05



そう思って聞いたに過ぎなかったが、桜はゴリゴリ、と乳棒をまわしたまま、意外そうに口を開く。
「あら、あたしの名前、知っていたの?」
自分の質問の答えではなく、しかも考えてもみなかったことを言われ、鉢屋はとっさに言葉が出て来なくなる。
桜とはいままでに面識がないし、多分初めて認識したから、名前を知らないと思われているのは仕方がないのだが、そう言われたら、先に名を知っておいたことは、鉢屋にとっては吉だったのだろう。
「もちろん、知ってるに決まってるじゃないですか」
当たり前だというように鉢屋が言えば、桜は疑わしそうな調子でふーん……と、つぶやいただけだった。

桜の態度が気に食わず、鉢屋が問い質そうかと思っていたとき、スッと医務室のドアが開いて誰かが入って来たので、タイミングを狂わせられる。
「ごめん、桜。遅くなった」
そう言って医務室の留守番をしていた桜に礼を告げるのは、善法寺伊作だった。
同じ六年だからか、桜の表情や物言いもかなり砕けている。
「別に構わないわ。とりあえずこれ、伊作に言われた通りにすり潰して混ぜておいたから」
いつの間にか乳鉢ではなく、小さな器を手にしていた桜は、それを伊作に渡し、そんなふうに作業の報告を次々に済ませているようだった。

「……鉢屋は、怪我でもしたの?」
ふと気づいたように伊作が振り返って聞くから、鉢屋は違うのだと首を横に振ってやる。
横になっていないから怪我かもしれないと考えるのは妥当だが、話はややこしくないほうがいいので、自分が医務室にいる用事を手短に話す。
「新野先生は、今日はもうお戻りにならないから、ぼくが預かっておこうか?」
その伊作の返事で少々、落胆したものの、せめて伊作には会えるはずだと待っていたのも確かだったから、無駄ではなかったと思い直し、鉢屋は持っていたものを差し出した。

「それじゃあ、伊作先輩。よろしくお願いします」
「ああ。ご苦労様」
伊作の返事を確認して、いよいよ医務室を出ようとした鉢屋は、戸を開けようとしたところで、後ろを振り返ってみる。
元から鉢屋とはあまり話をしていなかったが、伊作が入って来てからは、全く言葉を交わしていなかったから、桜が気になったのだ。
だが、桜は鉢屋になど、始めから興味がなかったかのように、こちらに背を向ける形で伊作の前に座り込んだまま、振り向きもしない。
むしろ、鉢屋の存在自体、始めから無いもののようにされてしまっているのかもしれない。



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