May 4
May.4


黄金の昼下がり。
美しく揃えられた薔薇園は昼下がりの穏やかな陽の光を吸い込み、その甘い芳香を辺り一帯に吐き出す。
むせかえるような白薔薇の香りを胸一杯に吸い込み、彼女は脳髄の痺れる感覚に身を任せた。
珍しく霧の晴れた青天に誘われて庭へと降りてきたが、実際に外へ出てみるとイングランドではそうそう見られない澄みきった青空と目の眩む白い薔薇の群れにむずむずと身体中が深呼吸をするように疼く。
It' a wonderful day !
赤いピナフォアドレスの裾を白く甘く染められた風がひらりと拾うように揺らしてゆく感覚がこそばゆい。
同時に、短めに切り揃えられた弟とそろいの暗青色の髮も踊るように揺れて、やんわりと耳元にかけた。


昨日はフィニが間違って赤い薔薇を植えてしまっただとかで一悶着あったようだが、今朝になって見てみれば、何事もなかったかのように庭園には弟の好きな白い花弁が舞っていた。使用人たちは、白いペンキを買ってきて赤い薔薇の一つ一つに塗るしかないと大騒ぎをしていたが、どうも下品な薬品の臭いがしないところを見ると、何か違う方法をとったらしい。
どうせあくまで執事の彼が魔法の力だか悪魔の力だかを使って何とかしたのだろうが、それが彼女にはどうにも面白くない。

彼の仕事ぶりは認めている。
そつなく、何事も完璧に遂行する姿は頼りになるし、その人間離れした美しい容姿も相まって魅力的だとも思う。現に、自分は彼に好意を持っている。
しかし、可愛い可愛い弟がそうしてあの男ばかりに用事を申し付けるのは何とも歯がゆく、悔しく、苦しい。
生まれた憤懣と嫉妬のやりどころが分からず、日々ワインでそれを無理矢理に胃の底へ押し流すのが彼女の常だが、当の執事本人が唯一の渦巻く暗雲の処理手段である飲酒すら制限するものだから、ただただ憎しみは加速するばかりであった。

 今朝だってそうだ。
薔薇園に設えられた品の良いティーテーブルに行儀悪く腰掛け、深くため息を吐きだす。
 ―あれはやはり使い物になる。
赤い薔薇を一夜にして白く染め上げたセバスチャンの後ろ姿に向けて、朝食の席でそんなことをシエルが言ったものだから、彼女は危うく嫉妬の業火に焼き殺されてしまうところであった。
私はどうしてあんな悪魔に心を奪われてしまったのでしょう。
頬をふくらませ、やり場のない怒りと羨望を追い払うかのようにぶらぶらと脚を揺らしてみせるが、庭園は何も答えてはくれない。
同情も、叱咤もなく、ただあるがままにそこにあるだけである。

「面白くありませんね。」

がぶり、手づかみに厨房からくすねてきたタルトをほおばる。
まだ彼女が寄宿学校にいた頃には、よく学友と先生の目を盗んで厨房に忍び込み、ティーケーキだのトライフルだのをくすねては学生寮に持ち帰り、同級生とパーティーまがいのことをしたものだ。
たまに失敗してはシスターから長々とお説教を受けたり、罰則として水の張ったバケツを持って一時間立たされたり、奉仕活動と称して学院内の掃除をさせられたりもしたが、基本的には学院で六年間鍛え上げられた逃走力を以てすれば、ただでさえ忙しいセバスチャンの目を一時的に欺くくらいのことは造作ない。
がぶり、もう一口甘いタルトにかぶりつく。中にぎっしりと詰め込まれていたカスタードクリームが口腔を滑らかに犯して、彼女の理不尽な不機嫌もゆっくりと溶けてゆく。
このタルトとて、きっと今日のアフタヌーンティーの主役だ。
スイーツをこよなく愛する弟はきっと、悪魔が焼いたこのタルトも気に入るだろう。
きゅう、と嫉妬にまた胸が灼ける。砂糖のように溶けたはずの不機嫌は、また懲りずに息を吹き返す。
本当に、面白くない―、



「厨房からタルトをくすねた上に、あろうことかティーテーブルの上にお座りになり、更には手づかみで戦利品を貪りまでして『面白くありませんね』とは?」


ばしん!
背後から掛けられた低い声に、照準器に捉えられたウサギのように肩が跳ねる。
恐る恐るふりかえれば、口元にだけ薄い笑みを浮かべた悪魔が立っていた。
もちろんのこと、その赤い瞳は一切として陽の光を灯していない。
本人は穏やかで冷静な態度を崩していないつもりかもしれないが、その白い手袋に覆われた大きな手が、今にも彼女を縊り殺しそうな勢いでわなわなと震えている。

しくじった。

普段から黒いものばかり身にまとう彼だが、今日ばかりはその背にまがまがしい黒煙のオーラを従わせ、更に威圧感が増している。
これは、お説教・バケツ罰則・奉仕のお掃除のフルコースでしょうか―。
そっと、心の内で十字を切る。
もう何も見たくないとでも言いたげに瞳を閉じて、彼女は自らの死を覚悟した。



 普段から申し上げているでしょうそもそもお嬢様には名門ファントムハイヴ家の令嬢としての自覚が全くもって足りませんどうせ今回も坊ちゃんが私ばかりを頼るなどと理解しがたい理由で嫉妬なさって起こした事だとは思いますがもう貴女は無邪気な学生ではないのですからしっかりとそのあたりの覚悟を持っていただかなくては困ります聞いていますかお嬢様!
以下略。
彼女の危惧した通り、即座にティーテーブルからは引きずり降ろされ、料理長の自慢の火炎放射器顔負けの勢いで小言が雨のように頭上から降り注いだ。


「それに、何ですかその恰好は…。ピナフォアなどお召しになって、そのようにラフにいられては困ります。いつお客様がいらっしゃるかわからないというのに。」


赤いワンピースドレスの上に羽織った白いフリルのエプロン部分へちらりと目をやる。
貴方は中産階級の娘ではないのですよ。そんなことだから先日の公爵家との縁談も破談になったのです。と。
しまいには、大きく深く、心底呆れたとでもいうようなため息が彼女の頭頂部を直撃し、我慢の糸がぷつりと切れた。


「うるさい!です!もう貴方の顔は見たくありません!」


図星を言い当てられ、かあっと頬が熱を持つ。
名門貴族としての自覚が足りないことも、いつもセバスチャンに嫉妬していることも、どうせ今日は客人もないだろうとラフなドレスを着ていたことも、ハーグリーヴス公爵家との縁談が破談になったことも、すべて図星。
しかし、ここまで傷口をえぐられると、殊勝にもお説教・バケツ罰則・奉仕の清掃活動のすべてを甘んじて受け入れよう、反省しようと思っていたことすら馬鹿らしくなる。
ここまで手ひどく傷つけられて、ねちねちと叱られる必要があるか?
否!
これは私のため、シエルのため、ファントムハイヴ家のための叱責ではない。
ただの、加虐趣味の悪魔の暇つぶしでしかない!
そう簡単に負けてたまるものか!
手にしていた食べかけのタルトを憎らしいセバスチャンの顔面めがけてなげかける。
さすがは悪魔というべきか、寸でのところで無事に避けられたが、彼女の目論見通り、中に詰まっていたカスタードクリームの一部がべっとりと黒い髪の先を飾った。
それに、またぷつりと我慢の糸がたたき切られたのは、彼の方も同じである。



「私の顔は見たくない?」

ぐいっ、と。
やや乱暴に顎を掴まれ、無理やりに彼の顔に視線を向けさせられる。
いつもどこか斜に構えて人間をあざ笑うような光をたたえた赤い瞳は、いつも以上に冷酷で、それでいて愉快そうに歪んでいる。
接近したせいで、髪の先に居座るカスタードの甘い香りが鼻腔を擽る。
完璧な執事の無様な姿にいくぶんいい気持ちになりながらも、その強い視線に彼女も負けじとにらみ返した。
元来、負けん気の強い娘である。
このままおめおめと許しを請うことなど、その赤いプライドは決して許しはしない。
誇りと憎しみと、ティースプーン一杯程度の恋情と。
複雑に絡み合う感情は、一本の強い光となってセバスチャンを射殺す。
首をはねる刃物のような目だ、と悪魔はにやりと口角をあげた。
命を手にかけたことのある瞳、修羅と闇を奥底にしまい込んだ瞳。
少し刺激してやれば、単純にできている彼女は容易く怒りの炎を身に宿し、その血と獣の数字に魅入られた美しい本性を露わにする。
憎悪と破壊願望に歪む彼女は何よりも美しい。人間の感性では理解の及ばぬ感性ではあろうが。
獲物を狩る高揚か、紳士的な手袋の下では、黒い獣の紋がじたばたと暴れ駆け回りはじめた。

「強がりを仰る―、私を憎み、同時に愛しておられるくせに。」

最後通牒のように薄い唇からこぼれ出たその言葉は、ひどく彼女のプライドを刺激した。
愛している!否定したくて仕方ないものの、悪魔は決して嘘を吐かない。
それは、このはったりのような言葉も然り。
続いて図星を言い当てられた怒りは、いくら白い薔薇の花弁を浴びても鎮まることを知らない。
ぐしゃり。
激情に任せてベルベットのドレスの裾を握る。
白い彼女の指元から、皺が裾野へと広がった。


「貴方だって同じでしょう。わたしが欲しくて仕方がないくせに」


口惜しさに歪んだ瞳は、切りそろえられた前髪の影からちらりと顔をのぞかせる。
それがセバスチャンの赤い瞳とかち合って、更に激しく、銃撃の火花を散らした。
お互い、一歩も退くつもりはない。
彼女は自身を甘く冷たく苛む執事の排斥を、執事は彼女の血と闇に満ちた美なる肉体を。
両者ともに、相手に施しを与えようなどと慈悲深い考えは一つとして持ち合わせていない。
勝つか負けるか。
相手のすべてを手中に収めるか、自身のすべてを相手に奪い去られるか。
見ようによっては堂々巡りのコーカス・ゲームである。
二人を包む庭園の薔薇たちはそれを憂うこともなく、忠告するでもなく、相変わらず何の感情も示さずにあるがまま、自身の美しさを誇示するばかり。
燦燦と降り注ぐ黄金の昼下がりには致命的にそぐわぬ二人のにらみ合いを知る者は、どこにもない。


「愚かなアリスに太刀打ちできますかねえ。何せ相手は、凶悪な悪魔ですから。」
「いつまでも自分が優位だと思わないことです。不思議の国に惑わされる可愛いアリスは、貴方かもしれませんよ。」


鳴りやまぬ歓声のように湧き上がる殺意と、恋情と、執着と、独占と。
すべてがナンセンスに紐づけられた二人が何を叫ぼうとも、他者が耳にすれば子どもの夢物語程度の重要性しか持ちえない。
可愛いアリスたち、どんな終焉を迎えるのかしら。
そうささやく白薔薇の幽かな声も夢物語に吸収され、誰の耳に入ることもなく輝く午後のひだまりに消えていった。



(May.4/Sebastian Michaelis)
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