The train
※プライベッターにあげている「The train」シリーズと同じ軸(現代パロ)
※何でもアリの妄想設定





午後四時の車内は、オンピーク前のわずかな静けさを乗せて線路を西へとひた走る。
ガタンガタンと酷く騒がしい電車の走行音に身を任せると、名前はちらほらと指紋の跡が残る窓の外へと紅の瞳を差し向けた。
夏のロンドンの夕暮れは遅い。
午後四時とはいえ外はまるで昼日中のように明るく、夕時の気配に空を譲らぬとばかりに曇りがちの蒼天がそこに在る。
放課後といえどもまだ外は昼の陽気。
サマータイムの間だけは、名前の門限も平素より一時間遅らされて午後七時に定められている。
─あと三時間もありますね、
お気に入りのオリビア・バートンの時計の文字盤を眺めて、名前はふむ、と顎に手をやった。

電車はホワイトチャペル駅を通り過ぎ、オルドゲイトストリート駅のホームへと滑り込もうとしていた。
ゾーン2を抜けて、ここから先はロンドンの中心部─ゾーン1へ入る。
ロンドン地下鉄、通称“チューブ“と呼ばれていながらゾーン2の外は地上を走っている時間の方が長いのだが、ゾーン1のエリアは地下鉄という名に違わず薄暗い地下をひた走ることになる。
曇りがちの空にしばしの別れを告げるように窓外を眺めた名前は、スクールバッグの中で振動しているような気がするiPhoneを取ろうと鞄のチャックに手を伸ばしたが、電車がゆっくりと動き出し、目前に薄暗いトンネルが見えると、ふと手を止めて“寄り道をして帰ろうか“と浮かれた思いつきをお花畑色の脳内に浮かべた。
学校の最寄り駅─、アップミンスター駅から飛び乗ったこの電車はウィンブルドン行き。
自宅の最寄り駅であるリッチモンドへは、どのみちどこかで乗り換えをしなければならない。





Next station is Westminster.
This train is bound for Wimbledon.

名前はアーチ状に丸まった車内天井に掲示されているディストリクト線の路線図を見上げた。
次の停車駅がウェストミンスター。
ならば、次で降りてピカデリー・サーカスまで行ってお買い物をしようかしら。
それとも、サウスケンジントンで降りて博物館でも観て回りましょうか─、
ついでにナイツブリッジに寄って弟たちにお土産でも.......、

Mind the Gap.
This station is Westminster.

速度を落としはじめた機体は、キキィーッ!と凄まじく甲高い音とともにウェストミンスター駅のホームへとその身を収めた。
彼女が“あ、“と思う暇もなく自動扉は開かれ、がやがやと観光客風の団体や遊んでいたらしい学生の群れを車内に引き入れる。
押し寄せるような乗客の波に負けてよろめくと、名前はスカートがめくれないよう片手で短いスカートを押さえ付けた。
しかし、気がつけばあれよあれよという間に人の群に押されもみくちゃにされ、車両の反対側へと足がもつれてゆく。
乗客の圧に車内の奥の方へと押し込まれ、名前はどんどんと遠ざかってゆく扉を慌てて見上げてうろたえた。
─ど、どうしましょう!まだピカデリー・サーカスに行くかサウスケンジントンに行くか決めていないのに.......!
慌てて人の波を掻き分けて扉からホームへ降りようとしたが、無情にも彼女の目の前で扉は軽快な音を立てて閉ざされた。
プシュー、と空気に押し出されたように閉じた無骨な鉄の扉はホームと車内とを隔絶する。
“ああ!“と名前が悲痛な叫びを上げた時には、赤と青の機体は何の容赦もなく線路を西へ西へと滑ってゆく。
─、もう.......とろくさくて本当に嫌になります。
がっくりとうなだれて自らのトロさを恨むが、今さら器用に生きられるはずもない。
しょぼしょぼと瞳に憂いを映して名前は人混みの中、深い深いため息をついた。






「はは、どうかしたのかい?そんなに悲しそうな顔をして」


不意に背後から軽い囁きが鼓膜をくすぐったかと思うと、ぽん、と肩に優しく手を置かれて、満員電車の窮屈さに身をよじりながら名前はぐるりと勢いよく背後を振り返った。

「、お父様!」
「やあ、」

軽く手を上げてみせた父は、愉快そうに暗い瞳の色を瞬かせて名前の髪を撫で付けた。
仕立てのよい漆黒のスーツをぴしりと着こなしているところをみると、どうやら彼も帰宅中らしい。
しゅるりと深いブルーのネクタイを外してシャツのボタンを二つほど開けると、彼は手にしていた上等な革の鞄にネクタイとグローブを押し込んで娘に微笑みかけた。
“お前は学校帰りかな?“と彼女を愛でるように撫でて聞くが、当の娘の方は父がこんなにも早い時間に帰ってくることは珍しく(更に言えば上院議員である彼がチューブに乗っていること自体が非常に稀である)、ぱちぱちと垂れがちの大きな瞳を瞬かせるばかりである。
名前は幾度目かの“ぱちぱち“の後に、不思議そうに父親を見つめて唇をぽってりと開いた。

「お父様がこんなに早く帰ってこられるなんて珍しいですねえ」
「もう今日はさっさと帰りたくなってしまってね。会食の予定をすっぽかしてきてしまったよ。」


ヴィンセントは悪戯っぽくウィンクをしてみせると、クスクスと笑って“後はタナカが適当にどうにかしてくれる“とにやりとしている。
名前は父の行為が多方面に迷惑をかける悪いことであると認識しながらも、久方振りに大好きな父親と共に家路に着ける幸せを頬の内側でじっくりと感じた。
─お父様と一緒に帰れるのなら、寄り道はやめておきましょうか。
先ほどの落ち込みをすっかり忘れてしまったかのように頬を紅潮させると、名前は至極嬉しそうに父親の腕にぎゅうっと抱き着いた。
“おっと、“
車体はウィンブルドンへ向けて大きくうねるようにカーブしたトンネルを通り抜けてゆく。
ゴオオッ、と地下鉄特有の轟音が車内に響き渡ると、揺れと娘の飛びつきに体制を崩しかけたヴィンセントはにこにこと嬉しそうにはにかむ娘を抱えて咄嗟に手すりを握りしめた。


「お仕事お疲れ様です。」


まるで語尾にハートでも浮かんでいるかのような口ぶりで名前は見目麗しい父を見上げた。
彼女の先ほどの声音に色彩をつけて可視化したとすれば、それはひどく甘ったるいミルキーピンクのリボンにこれでもかというほどフリルを盛ったようなものになるだろうと思われる声であった。
こういう名前の恐ろしく脳天気でのんびりとした性格に彼女の弟たちは時に苛立ちを覚えるようであったが、父親のヴィンセントは娘のおっとりとした気性を悉く気に入っている。
でろでろに蕩けた甘ったるい少女の声を車内のざわめきと共に味わうと、彼は名前のスクールバッグをさりげなく持ってやり、穏やかにその形のよい耳元で囁いた。


「サウスケンジントンで降りてアフタヌーンティーでもして帰ろうか。ちょうどV&Aでガーデン・カフェが始まっただろう。」
「!、わたし、実は丁度寄り道をして帰ろうと思っていたのです!」

V&A─、ヴィクトリア&アルバート博物館。
19世紀、ちょうどヴィクトリア朝の展示物を収めたロンドンでも人気の博物館である。
その中庭で夏季のみ限定開催するガーデン・カフェは、毎年の名前の楽しみの一つであった。
夏季限定のガーデンカフェでは、美しく刈り揃えられた博物館の中庭でハニーサックルの蔓や柔らかな花弁を開かせる薔薇を愛でながら美味しいスイーツと紅茶を楽しむことができる。
ナイツブリッジへ向かう大通りの喧騒から離れ、博物館のひんやりとした静寂を流し聞いて眺める植物の美しいことと言ったら!
博物館自体がルネサンス様式の赤煉瓦の建物であり、植物のみならず建築までもを楽しむことができるのも、このカフェの大いなる強みであった。
一度、幼い頃に叔母のマダム・レッドに連れてきてもらってからというもの、名前は毎年欠かさずに通ってしまう程度にはすっかりガーデン・ カフェの虜になっている。
庭や建物の美しさもさることながら、取り扱われているフードは全てロンドンで知らぬ者はない有名店の商品であり、何度頬張っても飽きることがない。
なんと素敵な空間か、とため息すらこぼれ落ちる。
そのガーデン・カフェに、大好きなお父様と一緒に行けるなんて!
名前は頭上に音符を浮かべ、嬉しそうに口元を緩ませた。


「お母様やシエル達には内緒にできるね?」


狭い車内で、身動きの取れないヴィンセントは視線だけを名前に向けて言う。
それに、彼女もぶんぶんと首を縦に振って応えた。
母も、それにスイーツが大好きな弟たちも、名前とヴィンセントが二人だけでカフェに行ったと知れば“ずるい“と文句を言うに違いない。
かわいい弟たちの掠れたアルトで“姉さんだけずるいですよ“と恨めしげな視線に晒されることを想像し、名前はくすくすと微笑をこぼした。


「はい、お父様とわたしだけの秘密です。」
「いい子だ。」

父と娘の小さな秘密を乗せて、列車は線路を滑る。
ウェストミンスターを過ぎ、セント・ジェームズパークを過ぎ、そして気がつけば無機質な男性声の車内放送は次の停車駅を告げていた。

"Next stop is Victoria."


カフェのあるサウスケンジントンまで、あと一駅。
カシャカシャと小刻みに聞こえるミュージックの音漏れに、誰かが車内に置き去りにした新聞を拾い上げて読むサラリーマン、観光客風のグループは今晩のホテルを探しているのか地図に視線を落とす。
混み合いはじめた夕時の車内は、多様な人間の人生を乗せて薄暗いチューブを突き進む。
名前は父の腕に掴まると、到着が待ちきれないとばかりに切り揃えられた前髪を撫で付けたのであった。
父親が持ってくれた鞄の中で、先程からiPhoneがピカピカと着信を知らせて点滅しているとも知らずに。










人で溢れ返る改札に翳したオイスターカードがピッ、と軽い音を立てる。
名前は無事に改札を通りすぎると(トロすぎてたまに引っ掛かってしまう日もある)、いつも以上に軽い身体をくるりと一回転させてヴィンセントが改札から出てくるのを待った。
シャッ、と切符が通されると、改札扉が重たそうに開く。
スタイルのいい父は、スマートに改札を通ると長い脚を見せ付けるようにして名前の方へと歩み寄ってきた。


「まあ、お父様ったら切符をお買い求めになったのですか?」
「ああ、俺はオイスターを持っていなくてね。」


“普段は車でしか移動しないから“
小さく肩を竦めた父の隣に並ぶと、名前は“いけませんよ“と唇を尖らせて父の手を握った。

「切符を買うと料金が高くなります。」
「まさか地下鉄の初乗りで£5近くするとは思わなかった。」
「オイスターで乗れば£3しないのですよ。切符を買うなんて、資源とお金の無駄遣いです!」
「ふうん、じゃあ俺はとんでもない無駄遣いをしてしまったことになるのかな」
「そうです!」
「お前がそう言うなら、今日はこれ以上の無駄遣いは辞めて真っ直ぐ家に帰ろうか?」
「えっ!?」


意地悪そうな光を瞳に映して笑うヴィンセントに、名前はあわあわと目を白黒させた。
帰る!ここまで来てカフェに寄らずに!
父とお茶をすることを楽しみにしていた彼女は、父の腕にぎゅうっとしがみついてあわてふためいたように彼を見上げた。


「........」
「あう.......、」


にっこりと非の打ち所のない笑顔を浮かべた父と視線が絡む。
これは、議会答弁の中継でたまに見かける顔だ。
政敵を容赦ない口撃で追い込む時の、わるい政治家の顔。
名前はうるうると夕陽色の瞳に涙を溜めると、ダメ押しとばかりに父親に上目遣いで懇願してみたが、彼に名前を許す気はないようである。
“あまり遅くなるとレイチェルも心配するしね“
名前の手を引いてくるりと改札へ向かおうと振り返ったヴィンセントに、彼女は堪えきれなかったとでもいうようにわっと泣き声を上げて父親の胸に縋り付くと、溜まりに溜まっていた涙をぽろりと零した。



「ごめんなさい.......お父様に生意気なこと言ってごめんなしゃいっ........」
「.......」
「.......カフェ行きたいです.......お父様と一緒にお茶したいですぅ.......」
「.......」
「.......ごめんなしゃい.......」


ヴィンセントは美しい貌に愉悦を浮かべ、しょぼくれる娘の髪を梳かすように撫でた。
大きな父親の掌に髪の束を掬われると、名前はこの数秒で瞳を真っ赤に充血させて彼を見上げる。
わるい政治家の顔─、ではない。
慈しむように彼女を見下げる、父の顔を。


「ごめんね、お前があまりにも可愛いから意地悪をしてしまったよ」
「.......?」
「大丈夫だよ、最初から怒っちゃいない。カフェにもちゃんと行くさ。」
「本当ですか.......?」
「ああ、本当だよ。お前は泣いている顔が一番可愛いから、どうしても意地悪がしたくなって。」
「........ひどいです.......わたし、本当に悲しかったのに.......」



ぐすぐすと碧い悲しみを思い出して鼻を啜る名前の手をぎゅうっと握ると、ヴィンセントは困ったように─それでいて至極嬉しそうに─、笑いながら、駅から直結の地下道を北へと脚を進めた。
薄暗い地下道の壁はスプレーの落書きやガムの吐き出された跡などで汚らしいが、自らが手を引いている愛娘はその中に在って異彩を放つように輝いている。
この泣き腫らした瞳のなんと可愛いことか.......、
ヴィンセントは柔らかい名前の肩を慰めるように摩り、ずっと持ってやっていた彼女のスクールバッグを肩にかけ直した。
─ほら、みんなが俺の名前を見ている。
あそこのサラリーマンも学生も、子供ですら名前の可愛い姿に釘付けだ。
彼はゆっくりと自尊心と嗜虐心が満たされてゆくのを感じた。
しかし、道ゆくロンドンの人々が彼女にじろじろと無遠慮な視線を投げかけていた理由については、ヴィンセントの思い込みではなかろうかと思われた。
名前が可愛いから見られている─、というよりは、ハイスクールの制服を着た少女が年甲斐もなくパブリックな場で泣き顔を見せている“異質“か、それともその隣で歪んだ笑みを浮かべている父親の“異質“か、そのどちらかに反応したと考えるのが無難な答であろう。
しかし、そんなことはこの父親にはどうでもよいことのようであった。
満足した彼は、ぐずりながらついて来る名前の頬に優しくキスを落としたのであった。
この公の場で、名も知らぬロンドンの人々に、まるで“これは自分のものだ“と見せ付けるかのように。



歪んだ父親の肩に下げられたスクールバッグの中では、未だ諦めの悪い誰かからの着信が鳴りつづけている。
名前が学校を出た時から、いくつも着信とメッセージを残している"誰か"。
名前の大好きなブランドのiPhoneカバーと同じ色、鮮烈な赤い瞳の男からの囁きが、バッグを通して微かな震動を彼女に発信し続けているが、運の悪いことに先に"ラブコール"に気がついたのは、鞄を持ってやっていた父親の方であった。


「……」


先程からしつこく鳴り続けるのバイブレーション。
娘との時間を邪魔する"誰か"。
─それが友達であろうと家族であろうと、決して許しはしない。
ヴィンセント・ファントムハイヴはおよそ人の親とは思えぬ冷たい瞳でバッグから名前のiPhoneを取り出すと、ぶつりと電源を落とした。
途端、消えるホーム画面。
液晶の内側を物言わぬ闇が塗り潰し、ヴィンセントはようやく安心したかのように小さな機体を鞄の内ポケットに押し込んだ。



「ねえ、お父様………、ケーキを二つ食べてもいいですか……?」


涙の跡の残る頬を晒して名前がおずおずと呟く。
ヴィンセントは人の好い"父親の顔"を貼り付けると、彼女の唇をつんつんとつついて微笑んだ。



「食いしん坊だね。………だけど、意地悪をした罪滅ぼしをしないといけないし。好きなだけ食べるといいよ。」




"やったぁ"とのんびりとした名前の声が地下道に響く。
V&Aの看板はもはや目前。
ヴィンセントの長い脚が踏み締める革靴の音が、名前の行く先を導く。
周囲に悟られぬよう、美しい瞳を歪みねじきれごちゃごちゃに絡まった愛情で染めた彼は夕時のロンドンの空気で臓腑を満たしたのであった。
行き交う多様な人種、行き交う多様な立場。
ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。
平日のロンドンに、ただ娘を愛しすぎただけの父親の含み笑いがそっと、伝っていった。






(The train─I HEART LONDON─/Vincent , ?)




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