黒曜編T

非日常の訪れは、いつだって突然である。


嫌な夢を見た。
言い知れぬ嫌悪に飛び起きて、整わない呼吸にのどに手をやる。
水中で呼吸をするような苦しさと、背筋を駆け抜ける悪寒。
一つ身震いをして手近にあった薄いピンクのカーディガンを肩にかけた。
寒い。 未だ9月に入ったばかりだというのに、骨の芯まで凍らされたような寒気がはしる。
時間は、と視線をカーディガンと同じ薄桃色の時計へ移せば、鈍い金色の短針はXを指していた。
早朝5時。
かなり早い時間ではあるが、山本や笹川先輩ならとっくに起きてロードワークでもしている時間である。
起きるか。
ひとりごちて、お気に入りのうさぎの形をしたスリッパに足をそろえた。
寒気に腕をさすりながら、部屋を出る。
ママはもう起きてるかな。
何か暖かい飲み物が欲しい。
そんな、自身に見合うぬるま湯のような幸福に足をとられながら、ひとつ、またひとつと足を進める。
今日という日が、この先10年近く自分を縛る呪縛のハジマリだとも知らずに。





*
結局、ママはまだ起きてはいなかった。
リビングのガラス戸の向こう側は未だ薄暗く、しんとした静けさが覆っている。
それを見て、早々に自室へ引き返して制服に着替えてしまった。
早朝5時40分。
登校するには早すぎるが、もう一度眠る気にもなれない。
そして結局、暖かい飲み物はおろか朝食すらも摂らずに家を出てしまった。
起きた直後から背筋を蝕み続ける悪寒のせいか、なんとはなしに一人では心細い。
この時間帯ならば、とりあえず学校へ向かえば朝練前のロードワークに勤しむ山本や笹川先輩に会えるだろうと算段をつけて飛び出してきたが、そう上手くはいかないようだった。
日の出前のほの暗い住宅街には、山本や笹川先輩どころか野良猫ですらその姿を認められない。
誰ひとりいない、世界に自分一人しか存在していないような妙な孤独感。
やはり家を出たのは失敗だったかもしれない、といくぶん後悔する。
そう言えば─。
じわじわと背後をとられるような後悔の渦の中でふと思い起こす。
起きてから何も食べていないし何も飲んですらいない。
そんなことを考えれば、いくら孤独と不安と寒気に襲われてはいても、正直に空腹感はわくものだ。
あの角を曲がれば確かコンビニがあったはず。
店へ入れば、少なくとも店員がいるはずだ______、
見えてきた一縷の望み、コンビニの暖かいカフェオレ、少なくとも一人はいるはずの店員、煌々と営業中であることを示すように辺りを照らす店内の照明ことなど。
そんなことを考えながらいつもの住宅街の角を曲がった、その瞬間。



「______っ!」




ふわ、と。
突如として足の踏み出しと共に胃がひっく返る。
え、嘘、なにこれ!
叫ぶ間もなく、アスファルトの地面が崩壊をはじめた。
轟轟!
粉々に砕けた道路が、隣の家の花壇が、電柱が、そして自分自身が。
地の底へと墜ちてゆく。
階段で足を踏み外したような浮遊感と、今までの何倍もの勢いに膨れ上がった寒気。
ブラジルのみなさん、聞こえますか、などとふざける気力すら起きず、ただ小刻みに震えながら、崩れ落ちる住宅街の残骸と共に闇へ吸い込まれてゆく。 


"クフフ……"

地の底から響く、声。

"ようやく、会えましたね"

指先まで絡めとられるような冷たい音が脳髄を震わせて、



それから後のことは、何も分からない。






(黒曜編T/六道骸)
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