あてもなく走り去るなど、いつぶりのことだろう。
嫌味なほどにつやつやと滑る大理石の上、柔らかいラベンダー色のドレスの裾が風を孕み、ふわりと揺れて走り去る。
ざわめきに満たされたフロアはまるで他人事のように彼女を切り離した。
優雅なダンス、豪勢な料理、煌めくアンティークのシャンデリア。
それら全てが、名前に知らんぷりをする。
ぼろぼろと何時までも治まりのつかない涙が頬を滑るにも構わず、名前は駆け続けた。
バルコニーで最後に見たシエルの表情が、いつまでも頭に焼き付いて離れない。
まるで至極傷ついたようなー、苦しげな隻眼、苦々しげに歪められた眉根。
ひどいことを言われたのは自分だというのに、むしろ弟の方が傷ついたようだった。
コツン、
煌めく大理石のフロアをラベンダーの踵で叩いて、立ち止まる。
違う─、
こんなことをして彼を傷つけたのは、確かに自分なのだ。
弟の言い付けを破って事件の渦中へ飛び込んできたことが、どれほど彼のプライドを傷つけるか考えもしなかった。
名前はぽろりと豪奢なシャンデリアの瞬きに涙を反射させ、ひっく、と喉の奥を締めてしゃくり上げた。
自分のことばかりを考えていた。
私だってやればできるのにと、どうして私だけが仲間外れにされなければならないのかと─。
よく考えてみれば、仕様のないことだったのだ。
ここは英国で、弟は女王の番犬で。
それでも私は、ただの令嬢に過ぎない。
息苦しさに胸がつまる。
漂うそこかしこの人物の香水の匂いと、化粧の匂いと、アルコールの匂い。
それら全てが入り混じったこの空気が、この小さな肺を押し潰す。
呼吸もできないほどこの場の空気は苦しくて。
名前はもう一度、きゅっと口元を締めて鼻を鳴らした。
「レディ、カクテルはいかがでしょうか?」
「.......貴方.......、」
振り返れば、挙動の不審な男がキラリと眼鏡のレンズを会場の熱気に反射させてこちらを見ていた。
セバスチャンが着用しているものと似たテールコートを着ているにも関わらず、どこか冴えない風貌で、地味な男。
それでいて首元に引き結ばれた赤と茶のストライプリボンや長髪を束ねるおかしなほど大きなリボンだけが浮いて見える、奇妙な男。
「で、出過ぎたマネ.......でしたでしょうか?」
おどおどと肩を竦め、男―、グレル・サトクリフはグラスを差し出した。
薄い上等なガラスの内側にたっぷりと注がれたクリスタルレッドの輝きに、思わずはっと目を奪われる。
どろりと淀みのように溜まるそれ。
きっぱりとした赤とグラスの中で揺れるクラッシュドアイスの煌めきは、まるで上品なグラスに行儀良く生き血が注がれているようで、思わず言葉を失ってしまった。
この盛大なパーティの会場には似つかわぬ、荒々しさを孕んだカクテル。
つんと鼻先をつくこの生臭い香りは、トマトジュースだろうか。
名前は、反射的に差し出されたグラスを手にとってしまっていた。
どこか悪趣味な飲み物だと─、
そう頭の片隅では感じつつも、受け取らずにはいられない不可思議な魅力。
視界を心地好く染める赤。
そうっと掌でタンブラーを包むと、じいんと冷たい刺激が掌を刺す。
「あ、あの、すみません.......、ついさっきお嬢様をお見かけしまして、その.......、なぜここにいらっしゃるのかと不思議で跡をつけておりまして、」
「.......、」
「す、すみません.......、どうして泣いていらっしゃるのかと.......、せめてお飲みものでも飲めばお元気になられるかと思いまして.......」
びくびくとこちらを上目遣いに伺うグレルは、地味に纏められた髪の束と悪趣味な緋色のリボンをわたわたと振り乱し、“お、お気に召しませんでしたらすぐに下げますぅぅ!!!!“と眉をいつも以上に下げて慌てている。
名前はあまりに神経質に騒ぎ立てるグレルに不意を突かれたように、タンブラーの淵に唇をつけて、くいっと一気にどろりとしたカクテルを飲み干した。
「っ.......トマトジュースに.......ウオッカ........?」
でろりと口内へ注ぎ込まれたそれは、特有の青臭さと塩っぽさで彼女の舌を汚した。
そして、遅れてやってくるぐわんと頭が揺れるようなアルコールの香りが鼻先から抜ける。
どろっと喉の奥を流れ落ちてゆく感覚に生臭い鉄っぽさが舌を撫でる心地などは、やはり鮮血をグラスから飲み干したような気にさせられる。
名前は不可思議な飲み物に眉根をひそめつつ、グレルに向き直った。
「ブラッディ・メアリーです。.......好みが別れるカクテルですが.......、お嫌いでしたら、す、すみません.......」
この状況―、凄惨な猟奇事件の真相を追って切り裂きジャックを捜査している中、傷心のレディの慰めにブラッディ・メアリーを差し出す彼の感性がよく分からない。
よもやここでレモネードや紅茶やワインではなくカクテル、それもあんな血生臭いものを。
どうにもおどおどと失敗をしたり、時にはこんな凶暴性を見せつけて来たり、この執事は不思議と掴み所がない。
いついかなる時も完璧な仕事ぶりを見せるセバスチャンとは全く違う─。
きっとあの非の打ち所のない執事ならば、こんな時はミルクをたっぷり入れた紅茶を差し出して来ることだろう。
“ミルクにはリラックスの効果がある“などとそんな事を言って、泣き腫らす彼女を上手く慰めてくれるはず。
しかし今宵ばかりは、名前はこの頼りがいのない執事のちぐはぐな気遣いを心地好く感じたのであった。
貴族たちのお喋りとオーケストラの演奏、雑踏のざわめき中で、隠すようにサイドに束ねた弟と揃いのブルーヘアーが揺れる、揺れる。
視線の先には奇妙に親和性を感じる執事が、一人。
名前は掌で包んでいたタンブラーに視線を落とした。
令嬢に差し出すカクテルとしては、粗野で物騒で乱暴で。
それでもテラテラとグラスの中で淀むレッドの色は、美しい。
グラスの底に残ったレッドの残滓に瞳を細めると、彼女は未だおどおどと落ち着かない視線をあちこちに巡らせているグレルに向き直った。
「不思議なヒトですね、貴方は。」
「は、はあ.......?」
「お手を煩わせてごめんなさい。私は大丈夫です。ほんの少し……、ええ、まだ落ち込んではいます。まだ胸が重たくて苦しくて……、弟と顔を合わせることはできそうにありません。」
「……シエル様と喧嘩でもなさったのですか?」
「ええ。」
言って、名前は瞳を閉ざした。
瞼の裏にぼんやりと浮かぶのは、ぎゅっと口元を引き結んだ苦しげな少年の面立ち。
しかしそれはたちまちにブラッディ・メアリーの鮮烈な赤に塗り潰されてゆく。
虚に瞼を持ち上げた時、彼女のピジョンブラッドの瞳には一種の狂気的な輝きが嵌め込まれていた。
それは先程の弟とのやり取りで失ったはずの、鋭い燐の光。
そっと頬に流れ落ちた最後の涙を乱雑に白い手の甲で拭って、彼女は面を上げた。
「やるべきことがあるということを忘れていました。」
「はい。」
「例え弟に制止されたとしても─、私は私ですべきことがある。確かめねばならないことがある。」
「そうでしょうとも。」
「.......そう、ただそれだけのことだったのです.......、私は私で、弟は弟で成すべきことがある。だから私は譲らない。あの子の邪魔はしたくないけれど.......私とて譲るわけにはいかないのです。」
「.......ご立派です。名前お嬢様。」
「.......貴方はもう叔母様の所へ戻って結構ですよ。私はここまで連れてきてくださったリデル夫人と合流しないと─、」
グレル・サトクリフはゆっくりと頭を下げると、“行ってらっしゃいませ“と地味な唇の色に乗せて、歌うように言った。
彼が面を上げた頃には、彼の風貌と同じく地味なラベンダー色のドレスの裾は、既に人込みに紛れてその行方を追うことが困難になりつつある。
会場の熱気、どこかから聞こえて来るワルツの演奏、かしましい貴族たちの話し声。
煌々と照らされたシャンデリアのもと、彼はあの朧げながらも狂おしい赤に魅入られた令嬢の行く先をレンズ越しに追ったのであった。
ぐらりと歪むブラウンの眼光を割って、墓場に立ち上る燐のような黄緑色の視線をくゆらせながら。
「あーあ、欲しくなっちゃうワ。」
(ビビッドレッド/Book of Jack the Ripper ]Y)