異教徒への施しとその適切性について
甘く鼻孔を痛めつけるような、噎せかえるほどに芳しいチョコレートの香りに、ややげっそりとして、彼女は歩調を早めた。
2月の14日ー、ともなれば屋敷内は贈り物の応酬で忙しない。
"愛する恋人や親しい友人に、感謝の贈り物を!"などと謳い文句を共にして、バレンタインデーの限定ギフトの広告が新聞やシティの看板を席巻しはじめる頃には、もう誰も彼もが贈り物の吟味に夢中になっていた。
中でも、やはり一番人気はキャドバリー社の愛らしいハートの容器に彩られたチョコレートのバレンタインデーボックス。
その影響か、今日屋敷にやって来る客人は小さな当主への贈り物に誰もがチョコレートを携えてやって来る。
正直、彼女本人はもうチョコレートの香りで鼻がやられそうなのだが、可愛い弟は僅かに口角を上げて終始機嫌が良さそうだ。
スイーツ好きのシエルにとっては、カードや花を贈られるより、流行に逆らわずチョコレートなどを贈られた方がよほど嬉しいらしい。
先程も、いつも以上にお洒落をしたエリザベスから手渡されたチョコレートを幾分にやにや、と取られてもおかしくない表情で貪っていた。
あの調子では、お菓子でお腹が膨れてしまってディナーを食べられなくなるに違いない。
きっと、またセバスチャンに叱られてしまうだろう。




「私まであの子にチョコレートをあげたのは、失敗だったかもしれませんね……」



何気なく、くるくると手にしたステッキを振り回す。
こんなことを屋敷内でしていると、どこからともなくあの黒一色の執事がやってきてネチネチと小言を言ってくるのだが、どうせ彼は今日一日はバレンタインデーのプレゼントの整理にかかりきりだ。
今朝からお決まりの爆発音が鳴っていたし、厨房付近の廊下ではカカオとおぼしき物の破片が散らばっていた。
大方、バルド達がバレンタインデーのメニューでも作ろうとカカオを火炎放射機だか何だかで炙ったのだろう。
それに加えて、派手好きのガースウィック侯爵夫人からはシエル宛に馬鹿らしいほどに巨大なキャンディーツリーが届いていたし、聖バレンタインの命日に乗じて、顔も知らぬ人間からも贈り物が届いている。
セバスチャンは朝から届いた荷物の毒味に厨房の掃除に、仕事が山積みである。
今まさにシエルが腹具合も考えずにチョコレートを次々と胃に放り込んでいることにも気がついていないようであるし、さすがの彼も今日ばかりは彼女に目を光らせてはいまい。



「ああ……やっぱりチョコレートはやめておけばよかった……。可哀想なシエル、ディナーを食べられなくなる可能性にも気づかずに軽率に食べ物を贈った姉さんを許してちょうだいね……」


「坊っちゃんからは先程チョコレートを取り上げ、乗馬のレッスンをなさるよう申し上げましたのでご心配は不用ですよ。お嬢様。」




背後から響いた低い声に、びくりと肩を震わせる。
驚きのままに背後を振り向けば、にっこりと怪しい笑みを浮かべて仕事に追われているはずの執事が涼しげに立っていた。
地から湧いてきたのか、と疑いたくなるほどに気配が全く感じられなかったことに肌が粟立つ。いや、もしかしたら人ならざるモノである彼であるから、本当に壁か床から湧いて出てきたのかもしれないがー、



「しかしお嬢様、そのようにステッキを振り回されて……もう少し慎み深くなっていただかなくては困ります。」

「う、」

「大方、今日くらいは私がお嬢様から目を離しているとお考えになったのでしょうが……残念ながら私はこの屋敷の隅から隅に至るまで、片時も目を離しはいたしません。」

「うう、」

「それに別件にはなりますが、厨房からロマネコンティの1880年物の赤のボトルが消えています。どこにあるのか、ご存じですね?」

「ううう!!!!!!!」



もうたくさんです!!やめてください!!
1つ叫んでドレスが汚れるのも構わずに廊下にうずくまる。
セバスチャンの小言はとかく耳に煩い。
しかし、彼の言葉が正論であることも、全面的に自分に非があることも理解しているので言い返すこともできず、彼女に出来るのはただただ許しを請うばかりである。
しかし、地に這いつくばり許しを請うたからといって、そう易々と逃がしてくれるような生易しい相手ではない。



「……まったく、貴女はファントムハイヴ家の淑女なのですよ。そう簡単に他人に頭を下げるようでは困ります。そうも無様なお姿を晒されては、坊っちゃんの風評にも関わる。」

「そ、そこまで言わなくてもいいじゃないですか……!」


弟にまで話題が上ると、彼女は滅法弱い。
自身の不甲斐なさがシエルの評価に響き、ファントムハイヴ家没落を招く未来でも想像したのか、さめざめと涙を流しながら「そこまで言わなくてもいいじゃないですかあ!」と子供のように泣きじゃくり、ステッキを更に振り回しはじめたのを見て、セバスチャンは深い深いため息をついた。
やってしまった。
こうなってしまっては、この厄介な娘は酒でも飲ませなければ精神が回復しない。
少々面倒げにため息をつきはしたが、意を決したように白い手袋の裾を引き上げ、ぱんぱん!と手を叩いた。



「はい、もう泣かない。粗相の件には目を瞑りますから、私と一緒にロマネコンティを捜索いたしましょう。お嬢様の部屋にあるのでしょう?」


無事に見つかれば、グラス一杯分だけ飲ませて差し上げます。
その言葉にとりあえず彼女の嗚咽が引っ込んだのを確認し、セバスチャンはうずくまるその肩をひっ掴んで持ち上げた。
そのまま彼女を横抱きにするといくぶん以前に抱き上げた時よりも重みが増したように感じられ眉をひそめたが、ここで体重の増加を指摘すればまた泣き出すに違いない。
ひとまず、ここは彼女が太ったのではなく、ただでさえ豊満な胸が更に豊満になったのだと無理矢理にでも納得することにした。








「で、どちらに隠しておられるので?」
「ええ…と…探しているのはロマネコンティでした?1880年の白?だったらー、」
「白ではなく赤です。ですが、隠しておられるならば白もご返却ください。」
「ぐっ…」
「……その様子では、2本だけでなくまだ隠しておられますね」



こうして、執事による家宅捜索が始まった。
部屋の戸を開けてすぐ。
ドレッサーの裏に隠していたロゼを看破され、更には横抱きにしたままだった彼女をベルベットのソファに下ろした瞬間に、ソファの影に隠していたボジョレー・ヌーボーまで見つかった。
血も涙もない執事はにこりと「ご返却いただき、ありがとうございます」などと嫌味を言ったが、当の本人はまたもぐずぐずと鼻をすするばかりである。




「この悪魔!」
「ええ、仰る通りです。」



気にした風もなく、てきぱきと自身の部屋を暴いてゆく彼に恨めしげな視線を向けながらソファに雪崩れ込むようにして身を預ける。
遂には件のロマネコンティの赤を回収されたものの、一向にセバスチャンは捜索の手を緩めない。
―性悪冷酷加虐趣味執事め。
心の内で悪態を吐いて、更にソファへ沈んでゆく。
しかし、バレンタインデーの贈り物を一式まとめて置いておいたエリアまでガサ入れを始めたセバスチャンの姿を見て、はっ、と火がついたように身を起こした。



「ああ!忘れていました。そこ、その黒い小箱。」
「は……?ああ、これですか?」



鋭い目付きでボトルを探していた彼だが、スツールの端にちょこんと置かれた黒い小箱を手に取り、彼女の方へと視線を遣る。
その手に収まった箱の上部を飾る黒と白のストライプ柄のリボンを確認し、彼女も首を縦に振った。


「そう、それです。あなたに差し上げます。」
「私に?」
「ええ、セバスチャンに。Happy Valentine's Day 」



けろりと言ってのけた彼女に対して、彼はやや眉を下げ"お気持ちはたいへん嬉しいのですが……"と口角を歪ませる。
しかし、鋭いお嬢は二の句は継がせないとばかりに赤い瞳を鋭く瞬かせ、「命令」という形でぴしゃりとセバスチャンの退路を絶った。


「いけません、受け取ってください。」
「しかし……」
「命令です、受け取ってください」
「……Yes, My lady」


当主の姉からの命令ともあれば、断るに断ることもできない。
しぶしぶ、といった表情でバレンタインデーの贈り物を受け取ったセバスチャンは、嫌々ながらも小箱を胸のポケットへとしまいこんだ。
当の送り主は、とりあえずは彼が贈り物を受領したことに満足なのか、先程までの涙はどこへやら、にこりと微笑んでソファで脚を組み変えている。


「メイリン達にも同じようにバレンタインデーの贈り物を渡しましたから、あなたにだけ渡さないというのも角が立ちます。こんな物を貰っても鼻白むだけでしょうけど、わたしのために貰ってください。」


なるほど、とセバスチャンは1つ苦笑した。
今朝がた彼女がシエルは勿論、使用人達にもチョコレートを渡していたことは知っている。
それは確かに彼らへの日々の感謝を込めた贈り物だったわけだ。
しかし、この悪魔のために慈心や愛情を以て贈ったわけではない。
ただ、体面の毀損と罪悪感から逃れるためだけにこの黒い小箱を押し付けたのだ。
それでこそ―、あの坊っちゃんの姉君といったところか。
普段は大っぴらにワガママを発揮しない彼女の隠された自己中心的思考が垣間見え、自己満足の犠牲となった悪魔は胸ポケットに仕舞ったキューブ状の箱をふいに押さえつけた。



「そんなに嫌な顔をしないでください。食べ物ではありませんから。」


あなたは人間の食べ物は好まないのでしょう?
そう続けた彼女に、はたと再開しようとした家宅捜索の手を止める。
食べ物ではない。
それはつまり、何か別の、飲食に依って消費されることのないものだということ。
そこに考えが及ぶと、唐突に彼はその紅茶色の瞳を爛々と愉快そうに輝かせ、未だソファでだらだらと脚を投げ出しているものぐさな娘にしたり顔で歩み寄った。
スツールに置かれた残りの贈り物は、ざっと確認しただけで4つ。
あのいけ好かない死神3人と、恐らくは墓前に備えるのであろう彼女の叔母の分。
どの箱からも鼻と喉を焼き切るような甘く芳しいチョコレートの香りがした。
それに、彼女が他の使用人や愛する弟に同じく甘い甘いチョコレートを渡していることは確認済である。




「お嬢様、失礼をお許しください。―私には何を下さったのですか?」

にやり、と表現するのが正しいか。
卑しく口許を歪めて必要以上にその顔を彼女に近づける様は、まさしく悪魔そのもの。
本性を隠そうともしない彼にいくぶん眉をひそめはしたが、特に無下にするような問いかけでもない。
するりと赤い唇から回答がこぼれ落ちる。



「ネクタイピンです。……まあ、貴方にそんなものを使う機会があるのかどうかは分かりませんけれど……美味しいと感じられない食べ物を貰うよりはマシでしょう?」
「ええ、勿論でございます。お心遣い感謝いたします。」
「いいえ、お気になさらず。」
「―、ですが。」
「え?」


距離を縮めた悪魔の唇は、今にも彼女のふっくらとした赤いそれに触れんばかりの場所にある。


「坊っちゃんたちにはチョコレート、そして私だけがネクタイピンを頂いた。
……それは私だけが特別だと、そう捉えてもよろしいので?」


獲物を狩るその瞳はどこまでも赤い。
至近距離で見つめ合うと、徐々に奈落の底へと落ちて行きそうな心地すらする。
しかし、ファントムハイヴ家の長女が雰囲気に流されるほどに甘い女でないことも事実であった。
馴れ馴れしげに伸ばされたセバスチャンの白い手袋に覆われた手を、すんでのところで払いのける。彼の意に反して顔を赤らめることも目をそらすこともなく、彼女は凄絶に笑ってみせた。



「残念、シエルには両方贈っています。チョコレートとネクタイピンと、2つともね。」




興醒めしたような、拗ねているような執事の表情にクスクスと堪えきれずに声を漏らす。
まだまだ、彼女に契約を迫るには時間不足。
女一人くらいなら雰囲気に流してしまえばついでに契約できるだろうと、チョコレートのように甘い考えを練っていた過去の自分に忠告してやりたい。
―この女は、そうそう口説き落とせそうにないと。



(異教徒への施しとその適切性について/Sebastian Michaelis)
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