29

三年の教室が見えてきた。そしたら案の定野次馬も多くギャーギャーと騒がしく、ああもう、とため息をつきたくなったとき、沢山の声の中に「食満先輩、やめてください!」って、そんな言葉が聞こえて一瞬時間が止まったように思えた。でもそれも本当に一瞬。次の瞬間にはぞわりと嫌な予感が込み上げてきて、私は静かに唾を飲み込んだ。
考えるとかそういうことじゃなくて、やらなくちゃ、みたいな、言葉ではすごく表しにくいのだけれど私は最悪の状況を想定した瞬間に思いきり床を蹴って教室内に飛び込んだ。
声を出す間すら惜しい。そんな予感は、当たらなくても良かったのに。


「やめろ!」
「…っ!?」


叫ぶと同時に食満の腕を掴みあげた。その手には苦無が握られている。そこには頬を腫らし涙や鼻水やらで顔をぐちゃぐちゃにした富松の姿と、私という予想外の人物の登場に驚いたのか目を丸くさせている天女木佐木綴の姿があった。


「事情はどうあれ、これ以上騒ぎを大きくするな。先生方に知られたら厄介だ」
「初子…放しやがれ!」
「自力で解けないなら放さない。神崎、富松を医務室へ」
「はい!」
「ああこら待て!浦風、一緒についていってやれ!」
「は、はい!」


掴んだ食満の腕をそのまま背中へ回し拘束する。ぐ、と唸ったその声と、あまりにも容易くその行為をさせてくれた食満が、私の知っている食満じゃないような、食満が遠くに行ってしまったかのような、寂しさを、覚えた。
確かにこいつは喧嘩早く短気で武闘派だったけれど、少なくとも、少なくとも大切な後輩に手を出すような、そんな奴ではなかったのに。


「食満、なんで富松にこんな物騒なものを向けてたんだ?」
「…綴を殴ったと聞いたからだ。ほら、泣いてるだろ!?」
「木佐木か。確かに、涙の跡が見える」
「許せねえ…作兵衛はそんな奴じゃねえって信じてたのに、グッ!?」


思わず、食満を殴り飛ばしていた。私もどっちかて言うと頭脳派じゃなくて、本能の赴くままに行動するタイプというか、兎に角殴りたかったから、殴った。
当然、いきなり何すんだ!と食満も怒鳴ったけど威嚇にもならず、悲しくなんかなかったけど腑抜けになったもんだと軽蔑した。


「木佐木。事情を説明してくれる?」
「う、うん!あの…」
「うんじゃない」
「え?…あ、は、はい。最近作兵衛が疲れてるようだったから心配で声をかけたの…、です。でも疲れてるのは私のせいだって言われちゃって、だから私もついカッとなって酷いこと言っちゃって…」
「んで殴られた?」
「はい…」
「食満はどうしてここに?」
「しんべヱと喜三太が教えてくれた」


福富と山村か。辺りを見回すとなるほど、一年の姿もちらほらある。その中にちゃんと二人の姿もあって、顔を青くして涙目でこちらに何かを訴えていた。
うん、何となくわかるよ。恐らく木佐木綴と取っ組み合いになった富松を助けてほしいとか、喧嘩を止めてほしいとか頼みに行ったんだろう。二人からしたら食満は強くて優しくて、頼りになる先輩だろうから。でも違った。食満は喧嘩を止めるどころか、富松じゃなく木佐木に加担した。推測だけど、多分こんなところ。


「これは喧嘩でしょ?3年にもなったら自分で始末もできる」
「そういう問題じゃねーだろ」
「食満、あんたは富松を酷く傷つけたよ」
「あいつだって殴った」
「そうじゃない。…わからないなら、もういい」


どうしたものか。本当に別人みたいだ。もしかしたらこの天女さんは幻術使いか何かなのか?種も仕掛けもない、本物の幻術使い。だって有り得ない存在だものな。
食満の腕を放してやり、軽蔑したよと、そう言ってやった。驚く素振りを見せたけど無視をした。
留三郎は悪くないの。怒らないであげて。優しい天女は食満を庇う。ああ、なんかもう、やめてくれよ本当。


「お前たち、このことは他言無用だ。もうお戻り」
「は、はい!」
「木佐木は富松に謝ってこい」
「…はい」
「食満は…、富松が何で疲れてるのかをきちんと考えるんだ」
「どういう意味だ」
「言わなきゃわからない奴だったっけ?どうしても分からないなら、そうだな、大切な後輩にでも聞いてみなよ」


苛々する。食満も木佐木もすごいムカつく。まず木佐木に関しては礼儀がなってない。仮にも先輩だぞ。それに女すぎる。あれじゃ忍たまになった意味がない。男目当てで忍たまになったと言われても頷けるぞ。食満なんて、もう三発くらい殴ってやりたい。ああ、これは下級生が嫌う意味も分かるわ。苦労してたんだな、お前ら。


「ほら、みんな今日も委員会でしょ。さっさと行った行った」


まだちらほら残っている後輩たちを全員返しながら、もう答えに近いんじゃないかっていうくらい、食満にヒントを与えてやった。
これで気付かなかったらこいつもこれほどのもんなんだよ。いや、もしかしたら気付いているのに、それでも木佐木を優先したいとかだったら…。でも、まあ、それはそれで、こいつの価値が下がるだけだ。価値、なんて、例えではあるけれど。
私も部屋に戻ろう。あんまり動いちゃいけないのに少し本気で走ったからかな、腹がちょっと痛きくなってきた。三反田に怒られるよ。
良いことないなあ、なんて思いながら教室を後にする。これ以上傷に響かないように走ることはしなかった。


「…初子」
「……ん?」


そうしたら、食満が私を追っかけてきた。教室を出てから少し時間が開いたのは私を追いかけるかどうかで悩んでいたからか、もちろん私の知ったことではないけど。
名前を呼ばれて、振り向きもせず、だけど足を止めた。
これが私のよく知る食満だった場合は、私の名前を叫びながら突進でもしてきたに違いない。あれはあれでかなり迷惑でうざかったけど、いきなりのギャップに少なからず寂しさを覚えたのは事実。
変わった。でもきっと私も変わったんだろう。日常なんて脆いもんだ。


「俺、弱くなったか?」


かなり弱々しい声だった。すぐに頷いてやってもよかった。でも私は、首を横に振った。


「私が強くなっただけじゃない」


でも本当に私は、あの日常が、お前のことが、嫌いなわけではなかったよ。



(変化を実感)
別に後退したわけでも前進したわけでもない