朝、目を覚ますのが億劫になった。
ぶるりと肌を刺す冷気と、脊髄を縮こまらせる朝の澄んだ空気。
暖かなシーツから身体を起こしたくないと毎朝のように考える。
「おはようございますだ、お嬢様。」
元気なメイリンの声が寝起きの彼女を現実に引っ張り上げるように高らかに響く。
トポトポ、とアーリーモーニングティーの注がれる温かな音が否応なしに彼女に“目を覚ませ“と囁きかけてくる。
さあ起きて!さあ起きて!さあ起きて!
空気に溶けるようにカップ上に浮かぶ熱い紅茶の湯気がふわりと頬を撫でれば、名前は嫌々ながらもシーツから顔を出さざるを得なかった。
ゆったりと流れ込んでくるこの豊かな香りは、彼女の大好きなマリアージュフレールのダージリン。
いや、それともマリアージュフレールよりももっと大好きなウィリアムソン・ティーのアールグレイか?
.......あら?わたし、マリアージュフレールが一番好きなんじゃなかったかしら?
..............うまく頭が回らない。
名前はぶる、と一つ震えると、低く唸って嫌がる身体を起こした。
ふと寝ぼけた頭でカレンダーを見遣ると暦は11月に移り変わっている。
いつのまに─、
ぽやぽやと開き切らない瞳を擦って紅茶を受けとると、名前はぶるりともう一度身体を粟立たせた。
もう11月だと知ってしまうと、余計に肌寒く感じる。
「お嬢様、今日は旦那様が久しぶりにお帰りになる日ですだよ」
にっこりと微笑むメイリンが、“よかったですだねえ“と牛乳瓶の底のように分厚いレンズ越しに瞳を細める。
彼女の口から出た“旦那様“の言葉に幾分の違和感を抱きつつ、名前は深紅のガウンを肩に掛けてくれるメイリンをちらりとだけ見て、紅茶を啜った。
マリアージュフレールのダージリン。
一番好きだったかどうかは、やっぱり思い出せない。
「美味しい.......」
けれど、自分の趣味嗜好がどうだったかなど、その日の朝の名前にとっては取るに足らない些末事なのであった。
とりあえず紅茶が暖かくて美味しい。それだけで十分である。
名前は目を覚ました瞬間から感じていた薄ら寒い違和感をすっぽりと紅茶と共に身体の底へ流して、カップをメイリンに手渡した。
ぴょこりとベッドから這い出し、着替えのためにベッドサイドに腰掛ける。
ふわりと足首をくすぐるネグリジェは、お気に入りのピンクとゴールドのストライプスカート。
たっぷりのフリルと首元を飾る深紅のリボンが愛らしい。
.......白いネグリジェがお気に入りだった気もしますけれど.......。
名前は自らの身体を包む夜着の色調にこてんと首を傾げたが、メイリンが着替えのためにスカートの裾に手を差し入れると、“まあ、いいか“とケロリと顔色を戻しておとなしく子供っぽいネグリジェを脱いだのであった。
「姉さん!おはようございます!」
「おはようございます.......けほっ、」
着替えを済ませてメイリンを伴ってダイニングへ下りてゆくと、可愛い弟達がとてとてと駆け寄ってきた。
朝から元気いっぱいの長男と、苦しそうに咳込みがちの次男。
腰の辺りにぎゅうっとしがみついてくる二人は、揃いのウェストン校の制服に身を包んでいる。
品のよいブラックのジャケットとスラックスに身を包んでいると、可愛らしさもさることながら二人とも随分と凛々しく見えた。
もう立派な紳士ですね。
可愛い弟の成長に頬を緩ませて、シエルの髪を軽く梳いてやる。
彼の胸には父と同じ青寮の寮花が自慢げに挿してあり、いくぶん本人の顔つきも堂々としている気がしないでもない。
少し前までは弟と一緒に悪戯ばかりしていた彼が.......、
そこまで考えて、はたと弟を愛でる手を止める。
少し前まで?いつの話でしょう?
「.......、」
まあ、いいか。
起きがけと同じく、深くは考えずにこの収まらないパズルピースのような違和感を飲み込む。
名前は長男の胸に挿さる花を潰さないようにそうっと二人を抱きしめると、へらりと朝の挨拶を返した。
「おはようございます、二人とも。.......あら?学校はどうしたのです?まだ学期中でしょう?」
「やだなあ、姉さん。僕たちが屋敷にいるのは不満ですか?」
「いいえ、とっても嬉しいのですけど.......あら、そういえばシエルはどこの寮だったかしら.......ブルーハウスではなかったような.......あら.......?」
「まあまあ、姉さん。深いことは気にしなくていいじゃないか。お前もそう思うだろう?」
「そうですよ。今日は何も考えなくていいんです。」
やはりどうにもおかしなことを言う双子に再び首を傾げたが、名前は素直に“何も考えなくていい“という弟の言葉を受けとった。
“それもそうですね“
胸に染みる違和感をよそに置いて、弟達に手を引かれるがままに彼女はダイニングへ向かった。
後ろから背を押してくるメイリンも、彼女の耳元で囁きかけてくる─、
“何も考えなくていい“
奇妙に心地のよいその響きに身を任せると頭の中に靄がかかるように思考回路が鈍く錆び付いてゆく気がする。
しかし、名前は腐食してゆくそれに気がつかないフリをして、弟達の会話に耳を傾けたのであった。
“はやく、お父様が待ってますよ姉さん“
“そうですよ、お父様をお待たせしています“
“お嬢様、旦那様がお待ちかねですだ“
お父様─、
一歩、踏み出す脚を止めて立ち止まる。
お父様?なぜ?
“何故“という疑問を抱いた彼女は、おろおろと辺りを見渡した。
なぜって?なぜ?
お父様?シエル?どうしてここに“いる“の?
ここにいる方が普通です………いない方がおかしいのに、あれ……?
二人は─、
二人はあの日に─
あの日って、いつ?
「名前。」
「お母様.......、」
優しい旋律に自然と振り返ると、いつの間にやら現れた母が彼女の肩を抱いていた。
滑らかな白い手がやんわりと力を込めて、彼女を一歩先へと─ダイニングの扉へと押し進める。
不安げに母を見つめるも、彼女は温和に微笑んでまた同じことを耳元で囁くのだ。
“何も考えなくていいわ“
“扉の先でお父様がお待ちよ“
シックなブラウンのスカートが、“早く早く“と名前を追い立てるように揺れる。
おろおろと優しい母の顔を見上げると、レイチェルは恐ろしいほどに美しい微笑を口の端に載せて、“ご覧なさい“と名前の視線を背後へと導いた。
「お嬢様」
「タナカ.......」
「お嬢様」
「バルド.......」
「お嬢様」
「フィニ.......」
“さあ、旦那様がお待ちですよ“
弦の狂った楽器を一斉に慣らしたように、皆の口が不気味なほど正確に動く。
物言わぬ扉の先はただただしぃん.......、と落ち着かない静寂で満たされていた。
この先に、温かい朝食や家族の団欒や正しい日常の形があるとは思えない。
歪んだ額縁にぐにゃりと嵌め込まれてしまったような、奇妙な窮屈さ。
名前はぎゅうっとドレスの胸元を握り締めた。
ロイヤルブルーのフリルが胸を締め上げる。
まるで、“はやく先に進め“とばかりに─、
「何を躊躇っているの?久しぶりにお父様に会えるのよ?」
「姉さん、ほら」
「怖くないから」
さあさあ、と母に扉の前まで押し出される。
つんのめるように靴の先が大理石の床を滑ると、タナカは恭しく礼をして扉の取っ手に手を掛けた。
彼の白い手袋が、冷たい金のドアノブを握る。
“心の準備はよろしいですかな?“
タナカの問い掛けと同時に、名前の肩をそうっと母親が握る。
“いいに決まってるわ“
“早く会わせてあげてちょうだい“
オペラでも謡うように大仰な身振りで言う母の吐息が首筋を滑る。
─冷たい。
まるで、早朝に植物の葉を覆う霜のように.......
「御意。」
不思議としわがれていない、その声が合図であった。
機械のように正確に微笑んだタナカが、蓄えた口髭を揺らして扉を開ける。
ギイイ、、ギイイ、
不協和音の如く鳴り響いた音の隣、タナカの胸できらりと何かが輝く。
─あ........、
シャンデリアの不規則な輝きに照らされたそれは、シルバーのバッジ─、
「─、.......?」
開いた扉の先は、ダイニングではなかった。
先ほどまでは確かにダイニング扉の前にいたというのに、タナカの手で開かれた扉の先は暗い暗い父の書斎。
どすん!と不特定多数の手により押し込まれた名前は、恐る恐ると背後を振り返った。
─ガチャン。
冷たい錠が外から下ろされる、その音。
無慈悲にも外側から書斎に捕われてしまった名前は、おろおろと左右を見渡した。
─確かに、間違いなく父の書斎である。
部屋の両側にびっしりとたてつけられた本棚には父のお気に入りの本だけがピックアップされて所狭しと並べられていた。
几帳面に作者名でアルファベット順に並べられている本の数々は、どれも幼い頃に父親から借りて読んだことがあるものばかり。
ふわふわの上等な椅子とデスクは、時に父が執務をサボって昼寝をしていたものと同じだ。
この上品なグリーンのシートにはよくよく見覚えがある。
「........」
ふと広いデスク上に視線を向けると、いつのことであったか父とフランス語の練習に使っていたボードレールの『悪の華』がデスクの上に置いてあるのに気がつき、彼女は居心地の悪さにむずむずと膝をすり合わせた。
不気味とも耽美とも言える毒々しい花の装丁、骨格が奇妙にネジ曲がった表紙絵の骸骨と目が合う。
ふいっと『悪の華』から目を離して俯く。
すると、突然にぞっと背筋をはい上がる悪寒のようなものに首筋を包まれ、名前は身体を凍りつかせた。
「.......、や、なんですか.......!?」
指先一本すら動かせぬ悪寒。
爪先からじわじわと浸みてゆく冷気は、今朝目を覚ました時から胸に染みついていた違和感と混ざり合って名前の胸を押し潰す。
ロイヤルブルーのドレスが窮屈に彼女の手足を縛り付けるように小さくなった気がして、名前は息苦しさに浅い呼気を吐き出した。
きつく感じる胸元を握ると、先ほどまでは確かに鮮やかなブルーに染められていたドレスが、所々に黒々と.......、インクが浸みるように深い闇のようなブラックに染め変えられている。
驚きによろめくと、ウェストと胸はどんどんと縮んで彼女の豊満な身体を締め付ける。
苦しげにしゃがみ込むと、名前は麻縄で首を絞められてでもいるように狭い気道を震える手で包んだ。
「っ.......、は、っう、」
「名前.......、」
「っ、お、と.......さま.......、?」
「名前、ゆっくり息をしてごらん。」
「っ.....い、き.......、」
「........ああ、邪魔な男だな。おとなしく引っ込んでいればいいものを」
不機嫌に舌打ちをした父の声が耳穴に注ぎ込まれたと思うと、その刹那。
「名前。」
「.......、おとう.......さま.......、」
首筋を柔らかく流れる髪の感触。
ブラックの手袋に覆われた大きな手。
手袋の上から嵌められた指輪は二つ─、ファントムハイヴ家のシールリングと、星のきらめきを閉じ込めたような、青い宝石のもの。
つうー、と手袋越しの両の手が首元から頬へ、這い上がって来る。
背後から頬を包まれたと思うと、ゆっくりと彼女に体重を掛けた父はもう一度“名前“と娘の名を呼んだ。
「お父様.......、お父様.......?どうして.......、お父様は.......、いいえ、シエルもお母様も.......、」
「何も考えなくていい、と言われなかった?」
優しい父は、気がつけば彼女の目の前にしゃがんでいた。
急いで背後を振り返る。
しかし、確かに先程まで背中に感じていた重みは、跡形もなく消え去っている。
名前はぽかん、と口を開けると、目前でにっこりと微笑み続けているヴィンセントの胸にそうっと掌を這わせた。
─冷たい。
まるで氷の彫像ではないかと思わせるほどに冷たく、掌に突き刺さるような冷気がスーツの下から染み出している。
びくりと手を引っ込めると、彼は困ったように笑って名前の身体を引き寄せた。
「おっ、おとう.......さま.......つめたい.......です.......、」
「ああ.......、お前は暖かいね。」
力強く抱きしめられて、ドレスが邪魔で身動きが取れない。
そのまま彼女を抱き上げて立ち上がったヴィンセントは、ゆっくりと応接用のソファーに腰を下ろした。
ぼふん─、と沈み込むことなく、空気のように軽く腰を落ち着けた父は、無遠慮に娘の唇をなぞって再び首筋を執拗に撫でる。
ぞわりと鳥肌を立たせる娘のその様子すら愉快だと、頸動脈のあたりをじっとりと、冷たい刃物ののような指先で辿っている。
そのままぴしりと固まっていると、氷のような冷たい彼の手は名前の胸を掻き分けてぴったりと心臓の位置で停止した。
「お父様.......、あの、その、」
「お前はそこでじっとしていればいいんだよ。みんなにも言われただろう?」
“何も考えなくていい“
父の口から滑り出したその言葉が、脳内で皆の声と重なって反響する。
フラット一つ分音程のずれたその音は、不安を掻き立てる不協和音となって名前の心臓をぐるぐるに締め付けた。
ぱちぱちと暖炉では火が燃えているのに、一向に暖まる様子のない室内。
彼女の嫌う冬の朝のように底冷えのするフローリングには、うっすらと自分と美しい父の顔が映り込んでいる。
彼の手に握られているのは─、黒い.......、小型の.......、
カチリ、とこめかみに“何“かが押し当てられる。
ピカピカに磨き上げられた床板に映る父は、喜びを隠しきれないというように口を開いた。
「.......いいよね?」
何のことですか?とは、聞けなかった。
突然に鳴り響いた銃声と同時に、再びドレスが胸元を締め付けて、押し潰されて─、
それで。
「っ、!!」
「おはようございます、お嬢様。」
呼吸が止まっていたのかとでもいうように、彼女は勢いよく飛び起きた。
跳ねるようにシーツを押し返して身を起こすと、じっとりと額に汗が滲んでいる。
身体中がやたらとべたつくかと思えば背筋の方にもつうっと汗が伝っていったのを感じて、名前はぞっと悪寒に心臓を縮こまらせた。
きゅうっと縮んだ心臓はばくばくと不規則に脈動を続けている。
血の気の引く冷たい痺れが身体中を巡って、彼女はぱたりともう一度枕に頭を横たえた。
─痛い。こめかみを撃ち抜かれたように鈍い痛みが頭をえぐっている。
ぐったりと目だけを動かしてカレンダーに視線を向けると、今朝は10月31日。
ハロウィーンですね─
ぼんやりと頭の片隅で日付を確認し、名前は一際大きく痛んだ頭に“ぐっ、“と堪え切れぬ吐息を漏らした。
「痛みますか?」
いつも通り貼付けたような笑顔のセバスチャンが氷枕を当ててくれる。
名前は掠れる声で礼を言うと、どんよりと曇りがちなロンドンの空のようにはっきりしない意識でセバスチャンの血溜まりの瞳を見上げた。
「.......っ、昨日は、久しぶりに眠れたと思ったら.......、」
「危険な夢をご覧になったようですね。」
「ううん.......夢......、ええ、何かぞっとするような夢を見ていたと思うのですけれど.......何の夢だったか.......」
「ああ、思い出されない方がよろしいでしょう。思い出したところで良いことがあるわけでもないでしょうし。」
「はい.......、ううん、ほんとう、に.......、頭が痛い.......、」
ぐるぐると巡る鈍痛は、シネマティックレコードをぐちゃぐちゃに掻き回されているように名前の意識の邪魔をする。
彼女は参ってしまったというように弱々しくセバスチャンを見上げて、モーニングティーを受けとった。
「今朝はお嬢様のお好きなマリアージュフレールのものを。」
「わあ、嬉しいです!フランスのブランドのお茶がお屋敷にあるなんて、久しぶり。」
「ええ、意識をしっかり保っていただかなくてはいけませんから。」
「?」
ゆっくりと痛む頭を庇うようにして身を起こす。
カップに口をつけると、大好きなフレーバーが名前の唇をふわりと包んだ。
間違いなく、彼女が最も好んでいるフランスの茶葉、ブレンド。
この華やかなパリを思わせる香りがたまらない。
大きく胸元の開いた白いレースのネグリジェも、今朝は間違いなく大のお気に入りであると言える。
ナイトキャップ代わりにしている白いヴェールをくるりと後ろへ追いやって、彼女はほっこりと頬を緩ませた。
「お気に召していただけましたか?」
「はい!美味しいです!今朝はシエルも同じフレーバーを?」
「いえ、お嬢様の紅茶をご用意した後にすぐメイリンがポットを割ってしまいましたので、坊ちゃんのお茶は別の銘柄で淹れ直してお出し致しました。」
「まあ、メイリンったら。」
くすくすと笑って満足そうに紅茶を飲み干す彼女を見つめて、セバスチャンは意味ありげに微笑んだ。
茶器を仕舞う傍らに名前の衣服の準備をして、ふと彼女の首筋をじっと見つめる。
「.......本当に、間に合ってよかった。」
「え?」
「いえ、独り言です。失礼致しました。」
彼女の首筋を覆う赤々とした手形は、くっきりと二つ。
成人男性ほどの大きさのそれに気がついていないらしい彼女は、痛々しい手形を白い肌に刻んだまま嬉しそうにセバスチャンに微笑みかけたのであった。
(Let's meet up again next year.......)
(HAPPY HALLOWEEN !)
「あーあ、もうちょっとだったのにね。」
(Watch Out /sebasutian , vincent)