Lurid pinky chocolate3
「そういえばポーラ。貴女は最近は体調を崩していたと聞いていますけれど、大丈夫なのですか?」
「お気遣い痛み入ります、名前お嬢様。このとおり、すっかり元気です。」

馬車を下りナイツブリッジへと赴く道すがら、ポーラは腕に力こぶを作るポーズで名前の問いに答えた。
すっかり元気です、の言葉通りに幾分顔色の良さそうに見えるポーラは、“奥様とお嬢様のお買い物にお連れいただけて、嬉しいです“と微笑んだ。

「本当はポーラを連れてきてよいものか、いくらか迷ったのだがな。元気とはいえ病み上がりの身にロンドンの煙り臭さは堪えるだろう。」

叔母は上空を覆うどんよりとした煤煙の霧を見て、ごほんとハンカチで口元を覆った。
なるほど確かに、お世辞にも“空気が良い“とは言えないロンドンである。
本調子でない人間にこの排煙は辛かろう。
かく言う名前もそれほど身体は丈夫な方ではなく、ロンドンへ出た翌日などは発熱とまではいかずとも身体に熱が篭っているような倦怠感に立ち上がれなくなる日がある。
彼女以上にもっと身体の弱いシエルなどは、長期の調査でロンドンへ滞在すると一ヶ月ほど体調を崩すことも珍しくない。
煉瓦建ての建物にかかるスモッグを横目に見て、けほ、と一つ咳をする。
一歩後ろをついて来るポーラに“本当に大丈夫ですか?“と尋ねると、彼女は再び元気よく頷いた。


「叔母様、本日はどちらへ?ハロッズですか?」
「いや、ハーヴェイ・ニコルズへ行こうと思っている。若い娘の服飾品に関してはハロッズより豊富だろう。」
「そうですねえ……そういえば、リジーの好きそうなヘッドドレスのお店がいくつかあったような……」
「よし、そこで決まりだ。ちょうどあの子も“イースターのお茶会に向けて新しい帽子が欲しい“と言っていたし……」

そうと決まれば、叔母は迷いなく目的をハーヴェイ・ニコルズへと定めて混み合うストリートの右手へと移動した。
左手にはハイドパーク・ホテルが見えるが、目的地はこの通りの右手である。
そそくさと馬車を避けて向かい側へと移動すると、通りには大道芸人や物売りが溢れ、道ゆく身なりの良い人間に愛想よく声を掛ける。
“旦那様!靴磨きはいかがでしょう?“
“これよりこの剣を飲み込んで見せましょう!往来の皆様ご観覧ください!“
“奥様、お綺麗な奥様!オレンジはいかがでしょう?“

騒々しい、といえば不快なほど騒々しい。
しかし、こういう活気のあふれるストリートはファントムハイヴ領にはないので、名前は物珍しげにきょろきょろと見渡した。
物売り達はみな薄い麻のシャツにごわごわとしているのが一目瞭然のベスト姿。
客引きの強引さやコックニー訛りの英語が耳に違和感を与え、名前はそろそろと叔母の背にくっついた。



「……あの、おじょうさま。きれいなおはなはいかがですか?たったの3ペンスです」
「……っ!び、びっくりした……お花……ですか?」


叔母の背にぴとりと隠れるようにくっついた途端、名前のスカートの裾をくいくい、とひっぱる微弱な力があり、彼女は大きく肩を震わせて背後を振り返った。
見れば、彼女の腰元にも背丈の届かぬ少女がいくつか花束を抱えて名前を見つめている。
質素なワンピースにフード付きの黒い頭巾。
ストリートチルドレン、という言葉が彼女の脳裏をよぎる。
大きな薄茶色の瞳に映された自分と視線を合わせて、名前はぱちくりと瞬きをした。

「ああ……、ダメよ。この方達はミッドフォード侯爵のご家族だから、向こうに行ってらっしゃい。」

ポーラがそれとなく少女を諌め、名前のスカートから少女の手を離させる。
やはりごわごわとしていそうな麻のフードボレロを被った少女はしゅん、と頭を下げると、“ごめんなさい“と呟いて名前から視線を外した。

「ポーラ、その花を買ってやれ」
「お、奥様!よろしいので?」
「構わん、ちょうど今日の名前のヘッドドレスに合うだろう。」

そう言うと、叔母は少女と視線を合わせ、“そこの花をもらおう“と堂々たる威厳すら感じさせる声音で少女の抱えた花束を指差した。
当の少女の方は、よもや侯爵夫人から直々に声を掛けられるとは思わなかったのか、少々面食らっていた。しかし、我に返ったようにぴくんと肩を跳ねさせると慌てて抱えた花束の中からいちばん美しいと思われるものを抜き取り、フランシスに手渡した。

「あ、ありがとうございます!おじょうさまにばらのしゅくふくがありますように!」

小さな手はあかぎれだらけだった。
その憐憫に満ちた指先から薔薇の花束を受け取って、名前はへにゃりと微笑んだ。

「ありがとうございます。大切にお部屋に飾りますね。」

ぽっと頬を染めた少女はぺこりと頭を下げると、一目散にストリートを逆走して駆けて行ってしまった。
小さな掌にポーラから受けとったコインを握りしめてスキップ混じりに走り去ってしまったが、持たされた硬貨がペンスでなくシリング硬貨だと気がつくのはいつのことだろう。
彼女が掌の中にちょこんと鎮座するぴかぴかと光る銀の硬貨を見て目を丸くするのを想像して、名前はくすりと穏やかな心持ちで微笑んだ。


「叔母様、お花のプレゼントをありがとうございます。3シリングのお花なんて、高価ですね。」
「ふん、あの年頃の少女がこんな場所で懸命に花を売っているのを見ると─、それなりの報酬を渡してやらなければならないと思っただけだ。実際、貴族の富は施しを与えるためにある。そうだろう?」
「ええ、ご立派です。叔母様。」


フランシスは名前の手から薔薇を抜き取ると、綺麗に刺が落とされているのを確認して彼女のハンドバックにそっと小さな花束を滑り込ませた。
小さなバックから控えめに顔を覗かせる薔薇の花のお陰で、落ち着いたブラックの鞄に華やかな彩りが添えられる。
たったそれだけで自らの装いがまるで花籠を抱えた花売りの少女のように愛らしくなって、彼女は百貨店のショーウィンドウに写った自分に頬を緩ませた。


「さて、案内してくれ名前。そのお前の言うハットのショップというのはどこにある?」
「はい。ご案内しますね。グランドフロアにいくつかお店がありますから、ゆっくり見られると思います。」


ブリックレッドの煉瓦に形取られたハーヴェイ・ニコルズ百貨店の扉の前で叔母とポーラを振り返ってそう言うと、小洒落た制服のドアマンがにこやかに扉を開けてくれる。

「ようこそ奥様方。お目当てのものが見つかりますよう。」

一行は軽くドアマンに会釈をすると、香水とコスメティックスのパウダリーな香りに満ちる百貨店のフロアへと足を踏み出した。







それから、フランシスはなんとか店を一つに絞り、どのヘッドドレスを購入しようかと三つほど並べてうんうんと悩んでいた。
曰く、“エドワードが用意するプレゼントと被らず、さらに侯爵が手作りするであろう小物とも被りそうにないもの“を探しているとのことである。
いくらかポーラや名前の意見も聞いて、叔母は最終選択に入ったようで、かれこれ五分ほどは無言で三つのヘッドドレスとにらめっこをしていた。

叔母は基本的に決断が早い方ではあるが、今日はやや難航しているように見える。
名前はそっと席を外すと、ショップの外に出てフロア内の他の店などを物色しょうかとコツン、と背丈の高いハイヒールの音を響かせた。


「おや、レディ!レディ・名前ではありませんか?」
「あら……?」

一歩店の外へ足を踏み出した途端に前方から大股に歩いてくる紳士に声を掛けられ、名前はふと足を止めた。
優しげな光を点したまばゆい金糸の男性─、
はかなげな印象のその男は、驚きを隠せないというように大きく目を見開いて、カツカツとこちらへ歩み寄って来る。
いつかのパーティで出会ったような、そんな既視感にかられて凝視しているうちに、男は困ったように眉を下げて名前の手の甲に口づけを落とした。

「……覚えていただけなかったようですね……いえ、お相手が伯爵家のレディとあらばそれも当然のこと。お久しぶりです名前嬢。バリスターのギルバート・カーライルです。」
「バリスター……法廷弁護士の……、ああ!ごめんなさい、私ったら物覚えが悪くて……、サー・カーライルですね。お久しぶりです。」


名前は思い出した!とでもいうようにぱちん!と手を打って、カーライルにぺこりとお辞儀をした。
スカートの裾を摘み、ちょこんと膝を曲げて頭を垂れる。
それから“本当に申し訳ない“と言わんばかりに眉を下げ、“ご無礼をお許しください、本当に……恥ずかしながら物忘れも物覚えもひどくて“と恥ずかしそうにもにょもにょと呟いた。


「いいえ、こちらこそ無礼にもお声を掛けて失礼いたしました。昨年のパーティで一曲お相手いただいただけの男だと言うのに。」


彼はふっと自嘲気味に微笑むと、続けて“伯爵家のお嬢様に名前を覚えていただこうなど、たかがジェントリの身で、恥知らずでした“と口にした。

「いいえ、そんなに卑下なさらないでください……本来ならサー・カーライルのお名前を忘れる方なんているはずがありません!こんなに素敵で……、物腰も柔らかくって、法廷弁護士のお仕事でも優秀な方だと聞いていますし。私の物覚えが悪いばかりにお気を悪くさせてしまってごめんなさい。本当に、本来ならば女性がいくらでも周りに集って来るような素敵な方だと思っています。本当なのです!」
「レディにお気を遣わせてしまうとは。私もまだまだです。」


カーライルは口元に指先をやってくすりと笑うと、一通り名前の装いと薔薇の花を褒めてからショップの壁に背を預け、腕を組んで名前に話し掛けた。

「本日はショッピングですか?」
「ええ、叔母のお買い物にお付き合いしているのです。ほら、あそこ……、ミッドフォード侯爵夫人です。」
「おっと、これはまずい。こんなところでどこの馬の骨とも知れない男が叔母様の目を盗んでレディにお声掛けをしたなどと知られてはいけませんね……、退散いたします。」
「ま、まあ!そんなにお気になさらなくても……。大丈夫ですよ、サー・カーライルは好色な方にも見えませんし!」

あせあせとフォローを入れると、彼は儚げな微笑を崩さず名前の頬に掌を滑らせた。
きょとん、と彼女が目を丸くしているうちに、その水晶のような透き通ったマリンブルーの瞳が何度か瞬きをする。
あれよあれよという間に距離を詰められると、カーライルはぼそりと、彼女の耳元に秘密をこぼすように囁いた。


「……私が貴女に好意を抱いていると知れば、ミッドフォード侯爵夫人はお怒りになるでしょう?きっと。」
「……っ、え、え!?」
「ふふ、冗談……かどうかは貴女の判断に任せましょう。名前嬢。」


“本当にミッドフォード夫人に見つかってしまう前に退散いたします“
いたずらっぽく言って、彼はスマートに去って行った。
もう一度手の甲に落とされた口づけには、どんな意味があったのだろう。
名前は思わずドキドキと高鳴り始めた心臓を鎮めるように、ぎゅうっとドレスの胸のあたりを握った。
いけない、不意打ち的に現れた相手にあんなことを言われてうっかりときめいてしまったが、自分には心に決めた相手がいるのだ。

ショップの壁に火照った頬を押し付けて、瞬間的な熱を冷ます。
決めた相手─、そう、セバスチャンが言ったのだ。
“貴女が他の男性から好意を持たれているようでは気分が悪い“と。
あれは紛れも無い執事の嫉妬心であり、それだけ私は彼に愛されている。たぶん。
たぶん、と言ってしまうのは相手がセバスチャンだからだ。
本心の掴めない彼のことだから、不安はいつまでもちらつく。
しかし、基本的に都合のよい事柄しか受けとらない名前はあの日のキスを思い出してぼぼっと顔から火が出るのではないかと思うばかりに頬を赤らめた。
グローブ越しの掌で熱くなった頬を包んで、自らの気持ちを再確認する。
この場にいない人との、昨日の思い出をなぞるだけで先程とは比べようもなく胸がうるさい。
誰かに好意を抱いてもらえることは嬉しい。そして、ちょっぴり胸が跳ねてしまうのも事実。
しかしここまで─、自分を狂わせる相手は確かにセバスチャンしかいない。
それがたとえ身分違いの恋であっても、結ばれない運命であっても。
そんなことは計算の外に置いておけるくらい、わたしは彼が好きだ。

ぱんぱん、と頬を叩いて、名前はすっくと背筋を伸ばした。
店内を覗き見ると、叔母はプレゼントを決めたらしく、ポーラに会計をさせている。
名前の視線に気がつくと、フランシスはかつかつとヒールを鳴らしてこちらへやってきた。


「……誰かと話していたのか?話し声が聞こえたが。」
「ええ、さっき、サー・カーライルにお会いしたのです」
「サー・カーライル?法廷弁護士の?うちの主治医の友人だな。」
「あら……、そうだったのですね。知りませんでした。」
「ああ、中々優秀な男だと専らの噂だな。……見目もいいし、お前を貰ってくれればいいんだが。」
「いやですねえ、叔母様ったら。」
「お前はそろそろ嫁に行かねばならん。呑気に呆けていないですこしは真剣に考えないか。」
「はあい。気が向いたら、考えます。」
「まったく……」


そうこうしているうちに、ラッピングされたオレンジ色のボックスを抱えてポーラが店から出てきた。
結局、叔母はハットを三つとも買ったらしい。
色とりどりのリボンの巻かれたプレゼントボックスはポーラの腕にぎりぎり収まるかという大きさである。
名前はるん、とステップを踏むように一歩踏み出すと、くるりと二人を振り返って花の綻びのように口を開いた。

「さあ、すこしお茶にしませんか?お向かいのハイドパーク・ホテルのティールームなんかはいかが?」


鞄から溢れんばかりに顔を見せる薔薇の花は、はらりはらりとその花弁を落としつつあった。
花保ちの悪さも気にかけず、名前の足取りは軽い。
はらり、はらり、と落ちる深紅の花片が点々と道を作る様は、まるで─、まるで。
血痕のように見えなくもなかったのだが、彼女がどこまで気がついていたかは、定かではない。



(Lurid pinky chocolate V/Sebastian)


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