとわかっているのに頭の中にもう1人自分が存在意義を問いかけてくる。うるさい。そんなものは最初からない。俺なんて早く消えてしまえ。いつだったかの小さな工藤が『おにいさんは何も悪くない』と叫ぶ。同時にバーボンが『あなたのせいで』と冷たい目線で俺を見る。ライが役に立たない俺をじっと見つめる。明美が『死なないで』と俺を見つめる。志保が『私はそれでも生きると決めたわ』と俺を見ずにいう。ジンが『地獄で待ってろ』という。FBIの捜査官が『クソッタレ』と吐き捨てる。死んでいった俺が影から『早く逝こう』と言う。
「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」
吐き捨てた言葉が喉に引っかかる。
「ゴホッ、ガッ、っ!」
一度えずいたのをきっかけになかなか咳が止まらない。息ができなくて頭がボーっとする。喉が乾燥してはりつく。そのせいで深呼吸をしようにもできない。このまま死んでしまうんじゃないかと思い始めた頃に落ち着いく体が嫌になる。たったこれだけのことで全身が痛い。よっぽど弱っているのか体力がないのか。最悪の目覚めだ。
「あー、しんど」
何もかもが嫌。どうしようもなく嫌。本当は全部がどうだっていい。組織の人間が死のうが、ノックが何人死のうが、自分がどうやって死のうがどうだっていい。動かない体に思考だけが巡る。できれば組織は解体されて欲しいし、ジンも死んでほしくはないし、ノックだって生きて欲しい。明美と志保にはずっと仲の良い姉妹でいて欲しいし、工藤には組織には関わってほしくない。なんなら出会わず自分の好きなように探偵業に勤しんでほしい。でも絶対そうはならないのだ。何度やっても工藤は小さくなるし、なんとか明美を生かせても俺が繰り返した時点で組織に関わりがあるから簡単に志保には合わせてやれないし、ノックだって全員が全員を助けられるわけじゃない。どうしても手からこぼれ落ちていってしまう。これ以上どうしろというのだ。何もできない。どうにもならない。だから神様、俺を終わらせて。役不足です。
脳みそを駆け巡る思考が気持ち悪くて頭をぐしゃぐしゃを掻きむしる。その手がぐんと何かに引っ張られて腕に何か管がついていることに気づく。管の先を視線で辿っていくと金属の支柱にビニールの袋がぶら下がっている。生理食塩水。ああ、病院か。通りで見覚えがないわけだ。病院で始まることがあっただろうか。わからない。どうだったっけ。ポタポタと規則正しく液体が落ちる。それが管を伝って腕の血管から体内に入る。背中にゾワっと悪寒が走る。
この液体はなんだ。
生理食塩水って書いてあるのに得体の知れない何かが入っているんじゃないかという思考が脳を這うように湧き上がる。管を通って血管から無数の虫が体の中に入ってくる。何かが体を蝕んでいく。そう思うともう止められなかった。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。自分のものではない何かが侵食し、自分を飲み込んでいく。止めなければ。腕に伸びる管を無理やり引っ張るがしかしテープで固定されたそれはなかなか抜けない。思いっきり引っ張るとようやく抜ける。体内から出た針先が弾けて床に転がり液が漏れる。それを見てやっと深く息ができる気がする。吸って、吐く。そうだ、ここはどこだったっけ。組織の医務室ではないし、警察病院だろうか。拘置所で刺された時とか生きて続いたとこがないしとりあえずここを出よう。体を起こしベッドから立ち上がろうとしてへたり込む。どうやらこの体はしばらく動いていなかったらしい。這う様に扉へ近づき壁を頼りに立ち上がる。頭の中が回転するような眩暈が気持ち悪いが足を動かす。ここはどこだ。今どうなってる。状況を把握しろ。
鉛の様な足を引きずる様に中庭に出る。向いにも大きな建物があってひっきりなしに中庭を介する通路を白衣と自分と同じ病衣がいったり来たりしている。その中に見舞いであろう普通の格好の人たち。どうやら警察病院ではなく一般の病院らしい。
通路から離れた木の陰に人気のないベンチをを見つけて腰を下ろす。
「ふーーー」
空気と一緒に疲労も吐き出せたらいいのに。こんなに動けないなら目が覚めたところで何もできないんじゃないだろうか。どうせ現状がわからないのだ。一回死んでやり直すというのもアリかもしれない。鬱陶しいほどの青い空と背の高い建物が目に入る。今しがた出てきた入院棟の方が高いな。そう思いながらぼんやりみていると視界の端に違和感を覚える。建物か行き交う人かただのデジャブかと目を凝らすと大股で歩く金髪が遠目に見える。見知った顔に脳が反応したらしい。忙しそうな彼は今バーボンだろうか。
なんとなくバーボンが入って行ったので同じ建物に入る気になれず色んな人たちを眺める。病衣に寄り添う笑顔たちが微笑ましいようで煩わしい。それなのに視線で追ってしまうのだからどうしようもない。そのうち暑苦しいくらいの黒が通り過ぎる。追うように小さな人影も。なんとなく見覚えがあってようやく赤井と工藤だとわかる。あれ、こんなメンバーが揃うような場面ってあっただろうか。あるとすれば組織を潰しに来たとかその辺だろうけど揃って病院に来るほどの関係性だっただろうか。実は組織解体後で俺の事情聴取とか?いやそんな場面に工藤を連れてくるだろうか。組織解体前で任務で俺がヘマしたとか?組織関係ありそうな俺を追求しに?
お巡りさんに囲まれる理由はたくさんあるが考えても今回の自分の前後がわからないのだから正解に辿り着くわけもない。結局考えるだけ無駄なのだ。
背もたれに体重を預けて空を見上げる。青い空と雲が流れる音。遠くで聞こえる人の声。大きく息を吸う。今死にたい。こんな穏やかな時に人の気配を感じながら。ゆっくり目を閉じる。ゆっくり息をすると土の匂いがする。こんな凪いだ気持ちのまま死ねたらきっと未練はないだろうに。
「おにいちゃん、大丈夫?」
足元からする小さい者の声に現実へ引き戻される。声のする方に目をやると誰かの付き添いだろうか。女の子が心配そうに俺を見ていた。そんなに具合が悪そうに見えただろうか。
「ありがとう。大丈夫だよ」
存外自分からでた柔らかいに声に驚きながら頭を撫でようと手を伸ばした。腕が赤い。そういえば点滴を引っこ抜いたな。彼女が心配していたのはこの腕か。咄嗟に隠すように反対の腕で頭を撫でる。微笑んでもう一度大丈夫というと不安そうな顔が少し笑顔になる。優しい子だ。
少し離れた場所で母親らしき女性が見守っている。いい親何だろうな、とぼんやり思った。
「花ちゃん、行くよ。えっ、あっ、大丈夫ですか?」
その女性が女の子を迎えにくる。そして赤に気づく。
大丈夫なのでと言う俺を置いて看護師を呼びに行った彼女の優しさで思いの外大騒ぎになってしまった。2人の看護師に付き添われ処置室だろう場所に移動する。大量出血に見えるが布を退ければ小さな針穴しかない。ガーゼでしっかりと抑えられているうちに脱走したことがバレた様で慌てた様子の別の看護師がやってきて何かを言っている。内容が頭に入って来ないのは閉まる扉の向こうに見たことのある金と黒をみつけたせいだろうか。どうやって逃げようかと思っていたのに小さなノックが聞こえて無情にも扉が開かれた。
「目が覚めたらナースコールを押すなりしません?」
くっきりと深い皺を実年齢よりも若く見える顔の眉間に刻みながら発せられた第一声がそれだった。
「バーボン、元気そうだね」
「あなたよりは」
呆れたという顔で変わらず少しの嫌味っぽく応えるバーボンに変わりライはそのやりとりをじっと冷めた目で見ながら俺が目が覚めた報告でもしているのかどこかに電話をしている。なんだか観察されている様で居心地が悪いが、まぁ所詮犯罪者なので仕方ない。目が覚めた後の検査をしたいということで病室まで戻ることになった。今の体は検査が必要なくらいには意識がなかったということだろうか。いかんせんこの状況になった記憶がさっぱりない。初めてのルートということになるんだろうが前がわからないので今後の参考にもならないスタートだ。自分の意思を持たず動く車椅子の上で吐いたため息は誰にも気づかれずに消えていった。
右に左に曲がり、流れる人の服装が普段着から自分と同じものを纏った人が多くなったところでエレベーターに乗る。病室に連れ戻される道中は施設の奥にあるクッションが引かれた部屋へ連れ戻される時と同じだなとなんとなく思った。そして病室にはなんと工藤が待っていた。え、いや、なぜ。
「心配したんだよ、スイさん」
そういって駆け寄ってくれるのはありがたいが、ますます自分の置かれた状況がわからない。工藤と顔見知りでライとバーボンが一緒にいる世界線はどれだ。
「俺は捕まったの?」
「組織の関連、まぁ下請けみたいな連中を調べている場面で爆弾が仕掛けられていると解りまして。現場に駆けつけるとどうしてかコナンくんが居てね。その現場に君もいたんですよ。爆弾処理よりも避難を優先している間にタイマーが起動してしまいどこに逃げようかと思っているところに君が僕達を庇ったんですよ」
「覚えてない?」
「覚えてない」
通りで体に細かい傷があるわけだ。車椅子から降りてベッドの端に腰掛ける。
「ライは?」
「組織に関する情報を匿名で送ってきていた人物の特定を任されている」
「なるほど」
それが俺だとほぼ固まっていると。つまりもう組織は解体寸前もしくは解体後だというわけか。このまま行っても拘置所で死ぬ未来だろう。警察か、組織の下っぱか誰かの恨みで。ここから何かを変えるためには情報が少なさすぎる。せめてこのぐちゃぐちゃの頭の中をどうにかしたい。取り止めのない記憶が行ったり来たりしている。前後の記憶もなければいいまでの繰り返しの中でバーボンと工藤を庇った覚えもない。やり直そう。もういい。適当に死ねば今度はわかる時に戻るかもしれない。何かを言っている3人を聞き流して開きっぱなしになっている窓を見る。あまり幅はないがこの骨と皮なら通れるだろ。大きく歩幅をとってこれ以上ない自信のある歩きで窓へ寄る。実際にはフラフラとおぼつかないが覚悟だけはある歩きで柵に両手をかけてその勢いのまま足を上げる。思ったより窓の位置が高くて股関節が痛い。飛び越えた。そう思った。
「ぐえ」
凄い勢いで襟を掴まれ自分の体重で首が絞まる。宙ぶらりんな体を服だけで支えられる。転落死じゃなくて窒息死する気がする。何が起きた。今ごろ地面を這いつくばってるはずだ。
「ふざけるなよ」
上からバーボンの低い声が聞こえたのでこのまま引き上げられるのが怖い。一緒に掴んでいるらしいライも「とりあえず引き上げよう」という声が温度を失っているので違う死因になりそう。大人しく欄干に足を乗せて降参と両手を上げると引き上げられる。病室の床を踏むとすぐに窓が閉められ施錠される。
「何をしようとしたの?」
1番怒っているのは工藤だったらしい。床に転がった俺に駆け寄ってわざわざ窓側を背中で塞ぐ。わかりきったことをわざわざ聞くあたり性格が悪い。
「やり直そうと思って」
叱れる子供のように床を見ながら小さな声でいう。こんなことを言ってもわかるわけはないのについ口が滑った。案の定わけがわからないという顔をされて「やり直しなんてきかないんだよ」と子どもに諭される。だといいのになと思っていると顔に出たのか余計怒られた。そのあとバーボンの手によってセーフティの様なものが設置され窓は10cmほどしか開かなくなった。これから検査で移動のあるこの先3日ほどは交代で誰かがこの部屋に居るそうだ。信用ないなと思ったがそもそも人間関係を築けてる間柄じゃなかった。
目が覚めてしばらくは安静に、ということでもないらしい。目まぐるしすぎて本当に目が回った検査を終えたと思ったら今度は精神科、カウンセリングというやつである。この辺は自分のせいでもあるので大人しく従う。本日のお供は小さい工藤。
「わざわざ悪いな」
そういうと飛び降りようとして以来移動の度に握られる手に少し力が籠る。他に忙しいだろうにライとバーボンもよく見る。今日も後で来ると工藤が言っていた。診察室には1人で入るように言われたので工藤には待合のソファで待ってもらうことになり閉まるドア越しに手を振る。椅子に座った俺を見てなんでもない世間話を始めた医者を見る。ワイシャツを着てネクタイこそしていないが白衣を羽織り清潔感のある若い医者は今まで見たスクラブを着ただけの医者よりも医者らしく見える。
「何か、しんどいとか辛いとか悲しいことがありますか」
優しく問いかくけてくる医者に何て答えればいいのかわからず曖昧に笑う。きっと俺のそれは誰にも理解ができない。ただこの人が持つ知識で辛いだのの感情を無くしてしまえないだろうか。
「夢を見るんです」
「夢?」
「そう。何度も死んでしまう夢。シュチュエーションは毎回少しずつ違うんですけどどうしてかそこから未来へ進まない。で、繰り返さない様努力してみるんですけど結局変わらない悪い夢」
「夢の中でご両親やご家族は出てきますか」
「時折」
「いつ頃からその夢は始まりましたか」
「随分昔から」
「そうですか」
比較的素直に答えれたんじゃないだろうか。だからこの夢を終わらせてくれる方法でも教えてくれないだろうかと何かを考える風な医者をじいと見る。
「夢と現実が曖昧になることはありますか」
あ、これはダメだ、と思った。当たり障りなく接してくれてはいるけどやはり根本を理解してもらえるわけじゃない。
「いいえ」
わかっていたことではあるけど精神病として扱って欲しかったわけではないのでそこからまた適当に話を合わせる。もちろん『死にたいですか』という質問にも優等生の若く否と返して。積極的に死にたいわけではないから嘘は言ってない。ありがとうございました、と診察室を出ると待っていてくれた工藤から伸ばされた手をとる。
「そうだ。返しとく」
「え」
小さな手を解いて診察室に入る前に袖につけられた盗聴器を外して手渡す。一応これでも悪の組織にいた人間なのでこういうのは敏感なのだ。情報集めの為に自分が使っていた手段だからっていうのもあるけど。
「一緒に入ってくれても良かったのに」
「えっとあのこれは!その…」
気になるなら聞いてくれればいいのだ。組織のことでもなんでも。何かを言おうとする工藤の頭を撫でてから手を繋ぎ直す。本当に気にしていないので構わず歩き出すと少し遅れて工藤が横に並ぶ。盗聴器よりも下手に精神疾患などと診断がつく方が厄介だと気付かれない程度に肩を下ろす。
★
今日も今日とてバーボンが自分で買ってきたリンゴを器用に剥いでくれているがそのナイフは希死念慮に取り付かれていると判断された患者の部屋にはないので毎回わざわざ持ってきているらしい。時折持ってくるサンドウォッチや焼き菓子も自分で作るらしい。器用なものだ。
「悪いがカルテを作るのに個人情報がいるそうだ。我々も君の詳細は知らない。教えてもらえるか」
ノックして返事をしないうちにライが入ってくる。片手にある書類は情報を書くためのものだろう。入院して、正確には意識が覚醒してしばらく経つのに今更すぎやしないだろうか。と思ったがまぁ自分が飛び降りようとしたせいでそれどころではなかったのかもしれない。人目があるところでやり直そうとした申し訳なさもありわかるところは応えようと最近使っていない頭を動かす。
「名前は公安当たりが知ってそうだけど佐藤 春。生年月日は把握してない。多分二十歳くらい。血液型は検査ついでに調べてあるんだろうし。身長体重も計らされたし、個人情報か…。組織所属だった親は死んでて俺も犯罪者。既存の情報かもしれないが両親が組織の人間だったがもう死んでる。シェリーのとこと似てるけど組織の任務に失敗して処分されてる。そこから派生した子供も優秀とは縁遠いから一緒にするのは失礼か?そんな感じだから俺の戸籍があるかも怪しいからな...。」
他に何かカルテや捜査上必要そうな情報ってなんだろうか。なんなら戸籍があったとしてももう鬼籍になっている可能性もあるし結局今言った情報は無意味かもしれない。名無しの権兵衛でもジョーンドゥでもかまわないよと冗談めかして笑うが微妙な顔をする。
「スイ、というのは」
「渾名?酒にもなれないただの水。こっちで慣れてるからスイで呼んでもらってかまわないよ。なんかプロフィールスカスカで申し訳なくなってきたな。そっちで適当に足しといて」
住所と連絡先は組織にするわけにも行かないし命の危機に連絡する相手もいないし。提供できる情報がきれる。他のことなら色んな情報があるのに脳みその中で自身に関する情報が1番少ないのかもしれない。まぁ必要だと思ったことはないし、実際に必要だったことはない。きっと犯罪組織の小間使くらいの内容で事足りる。
それから日が過ぎるとともに精神科の診察や体の検査が減る。それに比例して警察とFBIの取り調べが増えていく。ライとバーボンと時々工藤が病室にパソコンと誰か部下を引き連れてやってきていたが体の回復と共に移動して談話室や正式な取調室での聴取が増えた。隠すことは特にないので組織の何もかもを話してはいるものの、如何せん脳みそがダメになってきているのでいつの時点での情報かが自分でもわからない。都合よく爆発に巻き込まれているから後遺症だと思ってくれている様だが、既に死んでいるメンバーやノックもいるようで情報の裏付けが大変そうだ。
順調に検査も済み、無理な運動をしなければ身体は問題ないと判断された。身体は。問題は俺の処遇である。一応犯罪組織の人間だが結局調べてもらった結果戸籍上は3歳で死んでいるそうだ。復籍という手順にも時間がかかりその分裁判も遅れる。それまでの間どうするか、それが今1番の問題らしい。別にそのまま拘置所とかでもいいのに罪状が決まっていない人間は入れられないらしい。かといって放り出してしまうには重要参考人であるが、住所がない。賃貸を借りようにも戸籍がない。疑わしきは罰せずなんてものを恨む日が来るとは思わなかった。さっさと死刑にでもしてくれればいいのに。
なぜかどうして、執行猶予よりも軽い保護人という形で処分保留となった。
FBIとしては情報と交換を前提に罪に問わずなんなら証人保護プラグラムを適応すべきと言っているらしい。その必要はない、他の組織のメンバーと同様に扱ってくれとライには言ったが片眉を動かされただけだった。一方の日本警察としても重要組織犯罪の証人である、という十分な犯罪者扱いかと思ったが、推定未成年、戸籍も結局2歳で鬼籍に入っているのでまずは家庭裁判所に戸籍の復活を申し立てるところから始まるから処分保留。そして逃げる様子はなく、その手段もないと判断されたので釈放の運びになったんだけどどうしようか。ここまで今後の話が出てきたことがないので何をどう準備して行動するのが正解なのかわからない。なるべく今まで顔を見たことある捜査員には近づかない様には気をつけたけど向こうが一方的に俺を知っている場合は防ぎようがない。それに拘置所から出るとして、現住所が警察病院とか拘置所でも部屋って借りれるものなのか、それに一応もらっていた組織からの給与は財産差し押さえとかになってるなら使えないのでは。
まぁここから出る前に殺されなければの話なのだが。嫌っていた組織からいざ解放されても何もできない人間なのだと知らしめられて自分の無能さに落ち込む。結局1人では生きていけないのなら組織で大人しくしていた方が良かったのか。そうは思いたくなかった。自分のなりたかったヒーロー図からかけ離れてしまうことは置いといてもこれまで繰り返した何回もが全て意味がなかったと、自分の首を絞めていただけだとは思いたくなかった。いっそ、悪役に憧れられたら。いっそ、何人殺しても平気になれたら。悶々と病室と取調室を行き来する。比較的顔を知っている人間がいるのは多分配慮があってのことだろうと思う。
今日はライがわざわざ病室まで迎えに来てくれたので後ろに続く。このペラペラな浴衣にも慣れてきたのに釈放とは。連絡通路を使い小さな取り調べ室へ向かう。部屋に入るといつも待機している補助的な人がいない。まぁ日本警察の場合はパソコンへの調書の記録と録画をするけどFBIの方ではしてなかったと思うからそう言う国的な違いのうちだろうか。固い椅子に座って伸びをする。長時間は医者が止めてくれているようなのでありがたい。このクッション性のない椅子は肉のない尻を容赦なく痛みつけてくるのだ。
「どこまでしゃべったっけ」
「今日はその話じゃないんだ」
「ふうん」
「君の身元を俺が引き取ろうと思う」
「は?本気で言ってる?」
「冗談を言うように見えるか?」
「意外と言うのは知ってる」
「そうか」
「何故わざわざ面倒事を?」
邪魔だろうと暗に言ったつもりだが伝わったのか伝わらなかったのか、いつもと変わらぬ表情で見てくるのが余計に何を考えているのかわからない。そもそもライが他人の世話をするタイプは見えないのに書類上も実際も犯罪者の俺を引き受けるほどのメリットが何かあるだろうか。一応情報を持っている人間なので組織は勿論、他の犯罪者のカモだろう。そんな人間を引き取った上で死んだらライが責任を取らされるんじゃないか。それを加味してもライ個人にとって俺が有益である理由。使えない脳みそを回転させるがそもそもここから先は殺されてるので先の情報がない。組織が解体された今、俺を有効に使える場面があるだろうか。
「君に救われた人間は多い」
「はは、大袈裟な人間も居たもんだ」
悶々とイかれた犯罪者の使い道を考えているとあまりに神妙な顔でいうので笑ってしまう。正義をかざす人間からも、犯罪を生業とした人間からもお前のせいで、と殺されるのを待つばかりの男に救われたという人間がいるなら随分不幸な目に遭ってきたんだろう。可哀想に。カウンセリングを紹介してやってくれ。首を振るともうその話題は出なかったから話は終わったのだと思っていた。思っていたのは俺だけだったらしい。
「今日は休みをとってあるから行きたいところがあれば寄れますけど何かあります?」
「日用品は大体あるんだろう?」
「ええ。すぐ生活できる準備はしてあります。なのでスイの希望を聞こうかと」
「え」
なんの気なしに聞いていたから自分に振られると思ってなくて困る。行きたいところ。行きたいところ。ぐるぐると言葉だけが回って何も思いつかない。何よりこのメンツで同じ車に乗っている状況を飲み込めていないのだから、行く先なんか勝手に決めて欲しい。
終わったと思っていた身元引受の話をライは本当に進めたらしく、それならばと日本の警察側から名乗りをあげたらしいバーボンが話をそれらしくまとめ保護兼監視を目的として2人が俺の身元引受人になったそうだ。これを聞いたのは上司に話を通し、必要な書類を集め、各機関からの了承を得たあとだったので当事者たる俺に拒否権はなかった。
「ライは?」
「スイの行きたいところに興味がある」
「ええ...」
返事を待つようにエンジンがかけられたままの車は発進の気配を見せない。このまま住居に行って、俺を置けばこの2人はまた仕事に戻ると思っていたし、今後の身のふりは裁判所が決めて自由はないだろうなと思っていたので俺自身の意思を聞かれると返答に困る。ノックが死なないこと、工藤が無事なこと、それ以外は全て組織や幹部、ジンに従ってきたから何をどう決めればいいのかわからない。自分の行きたいところ。行きたかったところ。ずっと行きたくて叶わなかった場所。
「どこでもいい?」
「ああ」
「これからの生活や、組織に関係なくてもいい?」
「もちろん」
「えっと、例えば水族館でもいいの?本当に全然関係ないし、有益でもないんだけどそういう感じでもいい?」
「水族館か。いいじゃないか」
「そうですね。僕も久しく行ってないので楽しみです」
「本当にいいのか、そんな簡単に決めて」
了承されると思ってなくて戸惑う。何度も憧れて諦めていたところがこんなに簡単にいけてしまえるもんなんだろうか。行けるなら行きたいと思っていたはずなのにそれが本当になると思うと怖い。荷物が大半を占める車内後方で身が縮まる。妙な居心地の悪さを抱えて何度も本当に行くのかと聞きながら辿り着いた建物に身がすくむ。
結論を、言うと。とても楽しかった。
薄暗い館内、美しいライト、足音が響かない様に柔らかい床、ライトに照らされて揺らぐ波、色んな魚、クラゲ、大きな蟹、思ったよりも大きかったイルカ。ずっと病院生活で体力がないのが悔やまれるほどに楽しかった。大きな水槽の前には椅子が置いてあっていつまでもそこに居れそうだった。少し後ろからついてきたライは聞けば説明文を読んでくれたし、バーボンは食べられる魚を教えてくれた。淡水のゾーンは室内に川に様なところがあって面白かった。ずっと憧れだった場所は本当に美しい場所だった。
「コナンくんに何かお土産を買って帰りましょうか」
バーボンの一言によって出口近くの売店に寄る。展示室よりも明るいそこは魚に負けないほどのカラフルで物珍しさにバーボンとライの後ろをついて歩く。
「何かいるか?」
「え、俺?」
あまりにキョロキョロしていただろうか。何も興味なさそうにポケットに手を突っ込んでいたライが振り返って聞いてくる。肯定する様に頷くから困る。え、俺の?
「え、いや、いいよ。お金持ってないし、こういうの買ったことないから」
「金は気にしなくても持って来ている。君が欲しいものを買おう」
「欲しいものわからないからいい」
いいからバーボンについて行こうと腕を引っ張る。見た目に反してがっちりしていて動かない。
「さっき見ていたペンギンはどうだ」
「物珍しかっただけだよ」
「物珍しいついでに持って帰ればいい」
「俺の私物が増えても困るだろ。行こう。工藤へのお土産を選ぶんだろう。ライはジュティとキャメルにはいいのか」
「そうだな」
同僚にお土産を渡すライは正直想像ができないがまぁいい。バーボンはこういうのを選ぶのが好きらしくクッキーやマグカップを見比べている。少し疲れたからと声をかけて売店から見える椅子に座る。小さな子供、カップル、友達同士だろうか高校生くらいの集団、いろんな人の話し声を聞きながら人の往来を見る。ああ、普通の人はこんな顔をして生きているのかと思うとなんだか急に別世界のことの様に感じる。
「お待たせしました」
「行こう」
ライにぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜられ意識を自分に戻す。荷物の詰められた車の後部座席に座って入場券の半券を見る。楽しかった。本当に。まるで夢の中だった様な気がしてくる。
「スイ」
助手席から伸ばされたライの手から袋を受け取る。
「何?」
「君のだ」
俺のものなんかあっただろうか。ビニール袋を開けると小さなふわふわのペンギン。
「これ」
「これから自分の物を増やしていけばいい」
いらないとライに返そうと思ったがきっと多分そうじゃない
「ありがとう」
小さな飛べない羽を動かす。柔らかい。初めての俺の、ぬいぐるみ。
想像しもしなかった3人暮らしは俺を1人にしないことを決めているのか、どちらかに連れられて聴取に行ってそのまま仕事の終わりを待つためほとんど家にいることがない。犬と留守番くらいできるという主張は通らなかった。最初の段階で飛び降りようとしたのが尾を引いているらしい。セキュリティがしっかりしているらしいマンションの窓は病室と同じく窓が開く幅が決められていた。ちなみに調理用の刃物も使用禁止である。人をなんだと思っているんだろうか。
「どう思う、ハロ」
非番だというバーボンはキッチンで何かをしている。どちらかが休みの時もこうして犯罪者の監視をしなければならないと思うとプライベートを潰させて申し訳ない気持ちになる。床に伏せるハロに視線を合わせるべく床に寝転がって撫でながら聞く。自分の名前が出たとわかるのか首を傾げる犬はまさかのバーボンの飼い犬だった。仕事だけでも忙しそうにしているのに犬まで飼っていると知った時は驚いた。ライも目を見開いていたから知らなかったんだろう。ちなみにハロの散歩も1人では行かせてもらえない。まぁ重要参考人なので死なれでもしたら2人の責任問題になるんだろうし、1人で生活したこともないので別に苦痛ではないんだけどいちいち目の届く範囲にいなけばならないというのは面倒だろうなと思うので申し訳ない。耳の薄い皮膚を指先で撫でていると指をぺろりと舐めてからまたじっとこちらを見るハロになんとなく自分の考えていることを知られているようでありがと、と言ってふわふわの柔らかい毛に顔を埋める。晴れた日の布団を干したような陽の香りに安心する。
「風邪ひきますよ」
「うん」
「あとで散歩に行きますか」
「うん」
キッチンがひと段落ついた様でエプロンを外しながら器用に畳んでいるバーボンは案外世話好きらしい。料理もこだわっているようで毎回おかずが何品か出てくる。俺はあまり量を食べれる方ではないし食事なんて口に入れるものだと思っていたから美味しいのは美味しいのだけれど細かい風味とかを感じ取れるわけではない。ライも美味いな、と言うもののこちらもあまり食に興味がなさそうなので食べさせ甲斐がなさそう。同居人がそんなもんだからか時々やってきて美味しい美味しいと感想を言いながら食べる工藤バーボンも嬉しそうである。だからもっと来てくれないかなと思うのはわがままだろうか。まあ彼は忙しいんだろうけど。
一人での行動が制限されている為取り調べを受けた部屋からFBIが日本拠点にしている階へ移動する。前はこの警視庁内での移動も監視がついていたがこの敷地内の限られた階でだけ自由を許された。エレベーターを降り、廊下を曲がる。何やらパソコンを見ているライのデスクに腰をかける。さて、この人が仕事を終わるまでどうしようか。大体は小さな子供の様にスマホゲームを借りてすることが多いのだけど今は随分仕事が立て込んでいるのか昨日よりも積まれた書類が増えている。犯罪者が捜査機関の情報を得るのは気が引けるので意図的に視線を外す。結局動いているパソコンを見てしまったので一緒かもしれないけど。どうやら監視カメラを早送りで見ていた様だ。映像の街並みはアメリカの様だから応援的に頼まれたのだろうか。
「もう終わったのか」
視線をパソコンから外さないままライが確認をしてくる。
「まぁいつも通り書類の確認と署名だけだったから。あ。30秒戻して」
ライがノートパソコンで流していた監視カメラの途中、画面の右端に違和感を覚える。ライは何を聞くわけでもなく30秒前の映像を出してくれる。
「この端っこ。帽子かぶってるこの男。この前えーと、黒髪の体格がいい君のとこの捜査員が見てた資料の男じゃない?3日前の14時くらいに見てた資料のあー、6枚目?キャップから出てる耳の形と腕まくりからちょっと覗くタトゥー が多分そう。まぁ映像が不鮮明だから確証はないけど」
「確認する」
「うん」
直ぐに携帯を取り出して電話をかけ始める。能力が疑われないのは組織での役割を知っているせいなのか彼がそういう性格だからか。最近今までの自分の経緯がごちゃごちゃになってるから自信はないけど無駄な記憶力はこういう使い方もできるらしい。
デスクにもたれてライの飲み掛けのコーヒーを奪う。温くて味が薄い。どのみち彼の仕事が終わらないと帰れないし、何かの支払いをしている画面上の男に目を向ける。なんの罪で追われているのか知らないがライが調べてるのだから俺が居なくても時期に捕まってただろう。もし俺の協力と言ってもたまたま目に入っただけだけど、それが彼の耳に入って俺を殺しにこないことを願うばかりだ。
「どうやら当たりの様だ。君に助けられたな」
「そう」
スマホを片手に戻ってきたライはそう言って笑みを浮かべる。
「君にはいつも助けられるな」
そんな覚えはなくて首を傾げる、と勢いでくしゃみがでる。寒いわけではないが埃っぽいんだろうか。目の前で身に覚えのないことを言われたせいだろうか。
「寒いのか?」
「そんなことはないけど」
返事を聞いたのか聞いていないのかライはどこかへ消えていく。結構人の話を聞かない男だと最近知った。良くも悪くも自分の時間を生きている感じだ。勝手にデスクの資料を見るわけにもいかず視線を彷徨わせていると肩から何かをかけられる。
「多少汚れているがないよりはマシだろう」
かけられた上着にはFBIと書いてあった。支給されたそれをライは何も思わずそこにあったからとかけてくれたんだろうが、FBIの、捜査機関の、正義の、上着である。ざわついた心を沈める様に袖を通す。これはただの上着で触っても大丈夫なもの。こんな人間が着ても許される、ただの上着。自分を落ち着かせるように深呼吸をする。じわり、と思考の端に黒いものが生まれて『さっき見つけたやつと同じ犯罪者なのに?』と声がする。わかっている。わかっているから。少しだけ。オフィスの窓に映る自分の背中に浮かぶ文字にまるで自分も仲間に入れてもらえているようで、それが違うとわかっていても心は浮き足だったままだった。
今日はスーツのバーボンに連れられ、本来あるべき俺自身の事情聴取の日である。取引がなかった他の犯罪組織について詳しいわけではないがそれなりに広範囲に手を出していたうちの捜査が終わった後もバーボンは忙しそうにしている。優秀なのも大変そうだと思うが、使命感を持っている彼は楽しそうとまではいかないが充実して働いているようだ。
「まぁスコッチが生きて、志保と明美、工藤が幸せならそれでよかったから」
「君は?」
「俺?」
「その幸せな未来に君は何をしてるんだ?」
「俺がいるとしあわせな未来はないだろうとから早めの退場をすることが俺にとっての幸せだよ」
「……残された人間は幸せだと思うのか?」
「俺は置いていかれる側だからなぁ」
みんな俺を置いて未来へ進んで行く。きっと歳を重ね、経験を積み、自分なりの人生を。一方で変わりもしない過去をぐるぐるぐるぐる馬鹿みたいに駆け回り薄いなりに気づいた人間関係が目が覚めたらなかったことになってる人間に例えこの続きがあったとして上手くやっていけるほどの器量が養われているとは思えない。どう転んでも欠陥品なのだ。だから諦めて勝手に死にたくて色々やっているのだから生き残った誰かが俺を背負う必要はないし、それぞれの人生を思うように生きて欲しい。居なかったことにでもしておいてくれればいいのだ。
「存在を疎まれて、やっと与えられた役割がクソでまぁそれをどうにかしようと最初の方は必死だったんだけど結局誰もこの地獄には一緒に落ちてくれなかったな」
自分のできる範囲で頑張ったつもりだったけど苦しんで死んで繰り返す。俺の頑張りがこの世界で通用しないのか、この世界が俺をいらないといっているのか。いつのまにか下に落ちた視線に自分の手が入る。いらないなら早く手放してくれ。手を開いてもそこに応えはない。
「世界に命の容量が決まってるなら早く次に空け渡してあげないとね」
きっと、俺は容量を圧迫してるだけの余分だから。
俺の支離滅裂な言葉を黙って聴いてくれたライは結局じっと俺を見つめるだけで何も言わなかった。それをいいことに「忘れて」とまた一方的に言ってライの俺が使ってもいい用のスマホを持って部屋のソファを陣取る。窮屈に縮めた足を動かして坐りのいい体勢になるとテトリスを開く何も考えずにやるからすぐ詰んでしう。ほどなくしてやってきたバーボンからの遅くなるから先に晩ご飯を済ませておく様にというメッセージをライに伝える。無茶苦茶なことを言ったのでまた精神科に連れていかれなきゃいいけどと思いながら目を閉じる。目を開けた時、また最初からになってライが銃口を向けてたら嫌だなと何故か思った。
最近、陽の光で目がくらむ。立ちくらみや眩暈というか平衡感覚が狂ったのだろうか。お腹もなんとなく痛い。痛いのか気持ち悪いのかよくわからないが不調だ。そんな不調もハロを撫でていると治る気がする。今日はと言うか最近は警察署や裁判所に行くことも減りハロと過ごすことが増えた。犬がこんなにも可愛いとは思ってなかった。だらしなくフローリングに転がり、じいと真っ直ぐにこっちを見るハロを撫でる。気持ち良さげに閉じられた目が信頼の証の様で嬉しくふわふわの白を撫で続ける。
「お昼にしましょう。手を洗ってきてください」
「わかった」
返事をして体を起こす。こんなにも自分の体は重かっただろうか。違和感を抱えながら立つと明るい顔のバーボンと目が合う。
珍しく平日にいるバーボンは有給をとったらしい。早い時間からずっとキッチンにいた。バーボンのご飯は美味しい。出汁?とか下味?というんだろうか。凝った料理というより丁寧な料理という感じで食べればなんでも良いと思っていた食事が好きなった。多分ライもそう。アメリカから送られてきた事件の情報整理で休めない彼の代わりに俺が美味しく頂こうと思う。昼からはバーボンとハロの散歩の予定である。1人での外出が禁止なので2人にはいつも休みの度に俺と一緒で申し訳なくなる。ハロと家に居るから好きに出かけていいと言ってはあるがそうするとだいたい散歩か買い物に連れ出される。監視対象の俺が居るとはいえ年頃の男達がそれでいいんだろうか。
洗面台の蛇口を捻り水を出す。手を翳そうとすると流れる水に時折朱が混じる。鏡を見て初めてタラタラと流れるものが鼻血だと気づく。どこかにぶつけた覚えもない。手で拭って水で流してみるも一向に止まらない。ご飯に呼ばれたのに。早く戻らなければ。下を向いて鼻を軽く抑える。
「食べて少ししたらハロの散歩に行きましょうか。今日は少し遠くまで」
配膳まで終わったのか洗面所を覗きに来たバーボンと鏡越しに目が合う。
「わかった」
「それ」
「鼻血。すぐ止まる」
「何言ってるんですか病院に行きますよ」
嫌だ嫌だと言ったのに引きずるように病院にやってきた。今回目が覚めた時の病院らしい。どうにかハロも一緒に行けないかと交渉したがすぐ終わるか分からないからとそれも却下された。鼻血くらいで時間はかからないはずだと思ったが言わなかった。結果としてバーボンの言う通りハロは置いてきて正解だった。退院後しばらくだからとついでにあれやこれやと検査されることになりようやく終わった時には日が暮れていて、病院に着いた時よりも随分やつれたんじゃないと思う。待合室のソファの様なそれにしては硬い長椅子にもたれる様に座る。待っているだけでも疲れたであろうバーボンは姿勢良く座っている。体幹の差とかだろうか。
「疲れた」
「まぁ念の為ですから」
「癒しが足りない」
「ハロが待ってるから早く帰りましょう」
整った横顔を見ながらバーボンは俺に対してずっとバーボンだなと思う。ライや工藤に対しては敬語がなかったりとかバーボンじゃない彼で接している。スパイはそういう性格からも作らないといけないのかと思うがライはずっと変わらないから人によるんだろうか。
「まるでトラックに轢かれでもしたかの様な体です。ほとんどの内臓に傷があり、かなり弱っている。今まで普通に生活していたのが不思議なくらいです」
無理やり連れられてやってきた病院のベッドで検査結果が告げられる。先ほどとは別に今後必要となるかもしれない手術に向けて同意書を淡々と書きながら片手間で聞く。一緒に話を聞いていたライとバーボンが息を呑むのがなんとなくわかった。だが今までの死に方を考えると無理はない。落ちたり砕けたり弾けたりしているのでそれらが全て蓄積されたと思えば今息をしてるだけで奇跡だと思う。
「意味のない治療はいいです」
「それは、」
「延命行為は望みません」
「わかりました」
「ッ!」
誰かが息を呑むのが聞こえた。それに気づかないふりをして準備された書類にサインをしていく。動かない体を引きずって生きていても碌なことがないのを知っている。それよりも自分の事を見てくれるハロの顔を見たかった。
「少しでいいので帰れますか」
「もちろん」
なら、いいか。一度止めた手を動かす。今回の入院の請求先の保証人はライかバーボンでいいんだろか。警察とかになるんだろうか。
「どうにかならないんですか」
「バーボン」
「手は尽くしたいと思っています。しかし損傷箇所があまりに多過ぎる。大きく命に関わる臓器から手術をしていきたいとは思っていますがその手術に体が耐えられるかもわからない状態です」
「でも、そんな!今まで特にそんな様子はなかったんですよ?突然体が壊れるだなんて聞いたこともない。この子はやっと普通の生活をし始めたばかりなんです。何か、何かできることが」
「バーボン」
必死に問い詰める様なバーボンを呼ぶとようやく目が合う。彼のこんな焦燥感のある顔を見るのは初めてだ。少しでも情がわいてくれたのだと思うと嬉しいような、怖いような。
「ありがとう。俺は納得してる。十分楽しんだ。あとは少しハロに会いたい」
「ッ、君がそんなことを言うともう何も言えないじゃないですか」
「ごめん」
力が抜けたような笑みをすがるように向けてくるものだから謝ることしかできなかった。一応は納得してくれたらしいバーボンが医者と何かを話している。いいのだ、別に捨てようと思っていた命なのだから。どうせ、死んで起きたら今度はバーボンが銃口を向けるかもしれない命だから。必死になる価値などどこにもない。
検査に振り回された後にベッドにいるものだから眠気にじんわりと襲われながら返事をしていると寝ててもいいですよ、と頭を撫でられる。バーボンにこんなに優しく触られると思っていなかったので少し体が固まったが、結局眠気には勝てず瞼が閉じていく。
痛み止めをもらってギリギリまで家に戻ることが許された。
「ハロ〜」
荷物を何もかもライとバーボン持たせた貧相な腕で全身で迎え入れてくれる小さな毛玉を撫でる。目を見て尻尾の揺れに体を引っ張られながらまとわりつく姿に泣きそうになる。自分が帰ってきてくれたことにこんなに喜んでくれるなんて今まで一度もなかった。手を洗ってハロを抱き抱えると暖かい体に顔を埋める。荷物を片付けてくれながらバーボンがベッドで横になれと言う。確かに体は動かないが横になっているほどではないと思う。不満そうな顔をしていたのがライがソファでもいいんじゃないかとクッションを準備してくれ大人しくハロと転がる。ガチャガチャ。雑音と話し声。人の気配が心地いい。
人の気配が?
居心地がいい?
人が居ると眠れないと思っていた自分の変化に動揺する。それだけ人に慣れた?それとも彼らに?体を起こしてキッチンで喋る2人を見る。バーボンもライも、良くしてくれる。それは俺が彼らにとって有益な情報を持っているからだ。大きく息を吸って吐く。目を閉じて暗くなると瞼の裏に銃口をこちらに向ける彼らが浮かぶ。大丈夫、怖くない。次が来ても抵抗せず、死んでやれるとも。
腹に乗せた毛玉が心配そうに顔を舐めてくる。
「大丈夫、お前のことは絶対忘れない」
⭐︎
日に日に動かなくなっていく体が恨めしい。誰も組織の捜査状況は教えてくれない。教えてくれればまだ何か役にやてるかもしれないのに。いや、だいたいの事は話しているから今更俺の情報などなんの意味もないことはわかっている。それでも何もできず死んでいく自分を彼らが持て余していると思うと何かをしなければと強く思うのだ。無理やり立ち上がって、怒られた。酸素マスクも点滴も邪魔だった。ベッドに戻される。迷惑そうな顔をされる。ああ、動けてしまう方が良くないのだと悟った。「煩わしい子ね」今よりずっと昔。まだ体も小さくて、繰り返しにも慣れてなかったあの頃同じ光景を何度も見る気持ち悪さとまだ残っていた親に縋る気持ちから泣いて喚いて俺を鬱陶しそうに見た母に言われた声を思い出した。何もしない方が人の為になることもあるのだと気付かされた。
「役に立たなくてごめん」
小さな探偵はそんなことないよと言ってくれる。嘘じゃないと思う。それが恨めしくて羨ましくて悲しい。愛されて育った、自分はいない方がいいのだなんて思ったことのない真っ直ぐに生きてる姿がどうしようもなく眩しい。
「本当は、本当はね。愛されて生きてみたかった。工藤みたいにみんなに必要とされたかった。ライみたいに頼られて、バーボンみたいに志を持って生きてみたかった。誰かのヒーローになりたかった」
そう、俺はヒーローになりたかった。こんな下っ端の使い捨てられる悪役じゃなくて。
子どものような欲がむくりと顔をのぞかせる。どうすればよかったんだろう。上手く立ち回ろうと思うのに誰も俺をみてくれない。誰も誉めてはくれない。早く死んでしまえと思われることはあってもお前が生きていてよかったと思われることはなかった。随分重く感じる腕を挙げて工藤の頭を撫でる。病室の壁にもたれるように聞いていた2人を視界に入れない様にする。ずっと羨ましかったのだ。信念を持ち全うするために努力し、達成できる彼らが。そんな彼らに役に立つもわからない情報を提供するくらいでただただ存在するだけの自分の無益を保護してもらっている情けなさや無力感に気づかないふりをして一緒にいた。本来は保護してもらうべき人間ではない、ここに居てはいけないのだとわかっていながらでも普通の生活をしてみたくて。
「組織でも、結局役に立たなくて。どこへ行っても居場所がなくて。頑張ってはみたけど結局無駄な命だった。どうすれば誰かに必要としてもらえるかわからなくて、頑張ってみたけど、こんな人間が命張ったところで変わりはしなかった。また、きっと始まってしまう。それが何より怖い。どれだけ俺が信頼を寄せても皆んなからは初めましてだから悪役として、殺されるべき人間としてしか見られない。せっかく目を合わせて喋るようになったと思ったら次には殺意の籠った目で見られる。しょうがないのに裏切られた気分になる。それがどうしようなく怖い。だからいっそ早く死んでしまわないと。関係性を築く前に。期待する前に」
今、とても恐ろしい。
次に目が覚めたら誰も俺を必要としない。きっとまた最初っからで、組織の駒で、悪党で、敵で、ハロだってきっと牙を剥く。
こんなに居心地がよくなるまで一緒にいるべきじゃなかった。辛いのはどうせ自分なのに。
あの時、点滴を抜いてそのまま屋上に上がればよかったのだ。さらさらと小さな頭を撫でる。死が救いになることをきっと工藤は知らない
子どもみたいなことを言うつもりはなかったのに。どうして、なんて彼らに当たっても仕方ないのに。ライとバーボンがもっと俺を憎んで嫌ってくれればもっと悔いなく死ねた。どうせ全部忘れてまた俺を嫌うのに優しくしてほしくなんかなかった。だから皆俺を忘れてくればいい。顔を見てもわからないくらい忘れてくれた方がきっと割り切れる。願いが叶うならもう俺がそんざいしませんように。そうすればきっと工藤が全部上手くやる。存在しなければこんなに悩むこともない。
俺がもっと賢ければ。俺がもっと割り切れたら。
大きく息を吸って支離滅裂に言いたいことだけ吐き出す。言葉を吐き出すとにも耐えられなくなってきた体は大きく息を乱し、全身が疲労感に襲われる。別にだれにも意味なんかわかってもらえなくていい。皆の記憶だけじゃなくて俺の存在そのものが無くなればいい。最初から俺なんて存在しなければ未来を悲観することもこんなに悩むこともなかったのだ。そう思うくらいに穏やかに過ごせた日々を手放すのが惜しい。これでまた目が覚めて家族や同僚の仇だと、お前のせいで人が死にお前のせいで人生が狂ったのだと共に笑って過ごした人に言われるなら最初からこんな幸せなど欲しくはなかった。いつもみたいにお前のせいだと言ってればどうだ、良かっただろうと死ねたのに。
「そんなこと言わないで」
そう言って俺の手を握る工藤がなぜか大きく感じた。上に重ねられた他の手を確かめ、握り返す勇気もない。恐る恐る、目が合わない様に天井から横に目を動かすと大きな青がまるで心の根を透かすようにこちらを見ている。少し歪められたその瞳がとても綺麗で、まっすぐ目を逸らしてくれないから泣きそうになる。縋りたくなるからやめて。
忘れないで
小さく吐息とともに漏れた声が誰にも届きませんように。
やってきては学校や周りで起きことを話してくれる工藤はきっと忙しいのに頻繁に来てくれる。また来るねと言って手を振って出た彼と入れ替わる様にノックの音がする。
「邪魔するぞ」
ライはそう言って病室に入ると椅子に座って本を読んでいる。手に持つのが時々変わるだけでいつもただそこにいる。いつか、心地いと思った人の気配に
それから少しずつ口から物が食べられなくなった。ついにはベッドから起き上がることもできなくて、起きているのか眠っているのかわからない日が増えた。生きているのか死んでいるのかもわからない様な夢と現実を行ったり来たりしている。
息を吸って吐くだけでなんの役にも立たず、誰のためでもない死が近づいてくるのが辛い。辛いと思っていた。でもいつの間にか入れ違いで部屋にくる人たちはみんな話をして帰っていく。例えばライが仕事での失敗を、例えばバーボンがハロの最近の様子を。きっとライが呼んでくれたであろうスコッチの声も聞いた気がする。もしかすると俺の願望が作り出した幻聴がもしれないけどその声が心地よかった。俺の役割とか生きる理由とかじゃなくて人の生きている平穏を皆んなが柔らかな声で話しているとその一部になった気がして。普通の人が感じている日常はこうなのかと人の話を聞くのがこんなに楽しいと思わなかった。
そんな声も少しずつ遠ざかる。何かを言っているのはわかるのに言葉の意味がわからない。意味を考えることも億劫になった。
少しずつ、命が終わるのがわかる。
誰かが俺の名前を呼ぶ。
夢を見た
まるでヒーローものの主人公みたいに赤いマントを羽織ってる。誰かが困っているところに走っていってできるだけの手伝いをする。そしたらみんなありがとうって言って名前を呼んでくれる。
誰かが、じいっとおれの顔を見てる。お母さんかなと思ってしっかり顔を見れば見るほど誰に似てるのに誰にも似てない。青い目、いや緑?黒かも。まるで世界の全てかのように慈しむ優しい目。その目を見るとなんだか安心して眠れる気がしたから、ゆっくり目を閉じる。真っ黒だけど怖いくない。ふしぎ。いつもはうるさいのに。静かで奪われれていく思考も怖くない。
どこかで声が聞こえる。
名前を呼ばれているような、違うような。そう言えばなんて呼ばれてたっけ。あれとかそれだった時もあったし、ちゃんとした名前はえーっと。なんだっけ。
また声がする。
『絶対忘れないから』
ずっとそう言って欲しかった。
この声は自分の願望なだけだろうか。
使い勝手のいい道具ではなく自分を必要として欲しかった。ただ生きていていいと言って欲しかった。覚えていて欲しかった。
どろり
どろり
意識が沈む
ああ、もう耐えられない
黒がそこまで来ている
ああ、叶うことなら何もかも忘れてしまえればいいのに
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