11月5日の午後。
秋晴れの名に相応しくからりと乾燥した冷たい空の下では、忙しく祭りの準備に駆け回る人々の楽しげな鼓動が打って響く。
“今日は領主様が婚約者と来られるらしい“
“ファントムハイヴ伯爵が!?“
“はやく!薪の準備をしないと!“
“子供たち!人形を持ってきてちょうだい!“
遠くに見える教会では、今年のガイ人形を早速と吊るし始めたようだ。
十字架を模した大きな板切れのようなものに、昼間にストリートを引きずり回されてぼろぼろになった人形がはりつけられているのがぼんやりと確認できる。
先日、彼女からささやかな出資を受けとった子供達は上手く人形を作ることができたろうか。
─あの子たちは私から受けとった1ペニーでどんな材料を買って、どんなお人形に仕上げたのでしょう。
名前は楽しみで仕方ないといった風に窓枠に頬杖をついて、森を越えて遠くに見える領内をにこにこと見渡した。
「名前お義姉様!」
ガチャン!
元気いっぱいに開け放たれた扉から、天使の如く愛らしい少女のさえずりが彼女の名を呼んでやって来る。
どん!と背にぶつかるように飛びついてきた義妹の巻き毛が頬を掠めると、名前は“あらあら“とのんびり呟いて彼女の方へ向き直った。
窓外から視線を移し替えてエリザベスの紅潮した頬を視界に入れる。
ほんのりと薔薇の花を散らしたように色づくその頬は、暮れに行われる篝火が待ちきれないとでも言うように緩められていた。
“まあ、こんなに頬を赤くして……“
へらりと微笑んでそう言った彼女の頬も、エリザベスと同じ高揚の色で染まっている。
二人はどちらからともなく手を取ると、窓外の教会を見渡しきゃっきゃとはしゃいで幻想的な夜の炎へと思いを馳せた。
二人は並んで窓枠に頬杖をついて、パレードの気配を乗せて吹き渡る冬風に髪を遊ばせていた。
メイリンが持ってきてくれた紅茶を片手に、着々と進んでいるらしい篝火の会場を探したり、サム老人の牧場地をあれかこれかと探してみたりなどして待ちきれない気持ちを胸で膨らませてゆく。
花火を打ち上げる牧場はあそこではないか、いや、あっちかもしれない、と遠く森の向こうに見える若草色の牧草地をいくつか指差した後、エリザベスは“そういえば“と前置きをして名前の腕にぎゅうっと身を寄せてきた。
「お義姉様、縫い上がったドレスをご覧になった?」
縫い上がったドレス─、先日の採寸からわずか数日でニナが恐るべき早さで仕上げたガイ・フォークス・ナイトに出席するためのドレスである。
名前はファントムハイヴ家の令嬢として、エリザベスはファントムハイヴ伯爵の婚約者として、互いに家名を背負って出席する運びとなった以上、今宵身に纏うドレスはそれなりに洒落ていて、それなりに格のあるものでなくてはならない。
ニナはデザイン画の時点から“もっと格式と伝統を感じられるデザインに“と口を挟んでくるセバスチャンと激しく衝突したようだが、どうにかドレス自体は昨日の昼には縫い上がったらしい。
昨日は何かと出席すべき茶会やレッスンがあり忙しかったので名前は未だ完成したドレスを見ていないが、すでに納品されたドレスを見たメイリンから“とっても綺麗なドレスですだよ“と聞いている。
内心では、彼女も昨日から早く出来上がったものを確認したいとそわそわしていたのだった。
「いいえ、まだ見ていません。」
「じゃあ、一緒に見に行きましょ!確かセバスチャンがトワレットのお部屋にドレスを運んでいたはずよ!」
そうと決まればすぐさま行動に移そうと、行動的なエリザベスはティーカップを窓枠にそっと置くと凄まじい力で名前の手を取った。
名前も慌ててエリザベスのカップの隣に自分のカップを置き、立ち上がる(もとい、立ち上がらされる)。
ふわりと窓から飛び込んできた午後の風は、くすんだ冬の匂いが混じり始めている。
名前はおろおろと窓外の景色と満面の笑みをうかべるエリザベスを交互に見たが、“はやくドレスを見てお化粧とアクセサリーの組み合わせを考えた方がいいわ!“と高らかに宣言した彼女の言を最もだと考えたらしい。
ぐいぐいと手首を引っ張って駆け出す年下の従姉妹に引きずられるように部屋を後にすると、名前はとろくさい脚を忙しく動かしてエリザベスの巻き毛の揺れる先を追った。
「そういえば、貴方はもう出来上がったドレスをご覧になったのですか?」
屋敷の廊下を二人でてくてくと歩く道すがら、名前が問い掛けるとエリザベスはにっこりと微笑みその場でくるりと一回転した。
“もちろん!“
元気よく返答を上げると、廊下のあちこちに飾られている絵画ににっこりと微笑みかけてうっとりと夢見るように両手を握る。
少女らしく自然な発色の唇が小さく開かれたかと思えば、エリザベスはぶんぶんと名前の手を振り回して新しいドレスがどれほどオシャレで可愛いかということを語り出した。
「とーっても可愛いの!晴れた日の夜空みたいに綺麗なロイヤルブルーの生地でね、金のボタンが胸元と袖についていて.......、そう、なんだか衛兵さんみたいでかっこいいドレス!シエルのスーツも私とお揃いでちょっと軍服っぽいのよ。そうね.......衛兵さんというよりはフランスの軍人さんが着ているみたいな........、それでね、ヘッドドレスもおなじブルーのものを用意したの!帽子の縁にお父様が作ってくださったブローチを添えるのよ。アンティークレースと青薔薇の、キレイなブローチなの!レースはお母様が着たウェディングドレスに使ったものなのよ。」
「あらあら、素敵ですねえ」
ほわほわとエリザベスに相槌を打ちつつ、名前は“フランスの軍人さんが着ているみたいな“という言葉からイメージを膨らませた。
ロイヤルブルーに金ボタン。ナポレオンジャケットのようなデザインなのだろうか。
シエルはスーツだというから、フロックコートでも羽織るのだろう。
それに加えてミッドフォード侯爵手作りのブローチとは、いかにも仲の良いミッドフォード家らしくほほえましい。
母のウェディングドレスから切り取ったアンティークレースとは、ブローチは彼女の宝物となったことであろう。
エリザベスと同じくうっとりと両手を胸の前で握り合わせて“素敵ですねえ“ともう一度呟くと、名前は嬉々として“かっこいいドレスも新鮮ですね“とエリザベスに微笑みかけた。
「ええ、そうなの。かっこいいのはすごくすごく素敵なんだけど、やっぱり私かわいいのもほしくて.......」
照れるように頬をぽりぽりと掻いてエリザベスが言う。
はて?と名前が首を傾げると、エリザベスは躊躇うように視線を左右に迷わせたが、そっと義姉の耳に唇を寄せて“ニナにはナイショにしてね“と前置きをした上でこしょこしょと耳元で囁きはじめた。
「やっぱり可愛さもほしくて、セバスチャンに頼んでブルーのフリルを付けてもらってるの。スカートの裾のところに。」
“出来上がったドレスに手を加えるなんて、ニナに悪い気がして“
困ったように眉を下げた彼女であるが、名前はとんでもない、と両手を振ってエリザベスの肩を優しく持った。
彼女のペリドットの瞳を穏やかな眼差しで見つめ、おっとりと唇を開く。
「そんなことはありませんよ。ニナだってきっと貴女がデザインに加えたフリルを見たら“素敵“だと言うはずです。リジーはセンスがいいですから。」
突然の賛辞にぽっと頬を染める。
エリザベスは気が楽になったという風にえへへと唇を綻ばせると、優しい義姉の胸にむぎゅうっと抱き着いた。
「ありがとう、お義姉様」
ぼすんとその豊満に膨らんだ胸に顔を埋める形で抱き着いたエリザベスは、クッション性の高い名前の胸にぐりぐりと鼻先をこすりつけた。
柔らかい彼女の胸部は、母親の腕の中とは違った意味で落ち着きと安心を得られる場所である。
いつまでも抱き着いていたい優しい義姉様の胸。
エリザベスはぎゅーっと名前の背に華奢な腕を回し、力いっぱいに柔らかいその身体を抱きしめた。
“あらあら、“
彼女を抱き留めた名前の髪がゆらりと衝動に揺れる。
横髪を軽く耳に掛けて義妹を抱き留めた名前は、穏やかに母親染みた微笑を唇の端に乗せてその金のツーテールをそっと撫でた。
時刻は午後一時。
広く取られた廊下の窓からは明るい午後の日が蜂蜜のように垂れ落ちてくる。
官能的に愛らしい少女たちを照らす陽光にそっと瞳を閉ざすと、聞こえる二人の淡い囁き。
互いに恋焦がれる相手のいる少女達の抱擁は砂糖菓子の固まりのように甘く、くどい匂いに満たされている。
ともすれば破滅的に甘い二人の恋心は、今宵の篝火で何か進展を得られるやもしれないのだ。
“フリル一つの追加は、乙女心の顕れです“
心の内側でどろりととろかしたエリザベスと弟の恋路の行方に十字を切って、名前はやんわりとエリザベスを抱き返した。
ドカーン!グシャッ、ブオオオオオオオオン!!!!!
「「!?」」
“うわっ、やべえうわあああああ!!!!!“
シュアアアアアアアアアアッ!!!!!!
「な、なに!?何の音.......!?」
突然に階下から響いた爆発音にびくりと肩を震わせたかと思えば、激しく燃え広がる炎のような不穏な響きが二人の少女の鼓膜を襲った。
怯えを顔に滲ませてぎゅうっと名前に抱き着いてきたエリザベスを庇うように抱き留め、落ち着かせるようにその背中を摩る。
屋敷の壁にヒビを入れるような、乱暴な火薬の暴発。
エリザベスが怯えるのも無理はない。
名前はこっそりと呆れてため息をつくと、エリザベスの肩を抱いてそろそろと自室へと歩み出した。
あれは、また厨房かどこかでバルドが火炎放射器を逆噴射させた音だ。
ファントムハイヴ邸に住む名前にとっては耳慣れた爆発音であるが、エリザベスにこの騒動は耐え難かろう。(あの厳しい叔母の家でこんな非日常的な爆破音が鳴るとは思えない)
名前は怯えるエリザベスをあやしつつ、精一杯にバルドの不手際であるということが悟られぬよう(自邸へ帰って叔母に“バルドが屋敷で火炎放射器を噴射させていたわ“などと話されてはまずいことになる)、へにゃりと曖昧な笑みを浮かべた。
不安げな表情で自分を見上げる彼女の小さな手をぎゅうっと握り、すたこらと自室へと小走りに駆け抜ける。
精一杯にそれらしく聞こえるよう、名前は“きっとオーブンの火力調整がうまくいかなかったのですよ“と苦しい言い訳をぺらぺらと彼女に聞かせた。
「お義姉様.......、ほんとにオーブンの火力を間違えただけ.......?」
「え、ええ、きっとそうです.......あ!タナカ!いいところに!」
“ほっほっほっ“
いつも通り二頭身ほどの背丈の家令の姿が廊下の奥からぽてぽてとその姿を覗かせると、名前はわざとらしく大きく手を振り、彼を呼び寄せた。
不安げに廊下の窓から階下を覗き見ようとしているエリザベスの視線を大仰な身振りで遮る。
ぽてぽて、と小さな脚を精一杯に動かして湯のみから茶がこぼれぬよう歩んで来るタナカの腕を取り、エリザベスの隣に立たせると、名前はやってきた彼に“リジーをどこか落ち着けるところへご案内してくださいな“と言い付け、自らはくるりと踵を返して階下へ繋がる階段へとその赤いハイヒールの先を向けた。
「お義姉様!どこへ行くの!?」
「心配しないでくださいな。私はちょっと.......、厨房の方を見てきますね。ええ、確かうちにあるオーブンは古いものですから、小火でも起こしていたら大変ですし。ねえ?タナカ」
「ほっほっ」
「貴方は心配しないで、タナカとお茶でも飲んで待っていなさい。私もさっきの爆発音の出所を確かめたらすぐ戻りますから」
“頼みましたよタナカ!“
早口に言い切ると、名前はそう速くない脚を精一杯に動かして廊下の突き当たりの階段をタンタンっと下って行った。
急ぐあまり二段飛ばしに階段を下りたばかりに何度か階段を踏み外して脚を捻りかけたが、なんとか持ち直し一階の玄関ホールを急いで駆け抜ける。
せっかくのガイ・フォークス・デーにまた屋敷が全焼するなどという事態は絶対に避けたいのだ。
バルドのことであるから、誰かが止めなければ何度か火炎放射器に火を噴かせるに違いない。
名前は額にうっすらと汗を滲ませて玄関ホール裏のダウンステアーズへ続く簡素な階段を下ろうとぐるりと角を曲がったが、その先に見知った華奢な背中が自分と同じく階下へと駆けているのを視界に入れ、ぱっと瞳を見開いた。
「シエル!!」
「、姉さん!」
数歩先を行っていた弟は、階段の中ほどで立ち止まると追いかけてきた姉を見上げて立ち止まった。
薄暗がりへ続く地下階段は、質素な剥き出しの石階段である。
自分はともかく、女性には足場が悪い。
彼は高いヒールで駆け寄って来る姉に手を差し伸べると、ぎゅうっと彼女の手を握ってエスコートするように一段一段とぐらつく階段を下りはじめた。
姉はその一歩後ろで、長いスカートを踏まないように慎重にシエルの導きに従って白石の階段を下っている。
彼は美しいブルーの瞳で名前を照らすと、溜め息を混ぜ込んだように複雑な声音で姉に問い掛けた。
「さっきの爆発音、お聞きになりましたか」
「ええ、ちょうどリジーと一緒にいたのですけれど、あの子が不安な顔をするものですから困ってしまいました.......さすがにバルドの火炎放射器が暴発した音だなんて言えませんし.......」
「全くだ、あいつの爆破癖もなんとかならないものか.......」
「貴方も様子を見に来たのですか?」
「ええ、夜にガイ・フォークス・ナイトが控えている以上、屋敷が全焼する事態は避けたいので。」
「同感ですね」
階上に比べればほの暗いダウンステアーズは、平素ならば使用人たちの居住スペースであるので貴族の二人が脚を踏み入れる場ではない。
しかし状況が状況なだけに、二人はどこか煤っぽい地下の廊下を着々と進んで行ったのであった。
厨房に近づくにつれて、もくもくとした黒煙と煤の匂いが濃くきつくなってゆく。
シエルはショート丈のズボンのポケットからハンカチを取り出すと、それで口と鼻を覆うように姉に手渡して自らは掌で呼吸器を覆った。
事件現場と思しき厨房はすっかりその木扉が焦げ付いており、あろうことか爆風は隣の使用人達の休憩室にまで及んだようである。
シエルと名前はハイヒールとショートブーツの踵をコツンコツンと床石に打ち付けて、慎重に焦げ臭い厨房の扉の先を覗いた。
「おい、無事か?」
「バルド?大丈夫ですか?」
ひょこりと姉弟が顔を覗かせた先では、やはり厨房が厨房とは思えぬ有様で爆心地のごとく更地と化していた。
オーブンはおろか、食器類や調理用具まで全て灰か煤へと姿を変えている。
天井を見上げれば、いくつか焦げ跡らしきものが焼き付いているがそれ以外に部屋の枠組みにダメージはなさそうである。
シエルは“よく天井が無事だったな“と呆れ半分に呟くと、ガラクタの山をブーツの先で崩して厨房の中心で焦げているバルド(と思われる灰)の側にしゃがみ込んだ。
「坊ちゃん.......お嬢さん.......」
「意識はあるな」
「あらまあ.......、可哀相に黒焦げになってしまって.......」
「可哀相とは、彼には勿体ないお言葉でございますよ。お嬢様。」
「!」
背後から深い深い溜め息が響いたかと思うと、漆黒の燕尾服に身を包んだ長身の執事がガラクタの山を踏み付けて厨房へと立ち入ってきた。
手には塵取りと箒を抱え、紅茶色の瞳には海溝のように深い呆れの色を滲ませている。
セバスチャンはガシャンと皿の残骸のようなものを革靴の底で踏んで彼らの隣へとやって来ると、灰と化したバルドにガミガミといくつか小言を言って塵取りと箒を彼の隣に置き、長い脚を窮屈そうに折り曲げてしゃがみ込んだ。
名前やシエルよりも頭いくつ分も高かった彼が、しゃがむと二人の腰よりも低い位置に見えるのがどこか面白い。
しかし、状況的にはそれを面白がっている状態ではないようであった。
はっと口元をハンカチで覆ったまま、セバスチャンに叱られているバルドを気の毒げに見つめる。
「全く、いつも言っているでしょう。肉を焼くのに火炎放射器の火力は必要がないと。本日はエリザベス様もおいでですし、今晩はガイ・フォークス・ナイトが控えているのですからくれぐれも大人しく、大人しくしているようにと申し上げたはずですが?」
「すまん.......火炎放射器の整備をしてたらつい.......調整の具合を試したくなってな.......ほら、料理ってのは芸術だ、芸術ってのは火力だからな!」
「.......」
セバスチャンは恐ろしく整った笑顔でバルドを黙らせると、すっくと立ちあがって二人を振り返った。
「お二人とも、どうか階上へ。これ以上このような空気の悪い場所においでになっては具合を悪くされます。」
「ええ……、そうですね、特にシエルはまたお咳が出てはいけませんし……。」
「夜までにここを片付けておけ。僕は執務に戻る。」
「御意。」
セバスチャンがそうして、きびきびと頭を下げたその時であった。
「セ、セセセ、セバスチャンさ〜ん!!!!!!!!」
転がり込むように厨房へ駆けてきたメイリンは、文字通り吹き飛んだ扉の前でガラクタと化した食器類に躓いて室内へ転がり込んだ。
ズシャ、ベシャッ!!!!
危うく彼女が顔から床へ飛び込む前にセバスチャンがメイリンの腰を引き寄せて救出したお陰で彼女にケガはなかったが、メイリンは分かりやすく頬を灼熱に染めて執事から離れた。
”あああああ、あ、ありがとうございますだだだ、!!!”
正常な思考力と共に気を失いかけているのか、ともすればバタン!といつも通り倒れ込んでゆきそうに身体の軸がふらふらとしている。
「おっと、倒れられるわけにはいきませんよメイリン。何があったのです?」
「あ、そ、そうだったですだ!!!!大変で……!!隣のブレイクルームが!!!」
はっと正気を取り戻したメイリンは、おろおろとブリムごと頭を抱えると、”とにかく見てくださいですだ!!”と慌てて彼ら三人を向かいの休憩室へ連れ出した。
大きく慌てるメイリンについて狭い廊下を挟んで向かいの使用人たちのブレイクルームをひょいっと覗き込むと、やはりこちらも想像通りに爆風にやられて大半の家具が吹き飛んでいる。
普段であれば部屋の真ん中に簡素な丸テーブルと四角い椅子があり、そこに使用人達は腰かけて休息をとっていたはずであるが、文字通りそれらは木くずと化して部屋のあちこちに散乱していた。
しかしメイリンが震える指先で示したのは荒れ果てた部屋の惨状ではなく、ちらほらと散乱したロイヤルブルーの布切れと転がる金のボタンであった。
「こ、ここに、移動させておいたんですだが……!!!!」
「……メイリン、まさかとは思いますが……」
「エ、エリザベス様のドレスに……フリルを付けるって聞いて……」
「……」
「……きゅ、休憩の時にでもワタシがやっておいたら……セバスチャンさんが助かるかと思って……、ここに、……」
「ドレスを移動させておいたらこうなった、と。」
「すっ、すすすすみませんですだ!!!!!!!!!」
予想だにしなかった最悪のシナリオは、セバスチャンに疲弊の色を見せるに十分な働きをした。
ぺこぺこと首振りの人形の如く頭を下げるメイリンを、バルドを黙らせた時と同じ笑顔で見下げるセバスチャンの恐ろしいこと!
#クロエ#は思わずぶるりと震えて弟の背に隠れたが、セバスチャンは何とかして怒りの鉾を収めると笑顔から一転、呆れの手本のようなため息をついてメイリンに部屋の掃除を命じた。
「セバスチャンさん……、エ、エリザベス様のドレスは……、」
「貴女はここの掃除に専念なさい。ドレスは私が何とかします。」
「はっ、はい……、」
セバスチャンはくるりと踵を返すと、やはり多少の疲れの見える笑顔でシエルと#クロエ#に向き直り、二人を階上へと連れ出した。
煤けた廊下の中で空中に舞う灰を掃うごとに、清潔に洗濯のされた彼の手袋が黒ずんで汚れていく。
廊下を抜けて、白石がむき出しの階段を上がると、そこは玄関ホールである。
ひとまず階上に出て綺麗な空気を吸うと、セバスチャンはすぐさま膝をついてシエルに頭を下げた。
「申し訳ございません。エリザベス様のドレスは、必ず夕時までになんとかいたします。」
「リジ−は一度完成品を見ている。寸分違わず同じものを作るしかない。」
「そ、そんな……!全く同じものなんて不可能です……、きちんとあの子に理由を説明すれば、きっと分かってくれます……。そうだわ、私のドレスを差し上げれば─、」
「姉さん……、そもそも貴女のドレスではリジ−には大きすぎて着られませんよ。」
「あっ、そ、そうでしたね……。かといって、私が幼い頃に着ていたお古を差し上げたって罪滅ぼしにはなりませんし……」
「いえ、ご心配には及びません。」
セバスチャンは薄汚れた手袋を外すと、滅多に現すことのない青白い指先で#クロエ#の唇に人差し指を立てて彼女を黙らせた。
言わんとするところは、おそらく”ファントムハイヴ家の執事たるもの、ドレスくらい再現できずにどうします?”であろう。
#クロエ#は大人しく黙りはしたが、やはりピジョンブラッドの瞳には心配の色が揺らめく。
セバスチャンはふっと彼女に微笑むと、スラックスのポケットから新しい手袋のペアを取り出し、骨ばった手に装着した。
キュッとグローブの引き延ばされる音と共にかっちりと手首までを覆った彼は、”さて”と呟き、#クロエ#に向き直る。
「お嬢様、もうお召しにならないドレスの中で─、ロイヤルブルーとホワイトのものをいただけませんか。」
「ええ……いくらでもどうぞ。けれど、私のお古のドレスをあげてもリジ−が許してくれるかどうか……、」
「いえ、そのまま差し上げるのではなくドレスの縫製を解いて型紙から作ります。」
「えっ、……ええ!?」
#クロエ#の悲鳴を右から左へと聞き流すと、セバスチャンは飄々と”ホプキンスさんがお書きになった型紙はあの時に見ましたから、再現は十分に可能です”などと軽々しく言ってのけている。
弟の方も、彼女の隣で腰に下げていた懐中時計の文字盤を見つめて”三時間あれば十分だろう”と、とんでもない無理難題を口にした。
#クロエ#はいかにセバスチャンが有能な執事であろうともたったの三時間で型紙からドレスを縫い上げるのは不可能ではないかと口を挟もうとしたが、執事の方はもはや階上の衣裳部屋へと長い脚を進めている。
視線を左右に彷徨わせながらその細い背中を見つめていた#クロエ#を振り返り、彼は一つウィンクをして口を開いた。
「お嬢様。私に不可能はございません。」
それから。
セバスチャンは衣裳部屋からいくつか#クロエ#が15歳ほどの頃に着ていたドレスを数着選んで、作業に入ったようであった。
奇しくも今回ニナがドレスに使ったメインの生地と全く同じ生地で誂えられたドレスがいくつかあり、色味などは彼女が言っていた通り、”晴れた日の夜空のようなロイヤルブルー”そのもの。
金のボタンもナポレオンジャケット風の上衣部分に使用する白の布地も、#クロエ#のドレスで再現できるとのことである。
一旦の作業場とした応接間から、ガタガタとミシンの音が響く。
#クロエ#が息を呑む間に布の裁断を済ませてしまった彼は、早速とミシン針を異常なスピードで布地に走らせていた。
「ね、ねえ?セバスチャンったらこんな特技もあったのですね……。あんなに針仕事が得意だなんて知りませんでした。」
「僕の執事である以上、あの程度の仕事がこなせないようでは困りますよ。あの調子では、もう数十分もすれば完成するでしょう。」
「ええ……、あの手際の良さでは夕暮れまでにあともう一着くらい作れそう……。」
応接間の窓際、洒落たティーテーブルについて優雅に茶などを飲みながらセバスチャンの仕事ぶりを眺め、二人は雑談をして暇をつぶしていた。
滅多に使われることのない足踏みミシンを華麗に操る姿すらどこか上品に見えるのだから、あの執事のポテンシャルの底は計り知れない。
#クロエ#はふう、と一つ感嘆と呆れの入り混じったようなため息をついて、ティーカップの縁に唇を押し付けた。
「……ん?なんだあれ。」
「え?」
窓の外を眺めていたかと思えば、シエルは唐突にすうっと華奢な指を天空へと向けた。
それに引き寄せられるように彼の指先が示す先へ視線を向けると、ファントムハイヴ邸の前庭─、その噴水の辺りに一匹、猫が座り込んでいる。
黒い毛並みの愛らしい猫。しかしその口元には、
「……あいつがくわえてるのは……」
「まさかとは思いますけれど、リジ−のヘッドドレスではありませんか……?」
”晴れた日の夜空のような”色味の小ぶりな帽子。
そしてその縁には、彼女の言葉通りに青薔薇のレースのブローチらしきものが飾られている。
「ブ、ブローチ……そうだわ、忘れていました……。」
#クロエ#は、顔面から血の気が引いてゆくのを感じた。
無くしたヘッドドレスはセバスチャンが全く同じものを複製してくれるだろうが、ミッドフォード侯爵の手作りのブローチまでは、さすがの彼も再現はできまい。
なによりあれには、フランシスのウェディングドレスから切り取ったレースが使われているのだ。
仮に見た目上は同じものを復元できたとしても、そこに眠るミッドフォード夫妻の想い出までは込めることができない。
#クロエ#はいてもたってもいられず、大げさに立ち上がった。
シエルも同じ気持ちであったか、同じく姉と同時に立ち上がる。
二人はアイコンタクトに一つ頷くと、揃ってあまり早くはないスピードで駆けだした。
「いた!あいつだ!」
前庭へ飛び出した二人の前で、猫は呑気にヘッドドレスを抱いて眠っていた。
冬空の下、噴水の縁で器用にバランスを崩すことなく眠っている。
ぱちぱちと当たる水飛沫が背を濡らすのも気に掛ける様子はなく、その黒猫はただただ、ぐっすりと眠りについていた。
「……起きられると面倒だ。こっそり近づいて取ります。」
「え、ええ……けれどシエル、貴方も私も猫アレルギーですし……フィニか誰かを呼んで取ってきてもらったほうが……」
「いや、その隙にこいつに逃げられると余計に面倒なことになる……構いませんよ姉さん。僕がやります。」
「でも……!領主として出席するイベントが控えているのにくしゃみが止まらなくなったら……!!わ、私がやりますよ、私はどうせ、イベント中もそのあたりの隅で篝火を見ているだけですから。」
「僕はくしゃみで済むが姉さんは肌が荒れる。……そこで見ていてください。」
男らしく言い切った彼は、ごほんと咳払いをしてそろりそろりと黒猫に近づいて行った。
それを薔薇の茂みに隠れて、名前はそっと弟を見守る。
二メートルほど離れた距離ではあるが、名前は何となく肌や目が痒いような気がしてごしごしと瞳を擦った。
猫に近づくといつもこうだ。
昔から、猫の毛にアレルギーのある自分は少しでもその気配を感じると身体中がむずむずと痒くなる。
その遺伝子は弟にも受け継がれたか、彼の場合は身体のかゆみや皮膚の発赤ではなくくしゃみにその反応が現れるのだが─、この状況ではそうも言っていられない。
そろり、そろり、一歩一歩と着実にターゲットへと近づいてゆくシエルの姿をはらはらと紅の瞳に映す。
ざあざあと吹き付ける冬風にあの可愛い黒猫が目を覚ましてしまいやしないかと、心臓は大げさに騒ぎ立てるがターゲットは依然として眠ったまま。
「……!」
遂に、弟の手がヘッドドレスに届く。
まさにブローチと帽子の奪還という、その刹那─、
「っ、は、っつ、っくしゅん!!!!!!!!!!!」
「─!」
一閃、冷たい空気を切り裂いたくしゃみは、かの黒猫に大きな驚嘆とパニックをもたらした。
ぱちりと目を覚ました途端、弾かれたように飛び上がった仔猫は文字通り跳ね起きると口元に加えた帽子もそのままに噴水の縁から飛び降り、恐るべき脚力で走り去って行ってしまったのだ。
転がり落ちるビリヤード球のように右へ左へと蛇行して駆ける仔猫は、彼らの視線をくらますように庭の奥へと去ってゆく。
慌てて茂みから飛び出した名前は、一も二もなく猫の尻尾の行く先を追った。
「姉さん!」
「こっちですシエル!あ、ああっ!よりによってあんなところに……!」
悲鳴のような姉の言葉を目印にいくつかくしゃみをこぼしながらシエルが見たものは、庭の大木の遙か上部に上り詰めて再び眠り始めた猫の姿であった。
ローズガーデンの裏側、庭の中でも比較的手の入れられていない区画の中心にそびえる大木。
天を衝くかのような背丈のそれは、いつ植えられたのかすら定かではない上に樹種すらよく分からない。
しかしそれが優に三メートル近くはあり、黒猫が身を横たえている枝に登ることが自分には不可能であるということだけは、年若い伯爵にもはっきりと理解が及んだ。
「くそ、あんなところはフィニでもなければ登れん……!」
冷たくなり始めた宵の空に同じ色の髪をなびかせて、姉弟は遙か上方を見上げて立ち尽くした。
互いに猫アレルギーという爆弾を抱えているばかりでなく、どちらも身体を動かすことは得意ではない。
このまま指をくわえて猫の行動を見守るか、それとも黒猫が逃げ出さないことに賭けてフィニを呼びにやるか─、
選択肢はそのどちらかしかないものと思われたが、
「……いける、と思います。」
そこで覚悟を決めたのは、名前であった。
「姉さん!?」
「ええ、きっと大丈夫……、登れると思います。ほら、学校にいた頃に何度か木登りはしたことがありますから。」
「ダメだ、危険すぎる……落下でもすれば大ケガですよ!」
「大丈夫……、大丈夫です!落っこちてもほら、うふふ、姉さんの場合はお腹のお肉が守ってくれると思いますし……、」
「姉さん!!」
笑いごとじゃないだろ!とシエルは叫んだが、姉の方は強がりなのか”大丈夫”の一点張りで聞く耳を持たない。
遂にはハイヒールを脱ぎ捨てて、ストッキング越しの素足で大木の洞に足をかけて登り始めた。
「……!」
姉の手つきは、思ったよりも軽やかであった。
どうやら学生時代に木登りをしたことがあるというのは嘘ではないらしい。
ゆっくり、ゆっくりとではあるが着実に天上の枝へ向かって太い幹を登ってゆく。
本当にあのとろくさい姉かと疑わずにはいられぬほどにスムーズに、彼女はあれよあれよという間に猫の眠る細い枝へと到達した。
ずる、ずる、と重たい真紅のバッスルスカートを引きずって、黒猫の口元へと手を伸ばす。
「猫ちゃん……、お願いですからそのブローチだけは返してくださいな」
懇願の声が、枝葉を伝って地上の弟にも届く。
あと数センチ、あと数ミリ─、
名前の手が呑気にひげを揺らしている猫の口元に、そのヘッドドレスに、届く。
「姉さん!!」
地上を見下ろして頬を緩ませる姉の手には、確かにヘッドドレスが握られていた。
その勇猛の証か首元のあたりに既にアレルギーによる発赤が出ているが、しっかりとロイヤルブルーの帽子を掴む姉の顔は誇らしげだ。
シエルは、歓喜と共に一種の気のゆるみのようなものが全身を這うのを感じた。
この数秒、姉が落っこちてはきやしないかとハラハラと強張らせていた身体が安堵の中に沈む。
ゆるりと肩の力を抜くと、彼は普段通りの気怠げな声音に戻って姉にすばやく降りてくるよう声をかけた。
「はーい、今すぐ降りますね。」
へらりと言った名前は、細枝からずるずると後退するように大本の幹へと戻り始めた。
猫は、依然としてそこで眠り続けている。
気分がよくなったか、名前はアレルギーによる痒みも気に留めず、猫の頭を一撫でした。
「うふふ、やればできるものですね!!ねえシエル、見ました?私の華麗な木登─ッきゃああああ!!!!!」
「!!!!!」
やはり調子になど乗るものではない。
名前が鼻高々に己の成果を誇示し始めた瞬間にボキッと響いた不穏な裂傷音は、この場合最も恐れるべき事態を招くファンファーレであったのだ。
振動に耐えられなかったか、それとも純粋に名前の体重に耐えられなかったか、無慈悲にも中ほどで真っ二つに折れた枝。
見事にボキリと折れた枝の落下に巻き込まれた姉と黒猫は、真っ逆さまに地上へ向かって堕ちてくる。
「─姉さん!!!」
思わず姉を抱きとめようと、腕を伸ばす。
それが小柄な自分に可能であるかなどは、この刹那の隙間には考える余裕もなかった。
それは、無謀な行動でもあり反射的な行動でもあったのだ。
「……ッ!」
「─まったく……、お嬢様は御無理をなさる。」
恐怖からか反射からか瞳を瞑ったシエルが再び視界に光を取り入れた時、その耳に響いたのは墜落に伴うグロテスクな地響きではなかった。
どこか気障っぽい男の低音に恐る恐ると瞼を開けると、そこにいたのは猛スピードでミシンをかけていたはずの執事。
その腕には、名前と黒猫とがしっかりと抱えられている。
セバスチャンはゆるりと黒猫の喉を撫でてやると、愛おし気に美しい漆黒の毛並みを見つめて”彼女”を地面に離してやった。
「ああ……、いつまでも愛でていたいところですが、自由に気まぐれに生きるその姿こそ”彼女”の魅力ですからね。」
ほう、と恍惚の息をついたセバスチャンに尻尾を振って、黒猫が駆けてゆく。
その姿が茂に紛れて見えなくなってしまうと、セバスチャンはようやっとシエルに向き直った。
「坊ちゃん、無事にエリザベス様のドレスは完成いたしました。どなたがご覧になってもご満足いただける仕上がりかと自負しております。」
「………はあ……、」
ずるりと、今度こそ全身から力が抜けてゆく。
どうも今回もこの悪魔の力によって事なきを得そうな結末を前に、シエルは姉の手にしっかりと握られていたヘッドドレスを受け取って、名前の赤くなった頬を撫でてくしゃみを一つ溢した。
「姉さん、ケガは……、」
「あ、ありません。セバスチャンのお陰でなんとか……」
「お嬢様。あまり強がりを仰ると後々、余計に坊ちゃんを心配させます。」
「……ケガをしているのか!」
「ええ、落ちた際に足首を捻っておられるようです。」
「……た、たいしたことはありません!!!大丈夫です、少し痛むだけで夜の篝火には問題なく出席できますから……!」
シエルは、胡乱げな瞳で言い訳に勤しむ姉を見据えた。
しかし、彼女は懇願するように弟を見つめている。
恐らくは、ケガの程度が知られれば篝火への参加を弟に禁じられると思っているのだろう。
これ以上患部を見られないようにか、足首を大急ぎでドレスのスカートで隠したりなど幼稚な隠蔽工作に勤しんでいる。
「……」
シエルは再び大きくため息をついた。
確かに、ケガが心配とはいえ夜のイベントへの参加を禁ずるのは少々心が痛む。
姉は、もう何日も前からガイ・フォークス・ナイトの篝火を楽しみにしていたのだから。
ウィンターローズの香が混じり入る空の下、セバスチャンの黒髪と名前の蒼い髪が揺れている。
シエルは盛大に肩を竦めると、このヘッドドレス奪還の最大の功労者である姉をねぎらうつもりで、篝火への参加について一つの条件を定めたのであった。
「わあ!!!!見てみてシエル!とーっても綺麗!!!!」
「リジー、あまり引っ張─、っうわあ!」
「あっちも!こっちも!とってもとっても綺麗だわ!」
やはりというか案の定というか、婚約者に引っ張りまわされているシエルを遠くに見つめて、名前はくすりと微笑んだ。
身に纏うのは、ニナ・ホプキンス自慢の最新作。
美しいビロードのイブニングドレスである。
夜空のような色味のネイビーの生地にはきらきらと星の瞬きのようにグリッターが埋め込まれており、風に揺れるたびにドレスそのものが目映く輝く。
同じくニナ手製のケープは、暖かな漆黒のファーケープ。
襟元に飾られたリボンはドレスのネイビーとケープの漆黒との中間色で、全体としてみるとケープ、リボン、ドレスとで落ち着いた夜空のようなグラデーションのように見える。
─やっぱりニナの創るドレスのコンセプトはどれもこれも素敵。
名前は耳元で星の形をしたピアスを揺らして、ほう、と白く煙った吐息を吐き出した。
「坊ちゃんは相変わらずエリザベス様に引っ張りまわされておられますが─、領主としての権威が失墜しなければよいのですが。」
セバスチャンは、篝火の前でリジーにあっちへこっちへと腕をとられて駆け回らされている主人を瞳に入れておかしそうに(本当におかしそうに)意地わるく笑っている。
名前はへらりと苦笑うと、少し上にあるセバスチャンの瞳に向かって唇を開いた。
「大丈夫ですよ、きっと……。今日はお祭りですし、みんな気にしません。」
篝火を囲んで始まった陽気な音楽に、名前は愉快げに首を振って遠くを見据えた。
下町の、庶民の音楽。
気取った様子のないその音はワルツが踊れるような上品な旋律ではなかったが、庶民の音楽に庶民の踊りは、それはそれで楽しそうだ。
火の回りでは、町の人々が輪になってポルカのようなものを踊っている。
その輪の中へ当然のように入っていったエリザベスとシエルはずいぶんと楽しそうだ。
シエルの方はやはりうまくステップを踏み切れていないが、人々が何とかかんとか彼に庶民流のステップを教えてやっている様子が微笑ましい。
バルドやメイリン、フィニにスネークも、ちらほらと町の人々と共に陽気にダンスを楽しんでいる様子が遠くに見える。
名前は満足そうに楽しそうな”家族”を見据えて、ローズブラッドの瞳に炎の色を融かした。
「あー!!名前様だ!こんなとこにいた!」
「ほんとだ!こんばんは!」
「この間はありがとう!!」
大人たちがこぞってダンスを始めた火の周りから、飛び跳ねるように駆けてきた三人の少年たち。
どの子も顔を煤で汚したりなどしているが、満足そうに手に菓子を握っている。
そのくすみの強い茶髪や金の髪は、まぎれもなく先日彼女が1ペニーずつ握らせてやった少年たちであった。
「名前様はダンスしないの?大人はみんな踊ってるけど」
「ええ……、実は少しケガをしてしまって。」
「だからこのおじさんにだっこしてもらってるの?」
「……。」
少年たちの無垢な瞳がセバスチャンを見上げる。
黒い外套を夜風に翻したセバスチャンは”おじさん”という呼称に対して何やら一言二言言いたいことがありそうではあったが、ぐっと口角に力をいれると恐ろしく整った笑みを浮かべて少年たちに微笑みかけた。(相手が子供であるということを加味して耐え忍んでいるつもりらしい。)
「お、おじさん……、ふふ、そう。セバスチャンがだっこしていてくれないと、歩くことすらできないのです。」
「ふーん、残念だね。かわいそう。」
「おじさん、ちゃんと名前様をだっこしてあげてね」
「……。」
セバスチャンは、数度に渡る”おじさん”呼ばわりを全て笑顔で流した。
しかし、決して”おじさん”という呼びかけに対して返事は寄越さなかった。
そういうところを見ると、彼の性格の頑固さがひしひしと伝わってくる。
子供達に笑顔を向けながらも、まるで威圧でもしているような彼の顔を苦笑いで見上げて、名前はこっそりと笑った。
「あ!あっちにビル兄ちゃんがいるぞ!」
「ほんとだ!遊んでもらおう!!」
「じゃあね名前様!」
嵐のような少年たちは夜の帳の向こう、教会の入り口に佇んでいた青年のすがたに気を移すと途端に名前とセバスチャンに対する興味を失ったかのように駆けていった。
あの年頃の子供は、シエルもそうだったが忙しない。
興味の対象があちこちと世界中のそこかしこに散らばっていて、一處に長くとどまるということがないのである。
名前は去って行った彼らをほんの少し寂しそうに見つめたが、セバスチャンの方はせいせいしたとでも言うように口角を上げると、腕に抱えた彼女に微笑みかけた。
「どちら様ですか?あの少年たちは?」
「あぁ……えーと……お、お友だちです。この間少しお話をしたのです。」
「なるほど………、残念ですね。お嬢様はダンスだけはお上手ですから、脚の具合さえよろしければ彼らに華麗なステップを披露できたというのに……。」
「いいえ、私は見ていられるだけで十分です。……それよりもごめんなさいね、セバスチャン。せっかくのお祭りなのにこうして……、」
言って、名前は自身の身体を支えるセバスチャンの腕をちらりと見下げた。
弟によって付けられたガイ・フォークス・ナイトに参加するための条件。
それは、セバスチャンに抱えられた状態で大人しく篝火を見ていること。
足を捻って満足に歩くことすらできないのであるので仕方のないこととはいえ、こうしてセバスチャンに自分の脚代わりをさせるのはさすがに心苦しい。
使用人達もみな楽し気に夜を楽しんでいるというのに、セバスチャンだけは自分のせいで楽しめないままだ。
それがやはり気にかかって、名前はもう一度彼に”ごめんなさい”とつぶやいた。
「いえ、私は元来ああして火を囲んで踊り明かしたいという質でもございませんし……、ここでお嬢様とご一緒させていただけるのであればそれ以上に求めることは何もございません。」
セバスチャンは特段社交辞令という風もなく、さらりと言ってのけた。
嘘ではないらしいその物言いに、名前はぽっと頬を染める。
遠くで地平線を焼くように燃えている篝火の火の粉が風に乗ってふわりと彼女の頬を撫でると、余計にその面立ちを嬉しそうに火照らせ、名前はぎゅうっとケープの合わせ目を掴んだ。
「そう……、そう、ですか。うふふ……。」
11月の夜風の刃物のごとき冷たさに紛れてやってくる火を運ぶ温風と、木の焦げる匂いと、陽気な音楽と。
世界を焼く幻想的な夜の下で、自分はこうしてセバスチャンに抱きしめられている。
それは、当初彼女が望んだようなロマンティックな過程を踏んだ抱擁ではないにしろ、結果として彼の腕の中にいられるのなら、それでいい。
昼間に猫を追いかけたせいで肌がところどころ荒れて痒いのも、目の回りが赤くなってしまっていることも、すべてどうでもいい。
明るい炎を燈した名前の瞳に、端整な執事の美しい唇がちらりと映り込む。
キスなぞ、望んではいけないと知っている。
メインの篝火から少し離れているとはいえ、そしてここが焚火の会場の隅であるとはいえ、誰がどこで見ているのかもわからないのだから。
しかし彼女はほんの少しの勇気を胸で燃やすと、そっとコートに包まれた彼の腕に手を寄せた。
「お嬢様?」
「─、」
見つめ合えば、彼女の欲するところは彼にも掌で包むように理解が及ぶ。
背伸びをするようにその冷たい唇に口づける。その刹那。
彼はふっと小さく嘲笑のようなものをもらして、名前の後頭を大きな掌で包んだのであった。
夜空には、クライマックスの花火がバスケットからこぼれるように爆ぜる。
昼時かと見紛う光の屑の中、触れた唇の温度はどちらも冬風に包まれて少し冷たい。
次第に頭に降りかかってきたやわらかなものは雪であろうか─、
それを確かめる気にもならず、二人は互いに戯れるように唇を重ねていた。
どこで誰が見ているか、そんなことは気に留めるまでもない。
この幻想的な篝火の中こっそりと夜にまぎれてキスをしている令嬢と使用人の姿など、きっと11月に象られた世界が隠してくれるにきまっているのだから。
(Guy Fawks Night U/Sebasutian)