払うべき犠牲の値段
劉は、掴みどころのない男だ。
常々、名前はそう感じる。
飄々としているようでいて、時にずばりと皮膚を切り裂く刃物のような言葉をなげかけてくる。
かと思えば、雰囲気だけが先行していてさして中身のないことを言っていることも多い。
普段はあまり彼の発言には深入りしないことにしているが、今回ばかりは目を見開かずにはいられなかった。


「女王の番犬が何を嗅ぎつけるのか、我もとても興味深いな。」


深くベルベット地のソファに腰かけ、艶然とティーカップを細い指先で持ち上げる。
その様子ですら、その深い真意を探らせない空気を纏わせた。背後に漂う黒い影が、いっそう、劉の雰囲気を濃く、怪しいものへ変えてゆく。
”だけど”
その短い一言ですら、聞く者を引き込んで、底なしの沼へ頭から沈めてゆく。
足元からずぶずぶと沈んでいくような、暗い海の底を思わせる東洋らしい黒い瞳がちらりと瞬く。


「君にあの現場を見る勇気があるのかい?」
「どういう意味だ」


間髪入れずにシエルの静かな声が滑り込むように空を切る。
劉の眼のほの暗さに引きずられたように、シエルのアイスブルーの瞳も鋭い視線を放った。
その誘いに容易く引っかかる幼い当主に、彼はにいっと笑みを深くしてソファのアームに手をかけて立ち上がった。
ぎしり、彼の歩を進める足音に、ドキンドキンと心臓が嫌な音を立てる。
とっさにシエルをかばうように左手でその柔い手首を握るも、劉の足取りはとまらない。
名前の存在など見えていないかのように、その細められた瞳はシエルだけを覗く。


「現場に充満する闇と獣の匂いが同じ業の者を蝕む。」

闇と獣の匂い。その言葉を口にして、劉はようやく彼女の方をちらりと見た。
にやりとその口元が嗤ったように見えて、ぞっと背筋を悪寒が通り抜けてゆく。
そんな名前の様子に満足したか、劉は再び言葉を繋げた。


「足を踏み入れれば、狂気に囚われてしまうかもしれないよ。」
「その覚悟はあるのかい?ファントムハイヴ伯爵。」


劉の手がするりと名前の手をすり抜け、シエルの頬に触れる。
まっすぐに彼をにらみつけるシエルに、窒息しそうな苦しみを覚えた。
いつの間に、この子はこんな目をするようになったのか。
いつの間に、この子はこんな覚悟を身につけていたのか。
こうして彼が裏社会の泥沼にまみれて、人間らしさを失うことがこわい。
こうして、彼が裏社会の人間と対等にやりあっていることがこわい。
ぞっと、背筋這う冷や汗がつうっと滑り落ちる。
そのまま椅子に深く沈み込んでいきそうになった時、背後に控えていたセバスチャンがそっと彼女の背筋を支えた。


「僕は”彼女”の憂いを掃うためにここに来た。くだらない質問をするな。」


殺意すら見て取れる強いまなざし。
地獄ともいえる一か月。それが一体なんなのか、行方不明になった一か月で弟に何があったのか。彼は決して姉に話そうとはしないし、名前自身も尋ねたことはない。しかし、やはり一か月を乗り越えて帰ってきた弟は逞しさを違う方向に向けて強靭になり始めている。異常だ、おかしい。姿かたちや根底はシエルそのものであるのに、徐々に闇の世界によって弟は作り替えられている。より強く、より脆く。彼の望むと望まないとに関わらず。
ふるふると震え始めた彼女の涙腺を見てとったかのように、再びセバスチャンはやや強めその背をはたいた。
―主人の邪魔をするな。
そういう意図であろうが、悪魔に何度諭されなだめすかされ怒鳴られたとしても弟の身を案じる姉として、平静に振舞うことにも限界がある。
心を持たぬ悪魔には到底理解できぬことではあろうが、人間として生を受けた以上、この感覚だけは消し去ることができない。
キッと背後に立つ執事を睨みつけると、くすりと笑んで彼女の耳元に唇を寄せるように屈んだ。
そのまま、艶めいた音でぼそりと厳しい一言をねじ込む。

「坊ちゃんは一度覚悟なさった以上、何があってもこの仕事から手を引くことはありませんし、第三者の保護と情を欲しておられるわけではない…むしろそのようなものは邪魔ですらあります。」

お分かりになりますね?
手袋に覆われた人差し指を薄く笑みを浮かべた口元に添え、諭すような瞳を彼女に向ける。
口惜しさと苦しみに歪む彼女の姿すらもこの執事の美的感覚に引っかかるのか、その赤茶色の瞳はぼんやりと恍惚の色を帯びた。

「…そうです、貴女はただそうして、無力に苦しんで、涙を流していればいい…。坊ちゃんも私も、それを望んでいます。」

にやりと下卑た声を鼓膜に響かせて、セバスチャンはさっと身をあげた。
依然として背後の執事をにらみつける名前に異変を感じ取ったか、マダム・レッドが向かい側からひらひらと手を振っている。
はっ、と叔母に瞳を向けると、彼女は血のように赤い瞳で名前とセバスチャンを交互に見遣った。
あんた達、どうしたの―。
そんな言葉を吐き出そうと薄く開かれた赤い唇を閉じるように、劉のやや大きな声が場の空気を一掃する。



「そうと決まれば直ぐに行こうじゃないか伯爵!!」

名前と執事が小競り合いを繰り広げている間に、どんな合意の決着点があったのだかしれないが、先ほどまで時たま顔を見せる”ただならぬ雰囲気”でシエルににじり寄っていた劉は、今や普段通りのへらへらとした態度で弟の細腕を掴み、外へと連れ出そうとしている。
それには、先ほどからずっとシエルの手首をつかんでいた彼女もそのまま引きずられて立ち上がらざるを得ない。
うわ、と彼女が小さく声をあげた瞬間に、先ほどまでの訝るような視線を潜めたマダムの呆れたような声が場を割った。

「ちょっと!ったく、男ってのはせっかちね!お茶くらいゆっくり飲みなさいよ」

立ち上がったマダムを抑えるようにあわあわと、目立たないバーネット邸の執事がその肩に手を置く。
名前とてお茶をゆっくり飲みたいところではあったが、もはや先ほどのやりとりのうちに茶は熱を失い、飲める代物ではなくなっている。
そこにマダムも気が付いているのか、冷めきったティーカップを一瞥し、重ねて口を開いた。

「私も行くわ。現場ってドコなのよ、劉。」

それに、シエルと名前の両腕を掴んだ劉は背後をふり向き、呆れた様子で腕を組むマダムに視線を寄越す。
おや、とでも言いたげに左手を挙げてみせ、口を開いた。

「知らないのかい?マダム。」

無責任な劉はそうは言うものの、現場など逐一新聞で確認することもできない。
ロンドン・タイムスは猟奇殺人の記事こそ一面に載せたものの、現場の住所をはっきりと記載してたわけではない。
ただホワイトチャペル、と大まかな位置情報を知らせたにすぎず、おおよその位置を新聞に掲載されていた写真から探ることくらいは可能であろうが、まずは実地にて近辺の人間への聞き込み調査から始める必要があるのは必然であろう。
けろりと現場を知らないと白状する劉のおおざっぱぶりに当てられて、名前も大きく脱力した。
張っていた肩肘からするすると余計な力が抜けてゆく。


「なーんだーあ、じゃあその辺の人に聞いてみないとダメじゃないか。」
「アンタ今まで知らないで喋ってたワケ!?」

あの長い前フリは何だったんだ…。
隣で呆れているシエルに激しく相槌を打つ。
元はといえば劉が唐突に謎の雰囲気を醸し始めたのが事の始まりだったわけで、それに巻き込まれたシエルとしてはたまったものではなかっただろう。
苦笑を浮かべる姉の瞳をちらりと見て、シエルは深く息を吐いて瞳を閉じた。
更に、未だぎゃいぎゃいと現場を調べる方法に騒ぐマダムと無責任な劉に、頭一つ分ほど小さな位置にある彼から、再度として、はあ、と長い嘆息が吐き出される。



「落ち着け。誰も現場に行くとは言っていない。」
「「え?」」
「どうせすでにヤジ馬だらけでろくに調べもできんだろう。僕が行けば警察もいい顔をせんだろうしな。」
「そうですね…。スコットランドヤードは貴方をずいぶんと嫌っていますから…。」


女王の命によりシエルは動いているというのに、ヤードもわがままな連中である。
シエルが現場に踏み入ることを良しとしない癖に、彼が仕事をしないとたちまちに文句を言いつけにやってくる。
くだらないオトナの自尊心が招く態度だと知ってはいるが、無意味に弟をその犠牲に立てることを名前は常に拒んだ。
いつも徹底的にヤードに対して抗戦の体をとる。
セバスチャンに首根っこを掴まれて強制送還された上、こっぴどく説教を受けたとて、その弟に対する侮辱批判を穏便に見逃すことを彼女は絶対に許してこなかった。
始めこそヤードの嫌味一つに目くじらを立て、公務執行妨害寸前まできゃんきゃんと吠え立てる名前にセバスチャンは根気強くお説教を続けていたが、最近ではシエルともども諦めて名前とスコットランドヤードを極力引き合わせない策をとるようになっている。

「坊ちゃんがまた警察の方々から文句を受けでもしたら、それこそ名前お嬢様が暴れられますから。確かにヤードと顔を鉢合わせるのは得策ではありませんね。」

「じゃあ、どーすんのよ。」

その言葉に、劉がはっ、と顎に手を寄せてさも天啓を受けたかのような姿勢をとる。

「伯爵……まさか……」

そのためらいを含んだ言葉に、少々青ざめ気味のシエルが頷いた。

「そのまさかだ。」

名前にも、”まさか”の実態が半ば想像がついていた。
しかし、それだけは避けたい。
できればあの薄気味の悪い男には会いたくない。
会えば確実な情報が手に入ることは約束されているが、そこに至るまでの道のりが異常なまでに険しい道のりなのである。
助けを求めるように叔母にすり寄ろうとしてシエルの斜め後ろでセバスチャンが愉しそうににやにやと笑っているのが視界の端に移ったが、先ほどのこともあり腹が立つのでここは無視を決め込むことにした。

「アン叔母様ぁ……」
「名前?あんたまで何を真っ青な顔してんのよ……」


前回、彼女はペチコートに女王の顔を描いて腹踊りをするハメになった。
しかし、それでも確かな情報を得るには至らなかった。
その屈辱の記憶を頭の底から引っ張り出せば、いやでも顔は青ざめてゆく。
またあのペチコートが必要になるでしょうか…。
そう考えるとぞぞぞと鳥肌だけが立った。
酒の席でバルドやメイリンと共にやるならばまだしも、シラフであれをやるのはどうにも厳しい。
それも大好きなアン叔母様の前であのような馬鹿らしい真似をするハメになるなど、いっそ消えてしまいたくなる。
傑物マダム・レッドならば姪の腹踊りを目の当たりにしたとて、豪快に笑い飛ばしてしまいそうだが、年頃の名前にとっては大問題である。
それは、前回おなじく一発芸を強要されたシエルも同じであるようで、更にその細い輪郭を青ざめさせて、滔々と客人二人に向き合った。

「僕もできるなら避けたい道だがやむをえん。こういう事件に奴ほど確かな情報を持ってる奴はいないからな。」


ですよね、姉さん。
ハア、と深く深く、それはもうドーヴァーの荒れ狂う海峡よりも深く息を吐き出したシエルに、彼女もうつむきつつ頷く。
そう、こういうおかしな事件ほど、あの男の真価は発揮されるのである。
報酬に貪欲なあの男。
いっそのこと、現金で買えるものならばよかったのだが。
弟姉が腹踊りをしたとしても納得しない彼から情報を引き出す作業は、難航するに決まっていた。


(払うべき犠牲の値段/Book of Jack the ripper V)



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