シリアルキラー・イン・ザ・ナイト
馬車が歩を進める速度が徐々に、ゆっくりとしたものになってゆく。
そうこうしているうちに、コツコツと響いていた蹄の音とガラガラと車輪の回る音が止み、馬車は車寄せへと停車した。
ぎいっと扉を御者が開けて、彼女を外へとエスコートする。
ファントムハイヴ家所有のタウンハウスの門前で、彼女は御者へと一礼した。



「送っていただいて、ありがとうございました。お帰りになったら、リデル夫人によろしくお伝えくださいね。」



 告げると、一礼を返してリデル家の御者は重厚な馬車に乗り込み、颯爽とロンドンの街並みへ消えてゆく。
その馬車の後ろ姿に、少々申し訳ない気持ちを抱きつつ、タウンハウスの門をくぐった。
ここまで送らせてしまったが、彼には数時間も経てば再びドルイット子爵邸のパーティーに参加するため、再び迎えにきてもらうことになる。
二度手間で面倒であろうが、文句も言わずに自分をここまで送り届けてくれた御者の誠実な人柄は、やはりリデル夫人の教育の賜物であろうか。
そんなことをぼんやりと頭の片隅に置きながらふと懐中時計で時を確認すれば、もはや時刻は昼時に差し掛かろうとしていた。
もうじきに11時になる。
本来ならば午前のお茶の時間であるが、先ほどリデル家でお茶会を楽しんできたばかりで、腹具合は十分である。
社交期のお供に、と本邸からタウンハウスへ連れてきているメイリンは、毎日セバスチャンがいない中で、彼に持たされたレシピと格闘して毎日名前のためにティータイムの準備をしてくれる。
おそらく、今日とて彼女のために不器用ながらも精いっぱいスイーツやお茶を用意して待っている頃だろう。
そう考えると、ティータイムの用意を断るのは忍びない。
うんうんと身の振り方を考えて低いステップを登っていると、ガチャリと目前でマホガニーの白い扉が開いた。



「メイリン、ただい…、」
「お帰りなさいませ、お嬢様。」



ぴしり。
ここには存在しないはずの人間(正確には人間ではないのだが…)を目の当たりにし、心臓までその動きを瞬間的に止める。
目の前でにこやかにほほ笑む執事の姿に、言ってやりたいことと聞きたいことは大いにあるが、それよりも気につくのは、屋敷の奥から聞こえる数人の話し声である。
その中に、何よりも愛おしい弟の鈴の音に交じってややハスキーに色づいた声音が響いて、思わず執事の身に纏われたジレを握った。



「、アン叔母様…!?ねえ、アン叔母様が来ているの!?」
「ええ、坊ちゃんと私がこちらに到着した時には既に、劉様とお二人でいらっしゃっておりました。」



 聞くと、いてもたってもいられずにストライプの壁に覆われたサルーンを突っ切って、話し声の聞こえる客室へと足を速めた。
自覚もないままに、踵の高い青い靴がせわしなく床を蹴る。
ガタン!
茶の準備のために厨房へ戻ったセバスチャンが聞いていれば、お説教フルコース2時間は免れなかったであろうほどに騒々しく客間の扉を開け放し、転がりこむように室内へ侵入する。
それに虚を突かれたように目を見開く美貌の赤い夫人を発見し、一も二もなく飛びついた。
その騒々しさには弟である屋敷の主は眉を顰めたが、名前も叔母が目の前にいるとなれば、そこにまで気は回らない。



「叔母様!」
「名前!やっと会えたわ!」



きゃっきゃと抱きしめ返す叔母の首元から上品なリコリスの香りが漂い、頬がゆるゆると弛緩してゆく。
名前とシエルの叔母―元バーネット男爵夫人、マダム・レッドは、名前の憧れである。
姪っ子である自分の目から見ても、贔屓目なしに叔母は素敵だ。
いつもくっきりと引かれた赤いルージュは彼女の匂い立つような色気を引き立てているし、赤毛はいつもつやつやと輝いて美しい。
加えて、美しいだけでなく医師でもある才媛であるから、もはや神からいくつもギフトを与えられたトクベツな人間という他ない。
美人で、頭もよく、きりりとしたキャリアウーマンであるかっこいい叔母。
幼少期から彼女には弟ともども可愛がってもらってきたが、それを抜きにしても嫌味なところが一切としてなく、いつも豪快で大きな口を開けて笑うところが、名前は大好きだった。



「あんたがシーズンにロンドンに滞在するってのは聞いていたから、何度か屋敷に来たんだけれど…。忙しく毎晩夜会に出てるってメイドから教えてもらってね。忙しいのに私の相手までしてもらうのもどうかと思って、連絡しなかったのよ。」



そんなことは気にしなくてよいのです!
勢いよく口をついて出たそれは、紛れもなく彼女の本心である。
大好きなアン叔母様。その顔が見られれば、夜会疲れも一気に吹き飛んでしまう。
そう喧しく吠え立てれば、赤毛をするりと滑らせて叔母はほほ笑んだ。
そして彼女を膝に乗せたまま、紅茶に口をつける。
そのカップから香るのは、たっぷりと深い色をしたアールグレイ。
先ほどリデル家でも同じ茶をいただいてきたが、やはりあの男が淹れたものの方が、ふわりと空気に溶けるような芳しさがある。
それになんとなく面白くないような気持になりながらも、マダムの赤いスーツに包まれた胸に顔を埋めた。



「おやおや、レディ・名前も叔母さんの前じゃあ甘えたがりだねえ。」
「劉様、お久しぶり…でもありませんね。二週間前、ガートランド伯爵夫人のパーティでお会いしましたし。」



やあ、といつも通り何を考えているのか相手に悟らせない表情ではあるものの、朗らかに挨拶をする劉に、叔母の膝で甘えたまま挨拶をする。
隣のソファでくつろいでいる様子で、普段と変わらず袖口の広いゆったりとした中国服を召している。
二週間前に夜会で偶然出会った彼は、英国風に合わせたのかタキシードを着ていて、まるで別人のようで、その容姿の端麗さも相まって少々緊張したので、今日は普段通りのオリエンタルスタイルで安心した。
平素通りに中国服に身をつつんだ彼も十分に独特の色気と雰囲気を漂わせているし、それが故に普段と趣向を変えたタキシード姿はより心臓に悪い。
そうして密かに姉が劉の見目の麗しさに目を奪われることが時たまあることなど露として知らない弟は、無垢のままに口を開いた。



「姉さん、シーズンの夜会参加お疲れ様でした。」
「ああシエル!そう、そうよ、びっくりしました。もちろん会えて嬉しいのですけど…、屋敷に帰ったらセバスチャンと貴方がいるんですもの。騒がしい社交期は本邸から出ないのではなかったのですか?それに、メイリンは…?」



未だ席につかず叔母の膝に馬乗りの彼女を、シエルならば許したかもしれない。
元来、何だかんだ文句こそ言うものの彼も押しの強い姉にはほとほと弱い。
しかし、この屋敷には主人とその姉であろうとも伯爵家に見合わぬ振る舞いを決して見逃さない悪魔が常に側に控えている。
主が姉の疑問に答えようと口を開きかけた時、颯爽と新しいティーカップとスイーツを持って厨房から戻ってきた彼の鋭い眼光が、名前の後頭部を焼き切るようににらみつけた。



「お嬢様。」



静かながらも、いつも以上に低いその声を鼓膜が拾い、びくりと甘えたがりの彼女の肩が震える。
つかつかと背後から歩み寄るセバスチャンは、音もたてずに紅茶をカップに注ぎ、敢えて叔母から最も遠い席にスイーツとその茶を置いた。
その様子を恐る恐る見ていた名前であるが、悪魔の瞳が冷たい光を宿しているのに気が付いて、さっと叔母から離れ、セバスチャンが用意した叔母から最も遠い席―つまるところはシエルの隣だが―に腰かけた。



「さすがはお嬢様。私の目を盗んでマダムの膝元で幼児のように甘えていたなど…、私の見間違いでございますね。失礼いたしました。」
「……。」
「さあ、どうぞ。本日は”ジャクソン”のアールグレイをご用意いたしました。スイーツはどうなさいますか?」
「結構です…。」
「ああ、それから。」
「?」
「私がこちらに参りましたので、メイリンは本邸へ帰しました。彼女もずいぶんと厨房を荒らしたようで、何よりです。加えて、厨房から必要以上にワインのボトルが減っていましたが…?」



にこりと必要以上に微笑む執事に冷や汗を流しながら、差し出された紅茶に口をつける。
シエルは騒がしい社交期にはロンドンへ出ないと宣言していたので、その名代としてファントムハイヴ伯爵宛に届いたパーティの招待には、基本的に名前が応じていた。
夏の間はパーティへ参加するためにロンドンのタウンハウスへメイリンだけを連れて滞在していたわけだが、必然的にメイリンと名前だけではただでさえ常に伸ばし気味の羽根は際限なく伸びてゆく。
厳しいセバスチャンがいないともなれば、メイリンのドジ具合を叱りつける人間もなく、名前の二日酔いに説教をする人間もいない。
簡単に言えば、やりたい放題やっていた、というのが正しい理解であろう。
聡いセバスチャンならば、厨房にうち棄てられた割れた食器と夥しい数の空ボトルでだいたいの予測はつく。
依然として冷たい微笑みを崩さないままに彼女の方を視線で焼き殺すように見つめるその執事の姿には、さすがの名前も怒りと恐怖でカップを持つ手が震えるというもの。
くそう、性悪執事め。
そうは思うものの、完璧に仕事をこなされては文句のつけようもない。
普段からこの男には煮え湯を飲まされているためか、姉がわなわなと怒りを鎮めようと躍起になっている姿を弟は哀れみの瞳で見つめた。
客人たち二人は命の危機を感じて離れていった名前にくすくすとおかしそうに笑っていたが。





「ここからが本題ですが、」




 ひとつ咳払いをして、至極真面目な顔でシエルが語り始める。
その瞬間、ほのぼのとした空気は一変、張り詰めたような裏社会独特の香りが漂い始めた。
内臓の腐ったようなにおいと、すえた果物のような、淀んだにおい。
彼女はいつも、裏社会独特の空気を吸う度にそう感じる。
足をすくわれるとそのまま滑り落ちてしまいそうな、なんとも形容しがたい香り。
ぐっと眉根に皺を寄せて、いやな空気を芳しい紅茶で飲み下した。




「数日前、ホワイトチャペルで娼婦の殺人事件があった。」




ホワイトチャペル。娼婦。殺人事件。
弟の唇から滑り落ちた三つのワードにはっと顔を上げる。
先ほどまでリデル邸で聞いた事件と同じ。
隣のソファに腰かけるシエルの手を勢いよく握った。
それに、シエルもアイスブルーの瞳を彼女へ向ける。




「それ……、」
「姉さんもご存じでしたか。」
「何日か前から新聞が騒いでるヤツよね?私も知ってるわ。」



さっと心臓から青ざめてゆく。
イーストエンドに弟を近づけないように…、そう考えていた矢先の出来事に、脳内がぱちん!と一斉に電気を消したように真っ暗になってゆく。
社交期には本邸から出ないと宣言していたシエルが、重い腰をあげてロンドンへ出てきたのだ。
薄々と彼が女王の命によりロンドンへ出向いてきたことには気が付いていたが、まさかこんな血にまみれた事件の捜査だったとは。
事件の猟奇性といい、おぞましさといい、いくら女王の番犬とはいえ姉としては幼いシエルに積極的に首を突っ込ませたい事件ではない。
とはいえ。



「だけど…、あんたが動くってことは何かあるんでしょう?」
「そうだ、ただの殺人ではない。猟奇的…いや、もはや異常と言っていい。それが”彼女”の悩みのタネというわけだ。」



きりりと、凛とした表情で事件の概要を語るシエルの横顔に、平素のファントム社の社長としての顔ではない、女王の番犬として事件に挑む覚悟がくっきりと浮かびあがる。
それを目にしてしまえば、心配ではあるものの彼女の出過ぎた保護欲などはもはや彼の脚を引っ張る枷でしかない。
そ点を理解しているからこそ、こうしてシエルが仕事に勤しむ姿は見ていてつらいものがある。
セバスチャンがついている限りはおそらくは安全だろうと踏んではいるが、彼はシエルの身体と命を守りはしても、その精神までは守ってくれない。
いや、むしろ率先して傷つける方向にすらある。




「被害者の娼婦、メアリ・アン・ニコルズは何か特殊な刃物で原型も留めない程、滅茶苦茶に切り裂かれていたそうです。」




スイーツに手を伸ばすシエルの背後で事件の残虐性を淡々と述べるセバスチャンに目を向ける。
仕事として興味はあるにはあるのだろうが、その薄い唇が歪に口角をあげているように見えて、目をそらした。
こうして、悪魔と共にいくつも残虐な事件とその真相を目にしたシエルが傷つき、茨に足をとられてしまうことが、何よりも苦しい。
そして、自分はその弟の姿を遠巻きに見ていることしかできないことも、何も彼に手立てを与えることができないことも、嫌というほど理解している。
それが、輪をかけて痛々しいのだ。



「市警や娼婦達は犯人をこう呼んでいるそうだ。」



フォークを口にくわえている様子はまだまだ歳相応の愛らしさがあるというのに。
神はなぜ、この弟にばかり惨たらしい役目をお与えになるのだろう。
いくら姉が懺悔を重ねたとてそれは覆しようのない運命の流れに無意味に小石を投げ込む行為に等しく、この大いなる業の身が身代わりになることも、その呪縛から解放してやることも、その痛みを軽減してやることすらも、何一つとして叶わない。
万が一のその時、シエルの命を守ることすらも。



「切り裂きジャック―、ジャック・ザ・リッパー。」



しん、と静まり返った客間に、セバスチャンがこぽこぽと紅茶を注ぐ音だけがやけに大きく鼓膜を震わせる。
お嬢様、お顔色が優れませんね。
わざとらしく憂うような表情を見せる彼の手が、つうっと名前の頸動脈をなぞる。
”切り裂きジャックは今夜誰かを殺す!”
数時間前に聞いた幼い少女たちの無邪気な歌声は、未だ彼女の耳にこびりついたまま。






(シリアルキラー・イン・ザ・ナイト/
Book of Jack the ripper U)


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