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私が目を覚ました時には、すべてが終わっていた。
ナイフで傷つけた腕は綺麗に処置されていて、もう片方の腕には点滴がつながれてある。周りには誰もいなくて、私がいるこの少し狭い部屋は、私一人が使っていることが分かった。
自分が思っていたよりも私は体に鞭うっていたらしい。枕元にあった携帯を開くと、ほぼ一日ほど眠っていたことがわかった。外は少し明るい。夜明けのようだ。

「どうやら目覚めたようですね」
「っ!メフィストさん…」

さすが神出鬼没。音もなく、襖をあけることもなく登場した彼はいつものようにクククと笑いながら指を鳴らし、自分の座る場所を作った。
とりあえず私も寝転がったままはさすがに悪いというか、恥ずかしいので上体だけ起こすことにする。そのままでも結構ですよという声に私は苦笑いで返事を返した。

「調子はいかがですか」
「寝すぎて逆にだるいって感じです。体が重い。でも疲れは全然。点滴もきいてるみたいです」
「それはよかった」

それにしても暑い。朝方とはいえ冷房のない部屋だから風で涼むしかできないのだけれど、涼むほどの風はふいていない。鳥の声はすがすがしく、蝉の声は暑苦しい。これも風物詩といえば、そうなのだけれど。

「ハウレス…無事使い魔にすることができました。ありがとうございます」
「いえ、アレは主人をほしがっていましたので」
「…聞いていいですか」
「はい」
「なぜ、私にアレを渡したんですか」

私を気に入っている、と彼は言ったけど、それが本当のことだとは思えなかった。彼は策士で、彼が考えていることなんてきっと誰にもわからない。私を武器にするといっても、こんな風に彼が私の手助けをしてくれるというのも考え辛かった。あの時は素直に感謝していただいたけれど、やっぱり気になるものは気になる。
正直、メフィストさんは好き嫌いは別としてあまり得意ではない。いつも私を見る表情も、しぐさも、特にその独特な目が、怖いのだ。深くは考えないけれど、こういう時、改めて感じざるをえない。
にんまりと笑う、ほら、その表情が、得意ではないのだ。

「パズルのようなものですよ。ここを動かせば、こちらはどうなるのか、という風にね」
「はあ」
「あなたはよく馴染んでいる。喜ばしいことです」
「…はあ」

結局、わからなかった。まあ、答えが返ってくるとも思わなかったけれど。
メフィストさんは私の頬をするりと撫でるとそのまま別れの言葉を言い去って行ってしまった。
気に入ってもらえているというなら、それはそれでありがたい話ではあるし、今回のことがメフィストさんにとって嫌な結果にならなかったのならばよかった。私はメフィストさんのおかげで生かされているような部分もあるから、彼を幻滅させるようなことにはなりたくない。信頼しているというのは嘘になるけれど、頼るほかは、ないのだ。

「…ネイガウスさん」

名前を呼んだところでなのだけれど、どうにも、口にしたくなる。早く帰って会いたい。ぎゅうって抱きしめて、ただいまって言いたい。甘えまくりたい。もう子どもじゃないのに、まるで小さい子みたいに、構って、構ってって。呆れられないほどに、ブレーキかかればいいんだけど。でも、やっと帰れると思ったら、どうしても口元がゆるんでしまった。
そうこうしている内に朝の6時を回り、次第に廊下を歩く音とかも聞こえてきて他の人たちが起床しはじめているのがわかった。私も早く動きたいのだけれど、点滴のおかげでどうしても好きに身動きがとれない。点滴の台には車がついていて自分で押すことのできるものではあるけれど、畳の上でするのも、気が引ける。さあどうしたものか。早く誰か医工騎士きてくれないかなあ、なんて考えていると、失礼します、と外から声がかかった。

「あー奥村先生」
「おはようございます小川さん」
「おはようございます」

どうやら奥村先生だったようだ。助かった。早いとこ点滴を外してもらおうではないか。朝早くにすみません、と謝られてしまったけれどそんなことは一切ない。丁寧に否定しておいた。
顔色や体温、あとお腹なんかを押されて体調を診てもらった。自分的には問題はないのだけれど、奥村先生も軽い診察のようなものが終わればにっこりと笑って大丈夫だということを伝えてくれた。

「この分じゃ、今日は出歩いてもいいでしょう。みなさん、京都観光へ行くらしいですよ。小川さんを誘ってもいいものか心配していました」
「え…そ、そうなんですか」
「僕も引率しますし、心配ないでしょう。行かれますか?」
「行きたいです!」

私も色々まわりたいところがあったんだ。なんたって初京都だから。なんだかわくわくしてきた。にやけをおさえきれなかったけれど、それを奥村先生がにこにこ見ていたものだからすぐに直した。いや恥ずかしい。そんな幼稚園児を見るような目で見なくてもいいのに。

「…でも、先生、なんか疲れた顔されてますね」
「…そう、ですか?」
「やっぱ大変ですよね、私候補生みたいなのとは違って、中一級ともなると色々、戦う意外にもお仕事はたくさんあるでしょう?」

その点、私は戦っただけでくたばったとは、なんともなさけないお話である。ネイガウスさんも任務後は報告書とかまとめたり執務をしていたから、きっと奥村先生もそうだろうと思う。祓魔師は大変だ。今は他人事のように言ってしまえるけれど。
いつもお疲れ様です、と尊敬の意も込めて伝えると、なぜか、奥村先生は少し難しい顔をした。なにかいけないことを言っちゃったのかな、不安になってきた。

「…失礼を承知で、お尋ねしたいことがあるのですが…」

少しだけ間を置き、先生は口を開いた。妙に緊張していたこともあり、心臓がドキ、と大げさにはねた。