知らない方がいいこともある
「輝く星に願い事を」様、「Memory's last」の夢主ちゃんとのコラボレーション小説になります。








季節は晩冬。
もう4週間もすれば季節は初春へと移り変わり、ガラスビーズのように煌めきながら落ちて来る陽射しが重たい雪を溶かして空の支配権を取り戻す頃合いであった。
じきに、シーズンが始まる。
先日から気の早い浮かれた貴族からパーティーの開催を知らせる手紙が山のように届いているが、気難しい少年は届いた仰々しい招待状を睨みつけ“永遠に重たい雪がブリテン島を覆っていればいいものを“などと執事に文句を垂れて日常を消費していた。
しかし一方、呑気な姉の方は届いた社交界への招待状にるんるんとスキップ(うまく踏み切れていない)などをして、せっせと参加する旨をしたためた返書を書く仕事に精を出している。
午前中から図書室に篭ってどのパーティーに出るべきか、どの茶会を優先すべきかとシーズン中のスケジュールを組んでいるらしい姉とは対照的に、シエルはすでにいくつか届いている社交パーティーへの招待状や美術展の開催を知らせる手紙を悉く処分して仕事に取りかかることで一日を始めたのであった。

女王の番犬として英国裏社会に君臨する彼には、浮かれた社交シーズンの夜会などよりも遥かに重要なとある事件の顛末についての報告書を仕上げる仕事が残っていたのである。
この一ヶ月ほど追っていたその“事件“は無事解決したが、解決後は解決後で報告書をバッキンガムの女王陛下の元へ献上し、事件の後始末をするところまでが彼の領分。
シエルは気怠げなため息をつくと、出来上がった報告書を机の端にまとめてぐっと背筋を伸ばした。
ビキビキと鈍い音を立てて、骨と筋が伸びるほのかな痺れが心地好い。


「失礼いたします。坊ちゃん、葬儀屋さんがお越しになりました。お話はどちらでなさいますか?」


コンコン、上品に扉を打つ音が室内に響き渡る。
扉のノブが回される金属音と共に姿を現したセバスチャンは、普段通りに精巧な機械のような愛想の良さを顔中に貼付けて来客を告げた。
その不愉快なまでに整った姿を横目に見て、シエルは背後の大窓へと視線を巡らせた。
北風の吹き付ける灰色の屋外、屋敷の車停めに葬儀用の大仰な馬車が停まっている。
尖頭状の飾り枠が痛々しくも美しく取り付けられた漆黒の馬車は、遺体を乗せて走ることを主な目的としているだけに生身の人間が座れる場所は御者席にしかない。
普通の馬車であれば御者席の後ろに人間の座る場所があるはずであるが、葬儀用の馬車においてはその場は柩を納める場所となっている。
フィニが黒毛の馬に人参の切れ端をやっている姿をちらと視界に入れ、シエルは静かに立ち上がった。
あの御者席も一人乗りであるところを見ると、やはり彼は一人でここへ来たらしい。
彼はコート掛けに預けていたブルーのジャケットを羽織ると、執事に視線すら遣らずに言い付けた。


「応接室に通せ。」
「畏まりました。名前お嬢様には同席していただきますか?」
「分かり切ったことを聞くな。姉さんはあれを怖がる。」
「御意。」


傲慢に開かれた扉の音は、階上の図書室で脳内に花びらを散らしている名前には届かない。
シエルは後ろに長身の執事を従えると、堂々たる歩調で応接室へと歩みを進めたのであった。
紛れも無い、“事件の後始末“という仕事を終えるために。















シエル・ファントムハイヴは、やってきた“客“と共に仏頂面でアフタヌーンティーの席についていた。
客─、ロンドンで葬儀屋を営む名無しの男と、その助手的な立ち位置につく彼女。
てっきり葬儀屋は一人でやってきたものと思っていたが、しれっとその黒衣の後ろにグレージュの少女を連れていたものであるから、シエルは面食らったと共になんとなく裏をかかれたようで、気に入らない気分を飲み込んでスイーツに手を伸ばしたのであった。
セバスチャンが朝から焼いていた小振りのマドレーヌをぱくりと口元に運ぶ。
ウェッジウッドの皿の上にちょこんと上品に座っている焼菓子は、各々2つずつ丁寧に盛りつけられていた。
ほろりと甘いバター生地が舌の上に乗せられる。
彼は行儀が悪いと自覚しつつも、咀嚼をしながら葬儀屋に言葉を投げ掛けた。



「今日は一人かと思っていたが」
「ああ、馬車を見てそう思ったんだろう?あの馬車には御者席以外にもヒトを乗せる場所があるのさ。」
「そうなのよ。あの馬車にもヒトを乗せる場所があったのよ.......異常に狭くて横にならなきゃ頭を打つくらい天井が低いところだけが難点だけれど。ええ、トマスと話していた私を麻袋に詰めて押し込むくらいの隙間よ。」



じろりと葬儀屋を睨んだ彼女─、彼女の視線に恨みがましい色を見て取り、シエルは彼女に倣って彼をジト目で見遣った。
この男、言動も行動も常軌を逸しているとは思っていたが、よもや可愛がっている(ように見える)助手を柩入れに押し込んでここまで連れて来るとは思いもしなかった。
とはいえ、よくよく考えてみればイーストエンドの彼の店には椅子代わりに棺桶がいくつも置いてあることを考えるとこの行動も葬儀屋らしいといえばらしい。


「寝心地はよかっただろう?柩の中にヨークシャー産ウールのシーツを敷いておいたからねえ」
「そういう問題じゃないわ。せっかくトマスが何か大事な打ち明け話をしようとしてくれていたのに。」


むうっと膨れる音が聞こえるような、見事な膨れ面である。
友人との会話を打ち切られ、柩入れに寝そべっての道程がお気に召さなかったらしい彼女に同情めいた視線を向けて、シエルは気を取り直したように丸テーブルの上に肘をついた。
ごほん、と一つ神経質な咳ばらいをして、彼らのどこかズレた会話にピリオドを打ち込む。
彼らの視線がこちらに向けられたことを確認すると、彼は“番犬“の顔に戻って葬儀屋を見据えた。
バサリ、
先程完成させた報告書の下書きを葬儀屋の前に投げ渡す。


「おやおや.......」


眼は見えないながらも、彼は銀糸の前髪の向こうですうっと瞳を細めたような気配を見せた。
にんまりと口元にいびつな弧を浮かべ、少年伯爵の前にぬうっと青白い手を差し伸べる。
その鋭い爪先が少年の喉元に届くか届かないかというところで、彼は“ヒヒ、“と不気味な響きを伴う笑声を漏らして口を開いた。



「解決したんだねぇ。さて、約束の報酬は.......」
「用意してある。後は好きに使え。」
「ちょうどあれくらいの大きさのが欲しかったところだ。今回は伯爵の愉快な姿は拝めなかったけど.......まあ、これでいいものとしようか。」



情報に対する報酬の支払い。
ただそれだけの─、いつも通りの光景であると思われたそれは、キャットには不可思議な会話にも映った。
これまで葬儀屋と共にファントムハイヴ伯爵の関わる事件の手伝いをしてきたが、これまで報酬が後払いになったことなどあったろうか。
そして、もっと言えば情報の対価が“笑い“以外の何かで支払われることが─、そしてそれを葬儀屋が許すことが─、あったろうか。
こてんと首を傾げると、宵に差し掛かりはじめた空で染めたような暗色の髪もつられてゆれる。
彼女はこれまでの記憶を辿り返してみたが、ほんの二週間ほど前に伯爵がイーストエンドの店を訪れた日、そういえば葬儀屋が“報酬“を先に受け取っている様子はなかったのである。
あの日、伯爵が店にやってきた時はちょうど─、そう、確かご近所の手伝いに駆り出されていたのだ。
近所の食堂から小火が出たとかで大騒ぎで、近所中総出で消火と家財道具の運び出しに1日を費やした。
結局、出火自体は大したことはなく広範囲に燃え広がりなどもしなかったのだが、あの日は火元の食堂の奥さんを慰めて手伝いに来た人たちのために差し入れに簡単なシチューを作って、子供達の面倒を見て─、気がついたら日が沈んでいた。
それこそ、伯爵が訪ねてきたと葬儀屋から知らされたのは次の日。
太陽が高く昇ってからである。
“そういえばね─"、ふと、突然思い出したというように彼が中空を見上げながら語り出したのを聞いて、キャットは初めてまたファントムハイヴ伯爵はおかしな事件を追っているのだなあとぼんやりと思ったのだった。
近くの貸本屋に新しく入荷されたロマンス小説に視線を落としながら、ふんふんと話半分で聞いたことを覚えている。
そうだ、考えてみれば伯爵がどんな事件を追っていてどんな情報を欲していたのかも.......、そういえば聞いていない。


「報酬を後払いにしているなんて、珍しいわね。そういえば貴方たち、どんな事件を追っていたの?」



返答はなかった。
シエルは長いまつげを伏せてティーカップに口をつけるばかりで、葬儀屋は“言ってなかったけ〜?“とおどけたようににやにやとするばかり。
シエルの後ろで涼しい顔で控えているセバスチャンに視線を向けてみるが、彼はしたり顔で彼女を嘲笑うように微笑んでいた。


「.......」


一人状況を把握できていない彼女に、まるで“部外者は黙っていろ“と暗に言い聞かせるような瞳の色が腹立たしい。
彼女は葬儀屋に関して知らぬ事実があるということ(そしてセバスチャンは事の全貌を知っているらしいということ)に憤懣を吐き出したい気分になって、思わずもう一度口を挟んだ。



「ねえ、報酬ってなんのこと?貴方、いつも通り情報提供の時に何かしらで笑わせてもらったんじゃ.......、」
「彼女」



葬儀屋の低い声が彼女の言葉を有無を言わさず遮る。
彼女は思わず彼の美しいテノールの響きに唇を閉ざしてしまった。
それを満足そうに見下げて、葬儀屋は静かに言う。



「久しぶりに名前嬢に会って来たらどうだい?」



その一言は、はっきりとした拒絶の色で染められていた。
事件についても報酬についても─、話す気はない。
つまるところ、そういうことだろう。
葬儀屋や伯爵や、あの気に食わない執事や。
三人そろって彼女から視線を外しているのが腹立たしくて、悔しい。
彼女はカッと頭に血が上るのを自覚した。
しかし、整然と並べられた三段のティースタンドに鎮座する菓子たちを視界に入れると、突然に胸の奥で燃え上がった炎は急速に小さく衰え、冷え込んで行く。
バターの香りのマドレーヌ、可愛らしいローズ模様のマカロン、上品に佇むキューカンバーサンドイッチ。机上に佇む高価なカップ。
どれもこれも、机上には二つずつ用意されている。
客人である葬儀屋と─、この屋敷の主人。
その二人のためだけに。



「.......最初から話す気はないってことね」



怒りは時として頭をクリアーに冷やす。
キャットはすっくと席を立つと、今だ席に収まる彼を冷たい漆黒の瞳で見下げて聞き分けのよい少女の顔をして彼に吐き捨てた。


「話したくないなら、いいけれど。........でも、聞かれたくない話をするのならこんなところに私を連れて来るべきじゃなかったんじゃないかしら」




肩を怒らせる。
華奢な肩骨が震えるほどの怒りを感じているのに、視線と言動はどこまでも冷静に透明になってゆく。
キャットは大股にティーテーブルを離れると、葬儀屋の言うように“名前に会いに行く“という名目の下に室内を出て行こうとした。
その細い背中に、セバスチャンの愛想の良い言葉が突き刺さる。


「お嬢様は図書室におられます。お連れしま─、」
「結構!一人で行けるわ。」




バタン!
物言いとは対照的に、扉は乱暴な音と共に蝶番を閉ざした。
彼女の苛立ちを置いてけぼりにしたように、室内では気まずい空気が紅茶の熱を奪う。
しかし、彼はとぼけたように“怒っちゃったねえ“と間延びした声で呟いて、冷めた紅茶に口をつけたのであった。




「........おい、聞かせたくないならなぜ連れてきた」
「ん〜?」
「お前たちの厄介な痴話喧嘩を持ち込むな。」
「いつも厄介事を持ち込んで来る人がよく言うよ。」



葬儀屋は飄々と言ってのけると、ティースタンドからサンドウィッチを一切れ掴み、ぱくりと口の中に放り込んだ。
胡瓜と塩、バター、マヨネーズ、ほどよく複雑に絡まった味が舌に嬉しい刺激を与えてくれる。
葬儀屋はぺろりとそれを胃の奥に押し込んでしまうと、前髪の奥に黄緑色の燐光を静かに揺らして、ポツリと呟いた。




「大人にはね、色んな事情があるのさ。」
















ファントムハイヴ家の図書室の場所はよくよくと熟知している。
客室や遊戯場の収められた東塔の最上階のそのまた奥、ただでさえ日常的には使われない東塔の中でも、殊更にひっそりとした場所にぽつんと佇んでいたはずだ。
伯爵はあまり積極的にここへは近寄らないようであるし、この寂しい図書室に日常的に篭っているのは名前だけではないかと思われた。
夥しい数の本棚にひっそりと隠れるようにして本を読みあさったり、時に一人でかくれんぼをして寂しくなったり、そしてフランスに残してきた友人達に手紙を書いたりなどして休みの日を過ごしているという噂であるが、今日は何をしているのだろう。
彼女はそんなことを考えながら、ギイ、と図書室の扉を押し開いた。
見事なまでに重たい、さも“貴族様のお屋敷“といった風情の上等な扉である。
冷たい楡の木の扉面に細い手を這わせて、彼女はそうっと中を窺ってみた。


室内は、しいんとした静寂の支配下にあった。
人の気配をまるで感じられぬ無人のエントランス、落ち着いた芝のような暗いグリーンの床タイルに、品のよいボルドーの絨毯。
室内の入口には可愛らしいピンクのソファと暖炉、そして簡単な物書きテーブルが設えられてある。
入口から向かって左手─、薄暗い通路の奥には広大な図書室の敷地が続いていた。
夥しい本棚に覆われた左手の書架は、入口の大窓からは遠いこともあり立ち入るには昼でもランタンが必要な暗さである。
彼女は相変わらず寂しい印象のある図書室にそうっと脚を踏み入れた。
廊下の寒々とした冷気を払うように、ブーツの底から暖気が競り上がって来る。
彼女はふと暖炉近くのソファへと近寄ってみた。
よもや名前はもうここにはいないのか─、
そう思われたが、暖炉の中で轟々と薪が燃えているのを目にして、彼女はその考えを改めた。
なるほど、室内に脚を踏み入れた途端にふわりと暖気が足元を包んだのはこのためであったか。




「.......、」



ソファ前の小さなテーブルには、きっちり二人分のティーセットが置かれている。
先程応接室にあったものと同じ、あの執事が用意したものと思われる猫足のティースタンド。
ここにいるのは名前一人だけのはず。
それなのに二人分用意されているということは─、



「やっぱり、最初から私をここに追いやるつもりだったのね。」


彼女は小さく悪態をついたが、すぐに気を取り直して薄暗い書架へと続く通路を覗いてみた。
こうなった以上、怒り狂っても泣いても悪態をついても─、どうしようもないことなのだ。
葬儀屋はきっと、どう足掻いても隠し事を教えてはくれない。
そういう相手だと薄々ながら理解している。
それはまるで、彼女をどうでもいい存在として扱っているようで不満も寂しさもあるが─、あの男はどうせ、小さく笑って適当な言葉で彼女の胸の痛みだけを取り除いてあやして、彼女の機嫌を取るのだ。
根本的な解決にはならないと知った上で。

彼の儚げな黄緑色の瞳の輝きを思い浮かべると何となく心臓のあるべき位置がズキンと鈍い鼓動を立てるようで、彼女はぶんぶんと頭を振って通路の奥へと脚を進めた。
気を取り直すように入口のテーブルをちらりと見やって、あの脳天気なお嬢様の姿で灰色の脳内を塗り変える。
深紅の薔薇に身を包まれたような、ほんわかといつも笑っている彼女。
その姿はまるで思考停止しているようにも見える。

彼女はどこにいるのだろう。
図書室にいるとセバスチャンは言っていたが、まさか書架の中で迷子になっているのではないだろうか。



「って、まさかね。まさかそんな.......、自宅で迷子になるようなことは.......」



ケラケラと笑った、その時であった。




「セ、セバスチャン〜!!たすけてくださ〜い!!」



それは紛れも無い、名前の声であった。
情けないソプラノの声音は、背の高い書架を伝って悲劇的に彼女の耳に届く。
丁寧な物言いではあるものの、間違いなく“厄介“と思われる状況からの脱出に忙しい執事を呼び付けているあたりは、彼女も紛れも無いお嬢様なのである。
彼女はやれやれとため息を吐き出して、白く煙った呼気を手で払って書架の先へとブーツの爪先を向けた。
響いた声は、書架のかなり奥の方から聞こえた。
もしかすると、彼女はこの広い広い図書室の最奥にいるのかもしれない。


「レディ名前!今行くわ!」
「えっ、彼女さん.......?どうしてここに.......?」


呼びかけに応じた名前は動揺を隠せない様子であったが、なぜここに彼女がいるのかを考えるよりは迷路と化した書架からの脱出に重きを置いたらしい。
先程よりも幾分大きな声で、“ここです〜!“と位置を知らせて叫びを上げる。


「だいたい位置は分かったわ!奥の方ね!」



彼女はぐんぐんと細い通路を進んでいった。
天井にまで届く本棚がぎっしりと詰め込まれたこの書庫は、エントランスの暖気がすっかり遮られて足元から底冷えの冷気が身体を侵食する。
彼女は葬儀屋と揃いのようにも見えるブーツの底をコツコツと床に叩きつけ、小走りに広い書庫の奥へと駆けていった。

埃っぽい古書の匂いは幾分かび臭いとも言えるが、それが重厚な歴史の匂いとも感じられる。
ファントムハイヴ邸の図書室は、時空がいびつに曲がったように時の流れがゆったりとしている。
数千もの図書は、歴代のファントムハイヴ伯爵が収集してきたものだろう。
ちらりと見る限り背表紙に印字されたタイトルだけで貴重だとわかる書籍がいくつも書棚に収まっている。
ここは、いわばファントムハイヴ家の歴史そのものなのだ。
歴代の伯爵がどのような書籍を好み、この書架に収めてきたのか─、
そういう、ファントムハイヴ家の歴史と共に構築されてきた空間なのだと。

その“歴史“に見下ろされて、彼女は小走りに書架の奥へと駆けて行く。
いくつかの細い路地を抜け、時に右へ左へと進んで、ようやくとか細い令嬢の声が身近に感じられるようになった時、彼女はようやくと一息ついて脚を止めた。
ハア、ハア、乱れ気味の呼気が白く煙って、冷たい書庫の空気に溶け込んでゆく。



「レディ!どこかしら?」
「ここです〜!えーっと.......、閲覧禁止の書棚の.......“B“の書架のあたりです.......!」



彼女はあたりを見渡した。
“閲覧禁止“
彼女の言う通り、確かに自らの周りを取り囲む書架にはいずれも“Closed for Viewing“─、閲覧禁止と金のプレートが掛かっている。
個人の図書室において“閲覧禁止“。
彼女は幾分背筋に寒気を這わせてもう一度静まり返った書棚を見渡してみた。
右手にある棚には、“Closed for Viewing D“とある。
Dの棚がここにあるということは─、



「レディ!」


細い通りの一本先。
その左手の“B“の書架の手前で、名前・ファントムハイヴは梯子に座ってぐすぐすと鼻を鳴らしていた。


彼女が書棚の角からひょっこりと顔を見せて呼びかけると、跳ねるように梯子から立ち上がり、転がるようにして彼女の元へ駆けて来る。


「彼女さん〜!見つけて下さってありがとうございますっ」


心細さからか、瞳に涙が滲んでいる。
彼女は彼女の肩に腕を回すと、にこりと微笑んだ。


「大丈夫よ。それより、助けに来たのがセバスチャンじゃなくてごめんなさいね。」
「いいえ、ありがとうございます。.......それにしても、セバスチャンはひどいのです.......何度も呼んでいるのに助けに来てくれないのですから.......」


しょんぼりと肩を下げて言う彼女に、彼女は苦笑いで応えた。


「今、葬儀屋と伯爵がお話してるから.......給仕に忙しくて気がつかなかったのかしらね。」
「えっ、葬儀屋さんが来ているのですか.......?」


名前はさも“嫌だ“とでも言うように顔を歪めた。
何故だかはっきりとした理由を聞いたことはないが、この少女は昔から彼が苦手らしいのだ。
葬儀屋の姿を見かける度に気の毒なほどにビクビクと怯えて、いつも背の高いセバスチャンの後ろにすっぽりと隠れてしまう。
葬儀屋はそれをどうも面白がっているのか、名前を執拗に追い回したり曲がり角から突然姿を現したり気配を絶ってその背後に立ってみたりと、そういう意地の悪い遊びをしているが、それこそが名前の恐怖心を助長しているのではないかと思わないこともない。
彼女は豊満な胸を震わせ始めた彼女の肩をするりと撫でた。


「大丈夫よ、今は彼も伯爵も話に夢中でこんなところまでやって来ないわ。」


口にして、彼女は先程の苛立ちが沸々と心臓の位置から振り返してくるのを自覚した。
そう─、そうだ。あの二人は話に夢中なのだ。
自分を体よく追い払って、“ヒミツ“の事件や報酬の話をしている。
─意味もなく私を連れてきたくせに。
彼女は無意識に拳を握り締めた。
ギリリと爪が掌に食い込む痛みが、彼女の頭をより冷え切らせてゆく。
静かな図書室、暗い書庫、底から冷え込んでゆくようなフローリングの冷気。
その全てが、まるで彼女に“頭を冷やせ“と言っているようにも思えて─。
彼女は続けて、色素の薄い唇を噛み締めた。



「.......彼女さん?」



下から瞳を覗き込まれて、彼女は顔を逸らした。
きっと、名前もここへ追いやられた口なのだろうと、そんなことを考えていた。
伯爵の命令か執事の独断かは判別がつかないが、どうせ彼らから体よく追い払われてここにいるのだ。
そして彼女はそれに─、自分が仲間外れにされていることに、気がついていない。
彼女は苦々しげに口を開くと、名前の腰のあたりで揺れているピナフォアエプロンのフリルに視線の置き所を求めた。


「.......ねえ、貴女は伯爵やセバスチャンに仲間外れにされたらどういう気持ちがする?」
「え?」


少女は問いかけの真意を掴むのに少々時間を要するようであった。
ううん、と小さく唸って俯くと、難しい顔をして考え込んでいる。
薄暗がりの書架の中、彼女は我慢強くその返答を待った。
いつも呑気そうに鼻歌なぞ歌っているこの少女の中にも、自分と同じような憤懣や苛立ちが生きているのだろうか。
伯爵や執事に対して“許せない“と、そう感じることがあるのだろうか。
静かに、彼女がドレスの裾を揺らしたその時。
名前はぽってりとしたその唇を開いた。




「わかりました!彼女さん、葬儀屋さんやシエルから追い出されたのでしょう?」


それは、彼女にしては珍しく的確な答を導いた思考となったようであった。
はっきりと図星をさされ彼女はふいっと視線を足元へ落としたが、名前は一人でうんうんと頷いて何やら大仰に彼女の細い手首を掴む。


「分かります。よーく分かります!悲しいですよね、寂しいですよね、ちょっと怒ってしまいますよね。」
「貴女にも怒りという感情があるの?」
「?」
「レディが怒っているところを、今まで見たことがないから。」


彼女の純粋な問い掛けをさらりとかわすように、名前は曖昧に微笑んだ。
しかし、彼女は突然に飛び上がると、掌同士を合わせて“そうだわ!“と高らかにソプラノの旋律を響かせた。
ぴょこん、と跳ねた彼女の身体に合わせて、深紅のスカートが揺れる。
それは彼女のグレーとブラックのドレスの裾を誘うように巻き上げて、少女の柔いストッキングの色を露にした。


「悲しくて嫌な気持ちがする時は─、楽しい冒険はいかがですか?」
「冒険?」
「はい!こっちです!」




ぐいっと、弱くも勢いよく彼女は書庫の奥へ奥へと手を引かれていった。
平素通り弾んでいる名前の胸は、ことさら愉快そうにぶるんぶるんと揺れている。
彼女の言う“冒険“というのが何なのかは分かりかねるが、よほど嬉しそうな彼女の様子を見ているとどことなくつられて自分も胸がワクワクとしてしまう。
彼女は興味深そうに名前の進む先へと美しいアッシュの視線を向けた。



「彼女さん、見えますか?アレです。あの棚.......」


名前はぴたりと“閲覧禁止“の書庫の後半で立ち止まると、彼女の方を振り向いて尋ねた。
彼女の指先は、すうっと冷たい空気を裂くように一つの書架へと伸びている。
彼女はじっと視線を細め、彼女の人差し指が示すその場所へと瞳を凝らした。



「あれ.......?あの“閲覧禁止“のQの棚かしら?」
「はい。あの棚.......よーく見ると.......」
「.......まあ!あれ、.......!!」


二人は興奮のせき立てるままに“Q“の棚へと駆け寄った。
一見すれば、他の書架と変わりがないように見える重々しいそれ。
鈍いブラウンに艶めく木の材質は、上品な木目の模様を見る限りウォールナットであろう。
贅沢に高級木材で切り出された天井まで届く書棚には、びっしりと本が詰め込まれている。
しかしその書架の最下段─、床との接地面の縁には、奇妙に小さな小さな、それこそ普通の人間であれば見逃してしまうに違いない鍵穴がこちらを見つめているのであった。


「これ、もしかして.......」


彼女の呟きに悪戯っぽくウィンクをした名前は、そっと棚の中段─上から四段目の本棚に収まっていたダンテの『神曲“インフェルノ“』、地獄篇を取り出した。
見たところ、15世紀の写本であろうか。
多少の痛みの見られる書籍の表題は“inferno“とトスカーナ語で記されている。
名前はニコニコと自慢げに古い本の頁を丁寧にめくると、その第三圏“貪食者の地獄“の挿絵頁を開いた。
姿を現したのは、三頭の犬が荒くれる地獄の門の前で亡者の群れを食い殺す凄惨なイラスト。
黒々と描かれた地獄の入り口には、どこか寒気を催させる圧がある。


「見てください、ここのイラストのケルベロスの頭のところ.......」


少女の言葉に合わせて、その指先がケルベロスの挿絵の真ん中の頭をするりとめくる。
驚くべき事に、地獄の番犬ケルベロスの三つの頭のうち名前の指先が触れた真ん中の頭はぺろりと中から薄くめくれたのである。


「こんなところに鍵が.......!」
「ええ、トスカーナ語の神曲なんて、誰も読めませんものね。確かにここに隠せば鍵は見つからないでしょう。」


隠し頁の中から姿を現したのは、きらりと刃物のごとく怪しく光る銀の鍵。
それは図書室の薄暗い空気の中で光源のごとく瞬いて、少女たちの瞳を照らした。
それは二人をほの暗い冒険へと駆り立てるように─、
ずうん、と。
仄かに酸化の進んで黒ずんだ輝きで以って、彼女の掌に佇む。


「レディ、つまりこれがあの……」


彼女の瞳がQの棚の小さな鍵穴へと向けられる。
名前はにっこりと微笑むと、彼女の掌から鍵をすくい上げて鍵穴へと差し込んだ。


カチリ。
示し合せたようにぴったりとはまった鍵が、少女たちを一つの冒険へと駆り立てる。
書架の裏側から姿を現すものは何であろう。
隠し扉か、隠し部屋、もしくは地下か階上へ伸びる隠し階段であろうか。
彼女は先ほどまで燃え滾らせていた激情をすっかり底冷えのする書庫の床に置き去りにして名前に駆け寄った。
つるつると滑るフローリングをブーツの底で蹴って、彼女と共にQの棚に掌をかざす。


「少し力をかければ、押し開きます。」
「ええ、じゃあ三つ数えて開けましょう。─いくわよ、3、」
「2、」
「「1!」」

ギィ、と開いた書架の先。
まるで現実世界との遊離のように開かれた先で彼女たちを待ち受けていたのは─。


「……!」
「……、」






暗闇へと続く、下り階段であった。







(知らないほうがいいこともある/Under Taker Sebastian)


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