時計の文字盤だけを信じるならば、時は16時を少し回ったところ。
しかし、親子の頭上に広がるのはまばゆいばかりの晴天である。
宵の爪先すらも窺えぬ英国のサマータイムにキスをするように、大きく息を吸う。
名前はその貪欲な胃袋を甘酸っぱい夏の陽光で満たして、くるりと一回転した。
「こらこら、あまりはしゃぐと転んでしまうよ」
「はぁい」
タン、とステップを踏むように父の側へ駆け寄ると、ヴィンセントは器用にも片手でフード類の乗ったトレイを支え、娘の手を引いて手近なテラス席に腰を落ち着けた。
洗い立てのシーツのように清潔なホワイトのパラソルと洒落た猫足のテラスチェア。
腰掛けると冷たい金属の椅子に触れて一瞬、肌が粟立つ。
しかし名前は不快にも思える金属の感触を気にかけた様子もなくへらへらとヴィンセントに微笑みかけた。
先ほど父に意地悪をされて泣いていたとは思えぬ切り替えの早さであるが、これは日常的に父や弟や友人や、つい最近できた年上の恋人に泣かされている彼女ならではの特色であるのかもしれない。
基本的に名前は、生来の単純さも手伝って何か嫌な事があっても気がつけばケロリと忘れてしまうのである。まるでそれが、悪い夢であったといった具合に。
そういう、単純で扱いやすく、どこか間抜けにも思える娘は何よりも誰よりも愛らしい。
例えるならばヴィクトリア朝式の─、小難しいことは何も知らない“家庭の天使“然としたところが何とも嗜虐心をくすぐるのである。
彼女を見ていると、大事に持っているぬいぐるみなどを取り上げてその目前で八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られる。
ヴィンセントはテーブルに肘を付き、呑気に何から食べようかと思案を巡らせている名前にくすりと微笑みかけた。
美しく磨かれた白テーブルの上には、銀のトレイ。
シルバーなのかアルミなのか確かなことは判別できないが、きらりと日光に輝くトレーの上で行儀良く座っている三種のケーキはどれもこれも色彩に溢れた可愛らしさがある。
黄色っぽいパウンドにざらりとしたホワイトのアイシング、そしてアイシングの上に散りばめられたレモンとオレンジのピールが美しいウィークエンドシトロン。
キメの細かい生クリームがぎっしりと隙間なく敷き詰められたバノフィパイは、コンデンスミルクとバナナの背徳的な甘い香りがねっとりと唇に絡み付いて来る。
そして、名前が特に瞳をキラキラと宝石に変えて熱っぽく見つめていた、ビーツの練り込まれた真っ赤なカップケーキ─、レッドベルベットケーキ。
美しい紅の生地の中央にたっぷりとホイップされたクリームチーズのフィリングの白さと、散らされた薔薇の花びら、キラキラとジュエリーのようにケーキの中央に鎮座するストロベリーの美しいこと!
名前は“どれから食べようかしら“と頬を際限なく緩ませてでれでれとアンティーク調のシルバーフォークを手に取った。
「ふふ、やっぱりお楽しみは最後まで取っておきます」
機嫌よさ気に音符を飛ばした名前は、バノフィパイを手元に引き寄せた。
どうやら、レッドベルベットケーキは最後に取っておくらしい。
ヴィンセントは娘の幸福そうな表情に、ふと“あの赤いケーキを一口で食べてやろうか“という意地の悪いことを考えなどしたが、もう今日は先ほど彼女を泣かせてしまったばかりである。
すらりと流れるように脚を組み替える。
そう─、そうだな。
また彼女の可愛い涙を見るのも悪くはないが、それよりは“あーん“と名前の手ずからケーキを一口食べさせてもらう方がいい。
ほんの一瞬のうちにそこまで頭を回したヴィンセントは、もしゃもしゃとバノフィパイを口に運んでいる名前をじっと見つめた。
「......?」
ツヤツヤと愛らしいメルティピンクに色づいた小さな唇が、一口大に切り分けられたパイの欠片をはむはむと口内に誘い込む、その動きですら愛おしい。
我が娘ながらこの圧倒的な可愛らしさにはどんな花もどんな人形も敵わぬものと思われた。
でろでろに蕩けた眼をして甘いパイを咀嚼する小さな妖精。
その口元に運ばれ名前の体内で優しく溶かされるクリームにすら軽い嫉妬を覚える。
ヴィンセントはウィリアム・モリスのデザインだというティーカップにゆっくりと口をつけた。
注がれた茶は、ティーカップに描かれたスズランの花の可憐さによく似合うロンネフェルト社のアイリッシュモルト。
ミルクをったっぷりと入れた紅茶の滑らかな舌触りの力を借りて、ヴィンセントは名前の方へ軽く身を乗り出すと、“あーん“、とその唇を開いた。
「お父様ったら、」
くすりと天使の微笑みが甘い甘いバノフィパイの上に降り注ぐ。
名前は少し大きめにパイを切り分けると、丁寧に手を添えてフォークを父の口元へと運んだ。
「はい、あーん」
瀟洒な銀のフォークの先端が、優しく彼の唇に吸い込まれてゆく。
父は、こうして見ると本当に自分の父親だろうかと疑いたくなるほどに整った容姿をしている。
伏せられた睫毛は長く、すらりと通った鼻筋や色っぽい泣きぼくろはまるで絵画のそれである。
顔だけを見れば中性的にも見えるが、もぐもぐと上品にパイを咀嚼する唇は薄くて男性らしい。
細いものの毎週ジムに通っているお陰か、以外にもしっかりした身体つきをしていることも、父の魅力を引き立てている。
名前は机に両手で頬杖をついてくすりと微笑を含ませた。
かっこよくて教養に溢れるお父様。
世界中の人に“この人が私のお父様です!“と自慢をして回りたい。
名前は同じくスズラン模様のティーカップを両手で包み込んで、紅茶の温もりで掌を暖めた。
「甘いね......、コンデンスミルクの匂いだけでも噎せそうだ。」
「あら、お父様は甘いパイはお嫌いですか?」
「いや、嫌いではないけど......、さすがにこうまで甘ったるいとオッサンにはキツイものがあるね。」
「いやだ、オッサンだなんて。お父様はお若いです!」
「そうかなぁ......、もう俺も40歳になるからねえ」
「とんでもない!実年齢はそうでも見た目は20代にしか見えませんよ!」
「嬉しいことを言ってくれるね。お前も世辞を言う年頃になったのか。」
「お世辞じゃないです!本心ですっ!」
ぱくり、また一口とバノフィパイを小さな口に放り込む。
煮詰められたコンデンスミルクのトフィが舌と唇にねっとりと絡み、バナナの欠片がごろりと舌の上で踊る。
それからダメ押しとばかりに舌を覆う滑らかな生クリーム─、
ずっしりとしたパイの香ばしいバターの風味が混ざり合えば、粘着な甘味が口内を染め上げる。
名前は押し寄せるクリームとトフィの甘い波擣に身を任せ、“ふわぁ“と満足げな息をついた。
ゆっくりと傾き始めた陽は、その光の帯に微かな夕の色を織り交ぜつつある。
夕時の博物館の中庭は、仕事終わりの社会人や学校帰りの学生、観光に疲れた旅客達でやや騒がしい。
中庭の四方を囲む赤煉瓦の外壁に暮れの陽が差し込むと、途端にオープンテラス群はほんのりとした紅に染まりはじめた。
しかし、天は未だ蒼穹。突き抜けるような晴れ間である。
空気だけがイヴニングに変わってゆく雰囲気が面白い。
仕事や学校が終わった後にも広がる青い空は、まるで英国の夏にプレゼントされた余暇のようであると名前は思った。
学校や仕事を済ませた後にも明るい外界。一日はまだ終わらない。
庭園の中央に設えられた平べったい煉瓦の噴水が、定刻通りに水しぶきを噴き上げる。
プレップスクール帰りと思われる聡明そうな顔つきの少年たちが噴水に駆け寄ってゆくのを見届けて、名前はゆっくりとアールグレイの深い香りを吸い込んで喉元を潤した。
「ああ、そうだ。名前、こんなの買ってみたんだけど、使う?」
「え?」
噴水で遊ぶ少年たちの集団を微笑ましく見ていた可愛い名前を見つめていたヴィンセントは、ごそごそと上等な革の鞄から小さな包みを取り出し彼女に手渡した。
洒落たピンクとレッドの包み。中央分には金文字でCharlotte Tilburyの文字が刻印されている。
Charlotte Tilbury─、最近流行りのコスメブランドである。
この大きさならば、もしかすると中身はルージュであろうか。
名前は期待に瞳を輝かせ、きらきらと父の方を見遣った。
「開けてみて」
その一言を合図とし、そわそわと包装紙を丁寧に解く。
同じくブランドロゴのシールを丁寧に剥がし、包みの中をこっそり覗いてみた。
緩衝材に包まれた細長い筒状のもの─、やはりルージュ!
飛び上がりたいほどに心がときめくのを、彼女は自らの身体の内側で感じていた。
しかし同時に、一抹の不安が心の奥底を黒く滲ませる。
Charlotte Tilburyといえば、女子高生の憧れのブランドである。
価格帯がそもそもジョン・ルイスやハロッズ、ハーヴェイ・ニコルズのような百貨店に並ぶよう設定されているだけあり、普通の女子高生の手に届くものではない。
比較的裕福(比較的どころか間違いなくアッパークラス)で、生徒のほとんどが企業の社長や爵位持ちの貴族の息女である名前の学校ではCharlotte Tilburyのコスメを持っている者も多くいるが、これはさすがに“セレブ向け“であるだけになかなか小娘の唇には似合わぬのが皆の憂鬱の種だったのである。
名前はそうっと、緩衝材を剥がして中見のリップスティックをそろそろと手に取った。
いくら貴族の娘で、裕福で、上品な育ちをしているといえども自分も間違いなく17歳の小娘。
こんな大人のレディのリップは似合わないかもしれない。
そろそろと、金鍍金に覆われたリップスティックを人差し指の先で摘む。
Cのロゴが刻印されたキャップを開けてくりくりとルージュを繰り出してみれば、頭を出したのはほんのりとしたヌーディなパステルピンク。
きっぱりとしたレッドやヌーディ色の多いCharlotte Tilburyには珍しい、普段遣いに向きそうな淡い色味である。
“こんなお色、あったでしょうか......“、
名前はまじまじとスティックを見つめた。
すると、彼女の疑念を察したようにヴィンセントが“今日から販売の新色なんだって“と言葉を添える。
まあ!といった表情で父に視線を戻すと、美しいケーキの向こう側で、父は風にブルネットの髪を靡かせて紅茶に口をつけている。
髪に掛かる横髪を軽く耳にかけると、ヴィンセントは名前の頬をちょんちょんとつついて満足げに口を開いた。
「店員さんに見繕ってもらったんだよ。名前の画像を見せて、“この子が毎日つけられる色が欲しい“って。」
「ええ.....!そんな、お誕生日でもないのに......!」
「いいんだよ、ちょうどレイチェルがそのブランドのアイシャドウが欲しいって言ってたとこだったし。そのついでに買ってみただけだから。」
ヴィンセントは涼しげな顔でティーカップから唇を離した。
確かに父の鞄を見ればもう一回り大きい、それこそアイシャドウパレットでも入っているものと思われる包みがもう一つ、ちらりと見える。
母へのプレゼントのついでだったとしても、憧れのブランドのリップをわざわざ購入してプレゼントしてくれるとは、この父親はどこまで私を甘やかすのだろう。
名前はほんの少し恐ろしい気持ちになりながらも、ぎゅうっとリップスティックを胸元で大切そうに握りしめた。
ひやりとした冷気が入り混じりはじめた紅の風に身を任せ、舞い上がったサイドの髪を撫で付ける。
辺りのざわめきと噴水の水音は格好の雑音であった。
恥ずかしくて言えない言葉を、するりと彼女の唇の先から導いてくれる。
「ありがとうございます、お父様。大好きです。」
恥ずかしげにはにかむ娘の背後に輝く陽が眩しい。
ヴィンセントは“どういたしまして“と瞳を伏せて満足げに“大好き“の言葉を受けとった。
もう一口、と名前のフォークを取ってバノフィパイを食す。
先程までは“オッサンにはつらい“と言っていたが、不思議とそのくどい甘さを容易く唇に溶かして彼はクリームを飲み込んだのであった。
「それ、早速試してみたら?」
「はいっ!お手洗いで塗ってみますね」
名前はるんるんと短いクリムゾンチェックのスカートを揺らして立ち上がった。
むっちりとした太ももがぺろんとめくれるとヴィンセントは“いくら何でもスカートが短すぎやしないか?“と顔をしかめたが、とはいえせっかく上機嫌の名前に小言を言ってやるのも可哀相である。
ひとまずスカート丈に関する説教は帰ってからにするとして、彼は名前の鞄からiPhoneを取り出すと、彼女の制服のブレザーのポケットにするりと差し入れた。
名前の大好きなテッド・ベーカーのiPhoneケースがずしりとポケットに沈み込む。
ケースを彩る赤いリボンがひょこりとポケットから飛び出したのを見て、名前はあら?と首を傾げた。
「お前はすぐに迷子になるから。」
にやりと笑うと、図星といった具合に名前が頬を染める。
“何度も来ている所で迷子になんかなりません!“
チークを塗ったように頬に朱を差したまま、手洗いへ駆けていった名前に小さく手を振って、父はスーツの内ポケットから娘と同じ型番のiPhoneを取り出した。
「さてと、レイチェルにも名前にもプレゼントを買ってしまったし。あの子たちにだけ何もないと拗ねるだろうね......特にシエルは。」
適当に検索をかけて、サウスケンジントン付近のパティスリーを見繕う。
あの双子の好きなストロベリーのケーキとショコラのケーキでも買って帰ってやろうと、そういう至極父親らしい配慮である。
ヴィンセントは確かに名前を殊更に可愛がっており、同時に危険な─、倒錯した愛情を抱いてすらもいる。
しかし娘に関する破滅的な慈愛を余所に置けば、彼は妻を愛し二人の息子を愛する良い父親なのであった。
─最も、その“常識的父親“としての彼の顔は裏社会を取り締まる女王の番犬にとっては紛れもなく弱点であり、そして件の娘を巡る案件に関しても─、
彼が“父親“の顔を見せる時、必ずと言っていいほどその隙を突かれるのである。
あの狡猾で陰険な、“悪い男“に。
*
名前はコンコンっと学校指定のローファーでステップを踏んで、手洗いまでの道のりを進んだ。
胸ポケットに差したリップスティックが館内の照明に当てられて、スポットライトを浴びたように堂々と見える。
【Lady】と金のプレートで飾られた部屋へ入ると、彼女はトイレットに併設されたパウダールームで嬉々としてプレゼントされたばかりのルージュを唇に塗ってみた。
「わあ......さすがお父様です......」
しっとりとしたオイル配合のルージュは、するすると唇に馴染んだ。
見た目通りの色味は、頑張りすぎないヌーディピンク。
スティックの裏には、“Hepburn Honey“とカラー名が刻まれている。
まるで化粧をしていないようにも見えるが、しかし地の唇をより美しく見せるナチュラルなカラーである。
なるほど、父は“毎日つけられる色“と言っていたが、それはつまり“毎日学校につけていける色“という意味らしい。
きらびやかな鏡に映る自分は、確かにこのまま学校に行っても浮かない唇の色をしている。
けれど塗っていないよりは明らかにリップがぷるりと輝いて見えて、何度見ても“似合っている“と自負してしまう仕上がりとなっていた。
「嬉しい〜、明日から毎日塗っていきましょう!」
るん、るん、と見事な音符を頭上に飛ばして化粧室を出る。
カフェ側では、先程と曲目が変わり小気味の良いジャズが流れはじめていた。
静かに扉を閉めると、名前は早速ヴィンセントにリップを塗った唇を見てもらおうと鼻歌混じりに一歩を踏み出す。
死角に追いやられるように角になった化粧室には、【Lady】と【Gentleman】の二部屋のみ。
よもやこんなに人気のないこの場所で、男性用の方から誰かが出てくるなどとは考えもしなかった名前は、勢い良く開いた【Gentleman】プレートのかかった扉に激突し、“はうっ!!!“と大袈裟な悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
「おや、」
「!!!!!!!」
ぶつけた額が割れるように痛い。
骨にじんじんと響くような激痛が、ただでさえ涙腺の弱い彼女を涙目にさせる。
しかし、名前は男性用の扉から出てきた背の高い人物を涙にぼけた視界で見上げると、ぽかんと口を開いて激突の痛みをどこかへ飛ばしてしまった。
すらりとした手足、180pは優に越えているであろう長身、仕立ての良いスーツはいつも通り光沢のあるブラック。
細いフレームの洒落た眼鏡で縁取られた瞳は、涼やかなつり目であるものの火の灯りはじめた蝋燭のように明るいティーレッド。
紛れも無い、先日交際を始めたばかりの恋人の姿を目にし、名前はピジョンブラッドの瞳を大きく見開いた。
「セ、セバスチャンさん!!!!どうしてここに?」
「貴女こそ。何度も電話をして放課後のデートにお誘いしていたのですが......お気づきになりませんでしたか?」
「えっ!!」
セバスチャンに手を貸してもらって立ち上がると、名前はあわあわとポケットに入れていたiPhoneを取り出した。
通知を確認しようとホームボタンを押すが、液晶は変わらず闇に塗り潰されている。
“あら!?“と大慌てでホームボタンを長押しすると、突然にブルっと震えたiPhoneはゆっくりと彼女を嘲笑うように起動を始めた。
「電源を切っておられたのですか?」
「うーん、私は切った覚えがないのですけれど......」
ゆっくりと目を覚ますiPhoneの液晶をじっと見つめて悩ましげな声をあげる名前であるが、彼女に覚えがないのは当然のことであろう。
(着信に気がついた上で)電源を切ったのはヴィンセントなのであるから。
ところが、自身の物忘れの激しさを自覚している名前は“学校を出るときに切ったのかもしれません“と父を疑う素振りもなく都合よく自らの記憶を改竄し、セバスチャンにぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、私ったら気がつかなかったみたいです......」
「いいえ、結構ですよ。こうして会えましたし......お友達とご一緒ですか?私も仕事を片付けて退社してきたところですので、よろしければ一緒にお茶でもどうです?ご迷惑でなければお友達の分もお支払いしますし......」
セバスチャンはにこりと余裕のある大人然とした微笑みを口端に乗せて彼女に優しく語りかけた。
しかし、名前は途端に“あう......“と残念そうな呻きを漏らしたかと思うと、言い難そうにちらちらと視線を右へ左へとさまよわせ、最終的にはセバスチャンを上目遣いで見上げる。
決心したかのようにリップを胸ポケットにしまうと、彼女は遠くに流れるジャズの旋律をチラリと瞳で追って、ごにょごにょとセバスチャンの耳元に囁いた。
「ごめんなさい......今日はお父様と一緒で......」
「お父様......ああ、男女交際に関しては人一倍厳しいと噂の。」
「も、もうっ......!笑い事じゃないのです!今だってこうしてお話していることが見つかったらちょっとまずいことになるかもしれないのですよ......!」
「なるほどなるほど」
セバスチャンはなおもにやにやと愉快そうに口角を緩めて彼女の滑らかな頬をするりと撫でた。
上院議員、ヴィンセント・ファントムハイヴ伯爵。
彼女の実の父親。
この呑気な名前に“男女交際に厳しく、見つかれば私も貴方もタダでは済まない“とまで言わしめる男。
平素はとかく彼女を可愛がり愛しているらしいが、そのかわいい娘に男の影でもあろうものなら地獄の果てまで追い詰めるという狂気的なサイコパス(と、セバスチャンは理解している)。
きょろきょろと父の影に怯えている名前を抱き寄せる。
柔らかい腹の肉に腕を回すと、彼女はびくりと大袈裟に震えたが、構わず抱きすくめてやった。
“お父様にみつかったら......!“
五月蝿い唇をグローブ越しの手で塞ぐ。
セバスチャンは色っぽくウィンクを飛ばすと、その形のよい耳元に低く、囁いた。
「大丈夫......、こんな化粧室の近くには誰も来ません。」
「そんなこと......」
「あります。大丈夫......久しぶりに会えたのですから、お父様ばかりでなく私にも少しは構って。」
「んう......っ、せばす、ちゃ......ん、あ......」
スーツと揃いのブラックグローブを離して、唇に丁寧に口づける。
ところが、触れた感触がいつもよりべたついているのに気がつくと、セバスチャンは顔をしかめて名前から口を離した。
よくよく見てみれば、ルージュのようなものを塗っている。
それも、これまで見たことのない色を。
「珍しい。学校のある日にお化粧とは。」
「あっ、あの、これはさっきお父様にプレゼントしていただいたので......、試し塗りをしていて。」
名前はハアハアと肩を上下させてそう言った。
休日に会う彼女は少し背伸びをしているのかルージュを塗っている日もあるが、とはいえしっかりと“ルージュ“だと分かる色である。
人差し指の先で彼女の唇を拭うと、べとりと嫌らしい─、さも日常に隠れようとした計算高いピンクがこびりつく。
セバスチャンは掛けていた眼鏡を外してスーツの内側にしまうと、もう一度、ルージュを掬い取るように名前に口づけた。
「んっ、ん......、」
「甘いですね……」
「あっ、ふ……さっき、……パイを……っ、ん、食べた、から……」
「何のパイを?」
「バ……っ、ふ、」
「結構、当てて見せましょう」
「んんっ、っ、あ、」
漏れる少女の声音がエロチックである。
彼女の舌から、唇、歯列をじっくりと舌先でくすぐるように撫でて味わう。
クリームと、バナナ、狂おしいほど甘ったるいコンデンスミルク。
少女の唇を、貪るようにキスをする。
「……バノフィパイ、ですね?」
「せ、せいかい……です……んあっ、」
カフェの死角に隠れて、彼女の保護者の目と鼻の先でキスをしているという背徳が背筋をはい上がる。
じっくりと焦らすように舌で唇をなぞる─、上から下、下から上へと。
ちゅう、ちゅぱ、と二人の鼓膜にのみ響く水音が、密やかで余計にいやらしいのは何故だろう。
名前は砕けそうな腰元をしっかりとセバスチャンに支えられて、精一杯に彼の口づけに応えようと薄い唇を食んだ。
「は、う......っ、んっ」
「ちゅっ......、さて、この辺にしておきましょうか。」
最後にぽってりとした彼女の唇を強く吸い上げると、セバスチャンは背徳的なキスに自ら制止をかけた。
名前の方は名残惜しげにもじもじとしていたが、それを意地の悪い目で見下ろして、頭頂に軽いキスを落とす。
これで本当に終わり、という合図。
聞き分けのない子供に言い聞かせるような子供騙しのそれに名前は不服そうに頬を膨らませたが、セバスチャンはshh......と人差し指を口元で立てた。
「これ以上すると、このまま名前さんごと家に連れ去りたくなりますから」
「......はぁい......」
「貴女はお父様との午後を楽しんでらっしゃい。私とは、そうですね......、今週の週末にでも会っていただきましょうか。」
「......はいっ!!」
ぱああっと顔を明るく綻ばせた彼女に静かに微笑むと、セバスチャンは“さ、行ってらっしゃい“と彼女を死角から見送った。
名前は“ぽてぽてととろくさく歩き出したが、"たまたま“会えた恋人との別れを惜しむように軽く振り返ると、小さく手を振ってくる。
彼はやれやれと眼鏡をかけ直しながら、“たまたま“会えた年下の恋人にこっそりと微笑みを送ったのであった。
すっかりあの厭味なルージュの取れた恋人に。
*
「ああ、お帰り名前...........あれ、塗ってないの?ルージュ。」
とろとろとテラスへ戻ると、中途半端に三分の二ほど傾いた太陽が彼女と彼の逢瀬を咎めるように名前の瞳を灼きつける。
ルネサンス様式の博物館の赤煉瓦に照り付ける陽は、先程よりは紅の比率が高くなった気がしないでもない。
ぎゅ、と眩しさに眼をつむる。
お気に入りの時計の文字盤は、気がつけば17時と30分を指していた。
その隙に、父は目敏く彼女の唇に色が乗っていないことを見出だす。
名前は時計の文字盤から視線をあげると、わかりやすくあたふたと髪を揺らして俯きがちに視線をさ迷わせた。
「あ、えっと......、」
「随分遅かったようだけど......もしかして、誰かに会った?」
逆光に覆われた父の表情が、窺えない。
こういう時のヴィンセントは怖い。
ヘマをすれば、優しい、大好きなお父様から突然に恐ろしいお仕置きを施す相手にくるりと変わる。
紅茶にミルクを垂らすと途端に色味が変わるように、あの美しい瞳はくるりと一回転して冷たい輝きを湛えるのだ。
名前はおずおずと、なりふり構わずに予め考えていた言い訳を早口にまくし立てた。
「たまたまお友達に会ってしまって.......!ルージュも塗ってみようと思ったのですけれど、やっぱりお家に帰ってからお母様に塗っていただこうかと.......」
「ふうん.......」
「ほ、ほんとなのです!」
「おかしなことを言うね。俺は別に名前が嘘を言っているなんて思っていないよ」
雲間の切れ目に顔を出した陽が、ヴィンセントの背後をぼんやりと照らす。
彼は、本当に何でもないような顔で可笑しそうにくすくすと笑っていた。
向かいに座った名前の頬をゆるりと美しい指先で撫でる。
あくまでも優しく、父親としてあるべき手つきで。
彼の指に大人しく収まっている青い宝石の指輪が頬に触れて、刹那にひやりとした刺すような冷気が身体の左側にぞくりと伝う。
ヴィンセントは大きく反応した名前の唇に親指の先を這わせると、ゆっくりと耳元に唇を寄せた。
勿体をつけて開かれるそれは、幾度も残酷な言葉を紡ぎ出してきた。
彼女の可愛い鼓膜を内側から食い破るように、ぼそりと囁く。
「大丈夫.......俺は信じてるよ。お父様に嘘をつくような悪い子に育てた覚えはないから、ね.......。」
ブレザーのポケットの内側では、気がつけばブーッ、ブーッ、といやに大きな音を立ててバイブレーションが鳴っている。
名前はびくりと背を正してポケットに手を入れた。
身を離した父に促され、iPhoneを手に取る。
ロック画面にしている家族写真の上部、ちょうど父の頭だけをすっかり隠している一件の通知は残酷にも彼の名を示していた。
“{emj_ip_0834}Sebasutian Michaelis{emj_ip_0834}“
彼の番号を登録するにあたって、浮かれてハートマークなどをつけた自分が憎らしい。
─父に見られてはいないだろうか。
iPhoneの画面を隠すようにして膝の上に伏せ、恐る恐ると父へと視線を戻す。
「誰かな?」
問い掛けにへらりと引き攣った笑みを浮かべて“さっき会ったお友達です“と答えた名前を、意外にも彼は追及したりはしなかった。
ただ“そう“と一言漏らし、ティーカップの淵に唇を乗せる。
途端に身体中から力が抜けた名前は、ぐったりと表情筋を疲弊させた。
父に倣って、鼓動のうるさい心臓を落ち着かせるために紅茶に手を伸ばす。
「そうだ、帰りは駅前のパティスリーに寄ろうか。あの子達にお土産を買って帰ってやらないと、お母様と姉さんだけがプレゼントを貰ったのでは拗ねるだろう。」
「あっ、そ、そうですね.......!何かないと可哀相ですものね、」
ホッとしたように苦笑した名前の頬に、曖昧な夕陽が落ちる。
父よりもワントーン明るいブルーの髪の先に煌めくロンドンの落日。
噴水の裏側で遊んでいた少年たちは、気がつけば姿を消していた。
シャアシャアと吹き上げる噴水の音と、店先から聞こえるジャズと、人々の話し声に現実に戻された気になって、名前はiPhoneをポケットにしまい込んだ。
ロンドンの夏はゆっくりと、スロースピードで過ぎて行く。
カァ、と一声鳴いた鴉は、ロンドン塔から逃げ出してきたものであろうか。
一際大きく、立派な毛並みのそれに鋭い視線を投げ掛けて、ヴィンセントは嗤った。
東の方向へ逃げ去って行った鴉の羽が、はらりと中庭へ舞落ちる。
それは、ぽっと頬を染めて先程の恋人とのスリリングな逢瀬を思い返している愚かな少女の肩に落ちる前に─。
その父に、振り払われたのであった。
いとも簡単に、紅の薔薇の花を散らすように。
(The train ─I HEART LONDON─/Vincent,Sebasutian)