Last Encore Y
父が授業に出ている間、部屋の中の物は自由に触ってもいいと言われた。
きょろりと広いような狭いような気のする室内を見渡してみると、やはり一番に目に付くのは上等そうな本棚である。
古い胡桃の木の本棚には、ぎっしりと多種多様なジャンルの書籍が詰め込まれているらしかった。
そろそろと棚に近寄って見れば、行儀良く棚に並ぶ背表紙たちは古そうなものから新しいものまで色とりどりである。
すう、とインテリジェンスな古紙の匂いで肺を満たす。
棚には定番のシェイクスピア、ディケンズ、ミルトン、テニスンやブラウニングのような詩集もいくつか。
英国文学だけでなく、中にはフランス語の小説も何冊か収められていた。
難しそうな哲学書や経済学の書籍もあったが、こちらはぺらぺらと目を通しただけでも“意味不明“であったのでそっと本棚に戻す。
何もすることがないというのも退屈だった名前は、そろそろと勉強机の横にあった本棚からいくつか小説をピックアップしてつらつらと読み進める作業に徹することにした。



どれほど時間が経ったろうか。
名前はエリス・ベルの『嵐が丘』を読み終えた。
最後の一行を、もう一度と視線でなぞる。
あっけなくもひどく寂しい余韻を残して幕を下ろした物語。
寂寥としたヨークシャー、ハワースの冷たい風が吹き荒む苦しさが彼女の胸を締め付けた。
これほど苦しく、寂しい読了感があろうか。
復讐鬼ヒースクリフの心情にすっかり感情移入してしまった名前は、ぐすぐすと冷たい涙を瞳に溜めてハードカバーの小説を閉じた。
いけない─、昼間からこんなに悲しい作品を読んでしまって。
アッシュグレーの枯葉が身体の内側に積もってゆくような、心に亀裂の入るような、そんな
センチメンタルに胸を押し潰されそうだ。
それでも、厳しいヨークシゃーの自然を取り巻く悲劇は美しい。

名前はもう一度、くすんと鼻を鳴らすと気を取り直したように本棚に視線を戻した。
今度は趣向を変えて耽美で派手な─、目も眩むほど退廃的な世界を。
少し気分を変えなければ、こういった息も継げぬ感傷的な物語ばかりでは自分の精神が保たない。
名前はそろそろと背表紙のタイトルを撫でるように人差し指で確認して、オスカー・ワイルドの作品を探した。
しかし三段組みの本棚に一冊も彼の作品が無いことに気がつくと、こてんと首を傾げた。
きっちりと作者の名前に沿ってアルファベット順に並んでいる本棚を一周、二周と見返す。
しかし、無いものはない。
存在のないものを視界に入れられるほど、名前の頭も正気を失ってはいないらしかった。
おかしい、これほど読書家の父がワイルドのような有名人の作品を一冊も読んでいない......?

お父様はオスカー・ワイルドがお嫌いだったでしょうか?
─いや、そんなはずは無かった。
マナーハウスの父の書斎には『ラヴェンナ』や『パドヴァ大公妃』があったと記憶している。
ワイルドの作品でも特に古い作品ばかりだったが......、


「あ、そっか......」


そこで、はたと気がつく。
ここが1869年であるということに。
ミスター・ワイルドとは面識があるが、彼は現在30代の後半である。
考えてみれば、この時代ではまだ彼は15歳ほどのはず。
まだあの傑作達は世に流れるどころか彼に執筆されてすらいない。
『幸福な王子』も『カンタヴィルの亡霊』も、まだこの世に送り出されていないのだ。


「.....、」


それは、不思議な感覚だった。
そっと手を伸ばして本棚の隣の窓を覗く。
開け放された窓の外には、変わらぬ美しい街並みと空が広がっていた。
重厚な煉瓦造りの寄宿学校、オレンジがかった屋根の家々、遠くに見える一際古い煉瓦塔はウィンザー城だろう。
澄んだ透明のヴェールに包まれた遥かな太陽、どこか冷たくも感じる英国の夏風。
どれもこれも、今まで自分が見ていたものと何一つとして変わらないのに─、
時代だけが遅れている。
自分の時代には当たり前だったものがない。
そして、当たり前に側にあったものを父が知らない。
そう、あの少し意地悪で自信家な父はこの数十年後に自らが不慮の死を遂げることも、
知らない。



「......、」


父に告げれば、何か変わるだろうか。
彼女の胸に、寒々とした寂寥感が押し寄せる。
それは、ハワースの厳しい荒野を吹き付ける突風のように乾いた痛々しい提案であった。
父に告げれば変わる?“あの日“が?
ひっそりと、耳元でひゅうひゅうと風が鳴っている。
そう─、そう。
もしも“あの日“、父に何らかの警告があれば。
もしも“あの日“、何かが起こると父が知っていれば......。
今頃は家族五人で幸せに暮らしているかもしれない。
私はきっと学校を卒業するまでフランスにいられて、それこそあの子達はウェストン校に通っていることだろう。
そしてお父様は番犬としてのお仕事の傍らに領地を治めて、お母様はその隣で優しく微笑んでいる─。





「ただいま、名前」
「おい!!!!!!!お前本当に自分の部屋に女を住まわせていたのか!!!!!!!!!!」
「!」


突如として鳴り響いた怒号とバタン!と乱暴に開け放された扉の音に、名前はびっくりとして手にしていた『嵐が丘』を取り落とした。
ゴトン!本が床を打ち付ける重い響きが物思いに耽っていた名前の意識を打ち破る。
何事かと扉を振り返って、ハッと息を呑んだ。
扉の向こう、木造りの廊下に父と同じ制服の男が一人。
性格にいえば中に来ているウェストコートの生地が違うようだが、彼はおおむねヴィンセントと同じ制服に身を包んでいた。
父よりもいくらか背が高く、さも“青年“然としたがっしりとした身体つき、精悍な面持ち。
道行く女性に熱視線を向けられてもおかしくない、ハンサムな青年。



「.......!」


彼女は驚きに眼を丸くした。
扉の前で肩を怒らせて父の胸倉を掴む大柄の男をその紅の瞳に映して、口元を掌で覆う。
あの険しい顔を知らないはずがない─、
見た目は恐ろしいけれど本当はぶっきらぼうに優しさを与えてくれると、そして意外にも常識人であると、真面目で“いい人“だと、よく知っている。
今や記憶の底で燻っていた“彼“の姿に、名前は『嵐が丘』をベッドサイドに置いて、無意識的にぞっと後退りをした。
ずる、ずる、一歩ごとにスカートの裾が床板に擦れる。



「ディーおじ、さま......」
「は?」



鋭い黒曜石の瞳が彼女を射抜く。
それはまるで名前を品定めしているようにも思えた。
どれほどの価値があるか、何者か、じろりと疑る視線。
ぎゅう、とグレンチェックのスカートを握り締める、
ぐにゃりと変形したチェック模様をちらりと横目に入れて、ヴィンセントは名前の肩に手を置いた。


「名前?」
「あ、ご、めんなさい、あの、少し......動転してしまって。」




彼女はケロリと頬に花の綻ぶような笑みを浮かべると、ディーデリヒに駆け寄った。
一足だけ無くしたシューズの代わりにぶかぶかのヴィンセントの革靴を履き、もう片方では辛うじて残っていたハイヒールを履いた、あべこべな靴音が床板を叩く。
カツン、ゴトン、カツン、ゴトン。
すらりと背筋を伸ばしたディーデリヒの目前に立つと、名前はぺこりと頭を下げた。


「.......ごめんなさいお父様、おじさま。さっきまで『嵐が丘』を読んでいたものですから、少し憂鬱で。」



ヴィンセントの探るような視線をかい潜るように笑顔を浮かべた名前は、本当に何でもないのだとばかりにぱしぱしとスカートを叩き、部屋の入口で棒立ちになっていたディーデリヒにちょこんと礼をした。
ふわりと風を孕むスカートの裾を細い指先で摘み、軽く引き上げる。
可憐に足首を交差させて膝を曲げると、ふわりと少女らしい甘い香りが広がった。
それは、隔絶された世界に生きる彼らには少々刺激に過ぎる危険な甘ったるさを含む薔薇の香り。
指先から立ち上るそれは、ともすれば螺旋を描いてヴィンセントの部屋全体に届くほどにはっきりと、"女"を主張する。
ヴィンセントの方は特に気にした様子もないが、ディーデリヒは明らかに鼻先を掠めるレディライクなパルファムに動揺していた。
首元までを真っ赤に火照らせた彼は、じろりとヴィンセントの方を睨みつけて何とか名前から視線を外そうと躍起になっているようにも思える。




「お久しぶりです、ディーおじさま。まだご存知ないでしょうけれど、名前と申します。」
「.......あ、ああ。」




差し出された柳の木のように細い手を取る。
にこりと微笑みかけられて、握手を受け入れたものの当のディーデリヒは柔らかい少女の手の感触と不可解な言動に複雑に眉をひそめていた。
無理もない。
女を連れ込む不届きな監督生を断罪するつもりが、気がつけば年頃の女を目の当たりにし上がっているところで、その女が今度は“おじさま“という呼称と共に自らに握手を求めてきたとあれば、彼が混乱するのも頷ける。
ヴィンセントは恐ろしく冷静に瞳孔を狭めた。
あまり時間がない。
廊下にぽつんと置かれた置時計は、文字盤のWを指している。
想定外ではあったが、彼が女にこれほど耐性がないとあれば、これを使わない手はない。
彼には悪いが、このまま押し切らせてもらう。




「そうそう、紹介が遅れたね。俺の娘だよ。」
「は?」




名前の肩に腕を回してにこりと言うと、ディーデリヒは途端に端正な顔立ちを崩した。
は?、まさしくその音の通りに“理解不能“と表情一杯で表す。
どこか間抜けにも見えるその主立ちにくす、と微笑を漏らし、ヴィンセントは畳み掛けるように唇を開いた。



「君が知りたがっていた“女“さ。正真正銘、俺の娘だよ。1889年から来たんだ。」
「は、............は?」
「未来の首相はロバート・ガスコイン=セシルらしい。ね?名前。」
「はい!」
「......」





─混乱してるな。
ヴィンセントはぺろりと唇の端を舐めた。
目前で目を白黒させてがっしりとした体格を持て余しているディーデリヒは、見る者によっては憐れにも見えた。
彼は未だクリケットの用具入れの木箱を抱えているが、それを取り落とすのも時間の問題であろうと思われる、動揺。
こういう直情型の男ほど扱い易い者はない。
この手の人間は言動と態度で惑わせばころりと思考力を失うのだ。
そうなれば、後は彼が最も得意とするところである。
適当にそれらしい言葉と態度でこちらの都合のよいように誘導してやればいい。
羊を追い囲う牧羊犬のように、“こっちだ“と追い立ててやれば。





「と、とりあえず!!娘であろうが姪であろうがその辺で拾った女であろうが学内に女を入れたお前の行動は学園にほうこ─、っ、」


人差し指を、その口元に突きつける。
黙れという意志はびりりと眼圧から直接に届いたようだ。



「っ、」


怯んだその隙がチャンス。
ヴィンセントはにい、と口端を狂喜に歪めると、テムズの流れのごとくすらすらと用意されていた言葉を口にした。



「ところで君、ウェストン校校則第96条を知っているかい?」
「なんだいきなり......、96条がどうとかいちいち覚えているわけがないだろう」
「ダメだねえ。監督生たるもの、校則くらいは暗記しておかないと。」




ヴィンセントは名前を軽やかに勉強机の椅子にエスコートすると、華麗に顎に手を当てて呟いた。



「ウェストン校校則第96条。他寮に立ち入るべからず。─さて、困ったことにここはブルーハウスの敷地内だ。俺もたまには監督生らしく違反者を学園に報告した方がいいかな?」




ディーデリヒのグリーンのウェストコートをぴしりと指差して、得意げに笑む。
厭味たらしく口角をあげた彼は、椅子に越しかける名前の頭頂部をぽんぽんと叩くように撫でて片眉を吊り上げた。



「─どうする?」
「っお前!そのために俺をここまで連れて来やがったな!」
「残念ながら校則には“監督生の許しを得ればその限りではない“とは書いてない。誰の許しがあろうが誰に呼ばれようが、ここへ足を踏み入れた時点で君の負けだ。」


"だから言っただろ、憤怒は身を滅ぼすって。"
それは、華麗なるゲームセットの瞬間であった。
怒りに拳をにぎりしめるディーデリヒの悔しげな表情を愉しんで、彼はひらひらと手を振ってみせる。
“ご苦労様“─、
言わんとしているところはこんなところであろうか。
ディーデリヒは受け入れがたい敗北を無理矢理に飲まされたと険しい面持ちを一層締め付けて、大きく舌打ちをした。



「さあ、これで君も共犯だね。」



ヴィンセントのテノールボイスは、高らかに歌うように続く。
未来から来た娘、突然の動転、グリーンハウスの監督生、学園に隠れて女を匿うミッション。
日常は、彼の望み通りに非日常に塗り変えられて行く。
まだまだ愉快は尽きない。
彼は名前の肩に寄り掛かり、悪どい笑みを満面に浮かべてディーデリヒを見据えたのであった。







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