「ほっちゃん、助けて。」
そのたった一言のSOSが彼女の肉声を通して可聴化されたものでないことに、一抹の不安を覚えた彼の直感は正しかったのだ。
“ほっちゃん、助けて。“
液晶に浮かび上がる可視化された文字列に悪戯に冷たい指先をなぞらせて、するすると返信を打つ。
“どうしたんだ、緊急なら電話をしてくれ“
その真っ当ともいえる返答がどれほど彼女に涙を流させただろう。
今となっては真相はわからない。
しかしそれから数時間のインターバルを経て迎えに上がった空港の到着ロビーで、抜け殻のように立ち尽くしていた南波の瞳は目も当てられないほど腫れていた。
氷鷹南波という人間をどれほどの人間が認知しているかは、彼には分からない。
しかし“Pride“のミナミだといえば、日本でも一定の認知を得ることは容易いだろう。
韓国を中心に東アジア、果ては欧米進出を果たしたガールズグループのメインボーカルの名を知らぬ者はそうはいまい。
昨今の目覚ましい韓流ブームの隆盛によって、南波は氷鷹南波としてでなく“ミナミ“として世間に広く認知されるようになった。
中には彼女を韓国籍だと信じて止まない者もいれば、日韓ハーフだという根も葉も無い噂も世間に流布しているほど。
彼女があの氷鷹誠矢の娘であるとちらりとでも考えた者がいれば、そいつに称賛を送ってやりたいくらいだ。
北斗は常々、双子の妹の活躍をネットニュースで目にしながらそう思っていた。
妹は、いいデビューを飾ったと思う。
幼少の砌より本人たっての希望でインターナショナルスクールへ通わせてもらい、そこで英語を身につけた。
気がつけば才媛の彼女が話せる言語は増えていって、今やもう何ヶ国語を話せるのか、彼にも見当がつかない。
易々とマルチリンガルという立場を築き上げた妹は、両親の七光りに照らされたくないとひょっこり韓国へ渡り、気がつけばインターナショナルスクールでの人脈を頼りにガールズグループとしてデビューを果たしていた。
名前をカタカナ表記にさえしてしまえば、彼女の輝かしい芸能一家のお嬢さんという経歴はすっかり覆い隠されて闇の中。
加えて、南波がライブでもテレビ番組でもラジオでも頑として日本語を話さなかったことも彼女を氷鷹誠矢の娘のイメージからかけ離すことに一役買った。
人気絶頂の“ミナミ“には多言語での憶測がいくつも飛び交う。
日韓ハーフだとか、両親は明洞で眼鏡屋を経営しているとか、父親は政府高官だとか、幼少期はアメリカで過ごしていたとか。
そういうネット上に氾濫する“ミナミ“の情報を見かける度に、北斗は複雑な気持ちでそれらすべてを唾棄していた。
南波が異常に父親に固執するようになったのがいつの頃からだったかは覚えていない。
ただ、気がつけば家にいない父親の姿を探して泣きわめいてみたり、母が買い与えたぬいぐるみに父の名前をつける程度には南波は父親の影をいつも探していた。
“ほっちゃん、わたしもパパと同じアイドルになるね“
はにかみがちにそう言った彼女は、続けて“すごいアイドルになったら、パパ褒めてくれるかなあ“とも言った。
当時から両親に対して一定の距離を置き、とりわけ父親を親の敵のように敵視していた北斗は、南波が抱く父親への恋慕のような執着のような感情を理解しがたく思っていたが、本人の人生に口を挟むつもりはない。
適当に“がんばれよ“と月並みな言葉を振り掛けて彼女を見送った。
父親は確かに家族を愛していた。その記憶はある。
多少放任しすぎるきらいはあるが、たまに帰ってきてはお客さんのように自分や南波を猫可愛がりした。
とりわけ、幼い頃から才媛として名を馳せていた南波には特別に期待を注いでいるように感じていた自分の妬みの入り混じった推測は間違いではあるまい。
あの父親がわざわざスケジュールに穴を開けてまで何度か“Pride“のライブに足を運んだと聞いているし、よほど妹に目を掛けているのだろうと、その時は幻想にも近い思い込みが彼の脳内を支配していたのだ。
きっと現役のアイドルにして先輩という立場から南波に助言を送ったり、多少厳しいことを言った後は彼女を抱きしめて食事なんかをして娘との歓談の時間を取っているのだろうと。
あの父親は確かに放任主義で自分にはほとんど干渉してこなかったが、スターダムを駆け上がる南波に関しては別だろうとどこかでそう思っていた。
はっきり言えば南波に利用価値を見出だして、それなりの機嫌取りくらいはするだろう。
それがいいか悪いかと言えば父親として最低だと断ずる他ないが、父の愛情に飢えた南波にとってそれは何よりも欲していたものだ。
だから、何も言わなかった。
ただ南波が不幸でないというのなら、父親がどういう風に妹に接していようがどうでもいい。
しかし、北斗の“幸福な“幻想はあの日、崩れ去ったのである。
そして同時に、その日を境に彼は父親への敵意をより募らせることにもなる。
「は.......?」
「“声帯ポリープだって、もう私、前みたいに歌えないんだって。音域が変わっちゃうかもしれない、もう高音が出ないかもしれないって“」
「“どうしよう、ほっちゃん“」
医師により発声を禁じられた妹は、さらさらとスケッチブックにペンシルを走らせながら泣いていた。
何を言っても“どうしよう“と白紙の上に書き付けるだけで、掠れた嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「落ち着いてくれ、手術をすれば治るんだろう?音域が変わったくらい、南波に対応できない問題じゃない。お前ならいくらでも手段を講じられるはずだし、声がまるまる変わったってその声とうまく付き合ってまた歌える。それくらい、朝飯前だろう」
妹はゆっくりと首を振ってしゃくり上げると、ペンをもう一度紙上に走らせた。
「“私がこうなるって分かってて、パパは私を見限ったんだよ“」
「は?」
「“私にはもう成長の余地はないんだって、もう伸びしろ全部使い切っちゃったって。パパが言ったの“」
それは頭蓋骨にヒビを入れられたような衝撃だった。
成長の余地はない、南波に?この才媛に?そんなはずはない。
何より、あの父親がそうして娘を見限ったという事実は北斗を狼狽させた。
妹は父親の期待を目一杯受けて、ステージ上で輝いているはずではなかったのか。
あの男から大切に特別に目を掛けられて、これまで得られなかった父の愛情とやらを享受しているはずではなかったのか。
理解に苦しむ推理小説の謎解きをされているようで、ただ妹の涙を拭いてやることしかできない。
そういう自分がもどかしい。
しかし、南波のペンは震えながらもその先を紡ごうとする。
「“パパに見放されたくなくて、わたしもっと成長できるって証明したくて、“」
「“努力すればパパが与えてくれた目標全部クリアできたの。これまではそうだったの“」
「“グループのセンターも取れたし、メインボーカルにもなれたし、モデルもお芝居も頑張ったの、これでやっと褒めてもらえるかなって思ってたの“」
「“パパの求めるレベルは高かったけど、頑張れば何とかなるって思ってたのに.......“」
「“音域が変わっても声が変わっても歌えるよ、たぶんできる。」
「“でも、パパに見放されたらもうアイドルやる意味どころか生きてる意味もない!!!“」
深夜の病棟に南波の嗚咽が響く。
暗闇に浮かぶ非常灯の赤い光がチラチラと視界をうろつくのが不愉快だった。
夜間灯に照らされた薄気味の悪い診察室で、拳を握る。
やっぱりあいつは最低だ。
これまで幾度となく繰り返した言葉を、苦々しい思いと共に噛み締めた。
「ほっちゃん!遅刻するよ!」
「南波のせいだろ!お前の寝起きが悪いから!!」
「「おばあちゃん!行ってきます!」」
は〜い、と間延びした祖母の声が居間の奥から響く。
揃いのローファーに足を収めた彼らは、慌ただしい朝の代名詞のように駆け出した。
「こら、あまり走るな。発作が出ても知らないぞ」
「うん」
高校二年生の春。
南波の声は無事に取り戻された。
以前に比べればいくらか高音域が出にくくなったとはいえ、大きく音色を変えることなく日常生活にも支障はない。
「やだなあ、今日小テストだよね」
「勉強したのか」
「してない」
「そんなだから成績が悪いんだぞ。お前はやればできるのにやらないからな」
「そうなんだけど.......、なんかやる気起きなくて」
「あまりサボり過ぎると進級に響くぞ」
「気をつける.......」
南波は、アイドルを辞めた。
声帯の支障のせいではない。
あれから、いつのまにか癖のように起こすようになった喘息発作のせいだった。
“ストレス性“というありがちな原因を推測された南波は、あの日と同じように虚な瞳のまま頷いて、そしてその場で引退を決めたのだ。
“ストレス“が何を指すのか、北斗にはよくよくと理解が及んでいた。
ネット上では分刻みのスケジュールによるストレス、ということで一応の決着がついたようだが、真相がそうありきたりなものでないことは兄の目には確かだったのである。
南波が初めて発作を起こしたのは、珍しく自宅に父親が帰ってきた日だった。
ポリープの切除以降、落ち着くまでは活動休止という体で彼女が自宅に戻っていたあの日、わざとらしく玄関の扉を開け放して慌てた様子を取り繕ったようにあの男が帰ってきたのだ。
“みーちゃん、どうしてパパに病気のことを教えてくれなかったんです。“
ソファに腰掛けてテレビで映画を見ていた南波の前にひざまずいて、寂しそうに見えなくもない表情で奴が妹の手を取った途端。
南波の言葉はすべて、荒れ狂う嵐のような呼吸不全に飲み込まれたのだ。
ゼエゼエとした荒い息遣いと、聞いているこちらが不安になる不協和音の咳き込みの中、彼女の真意は失われてしまった。
あの日のことを思い出すと、今でも臓が煮え繰り返るような気分が胸を占める。
どこで情報を嗅ぎ付けたのかは知らないが、南波がそういう状況に陥った直接的な原因になったとも知らないでぬけぬけと娘を心配する父親の顔をして戻ってきたことが許せない。
故意であれ過失であれ、妹を追い詰めてその人生を壊して、そのくせいまだに父親面をしていることが許せない。
突然の発作に倒れ込んだ南波を抱き上げようとしたあいつを押し退けて、妹と父を引き離した自分の判断は正しかったと、今でも思う。
“お前のせいで南波はこうなったんだろう!“
叫んだ言葉は心からの本心だった。
その後、祖母と共に南波を病院に担ぎ込んで自宅に戻った時には─、
あいつの姿はなかった。
あいつは、次の仕事へ向かっていた。
*
「ほっちゃん、もうサボっちゃおうよ。どうせ遅刻だし学校行っても小テストもあるし……」
「早歩きすれば間に合うだろう!馬鹿なこと言ってないでキリキリ歩け」
「はぁーい……」
およそ人の血が通っているとは言い難いあの男を、南波は「好き」だと言う。
"やっぱりパパとは会えない方がいいね。近くで見るとなんか勘違いしちゃう"
あいつが出ているテレビ番組を悲しそうに眉を下げて見つめて、彼女は呟いたのだ。
"特別な人だもん。パパって役割を割り振られただけの、他人だと思った方が気が楽。"
液晶画面の向こうで氷鷹誠矢にきゃあきゃあと黄色い声を上げる観衆と同じように「かっこいい」とはしゃいで、南波は普通の女子高生に戻った。
これまでの彼女が嘘だったみたいに、そのスター性の欠片を全て病室に置いて。
「……サボりはしないが、小テストの範囲くらいは教える。心配するな」
「えっ、ほんと?さすがほっちゃん!ありがと〜!」
「いちいち抱きつくな!ったく、クラスのアホ共の影響だな……」
彼女もまた、自分とは違う形で父親との関係を切ったのだ。
それはいくらか穏やかで平和的で、傾斜の緩やかな坂道のようなフェードアウトだったが─、
どちらにせよ自分も彼女も、今はあいつを"父親"だとは思っていない。