奴隷の眼

「じゃ、これに負けたら、言うことなんでも聞いてもらうから。」

そう言ってナマエが掛け声と共に勇ましく拳を繰り出すと、依央利はまるで当然のように数秒遅れて、なよなよとハサミを目前に登場させた。
勝敗など一目瞭然である。草原に聳え立つ象に生身の人間身一つで挑むように馬鹿げている。
依央利は笑みが堪えきれていない。そうして、ナマエをじっと見つめている。
これは、忠犬の眼だ。主人の言い付けを今か今かと心待ちにしている眼だ。
この状況が意外にも好都合である事を忘れて、ナマエは頭を抱えそうになった、が、しかし寸でで持ち堪える。本来の目的を忘れてはいけない。
私に命令をしてほしい、と、ナマエは依央利にそう命令した。
すると数秒後、短い吐息が、ぽろりと依央利の口から零れ落ちる。
依央利はまるで死刑判決を受けた罪人のようなカオをして、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
命令を命令する等、本末転倒であるかもしれないが、そうしなければ彼はきっと覆らない。そう考えたナマエが編み出した結論である。
ハウス内の人間が負荷を背負うことは決して許さず、自ら国民の犬だと躍り出、滅私、貢献、奉仕をモットーに生きるこの男、本橋依央利にその申し出は非常に酷であろう。
しかし、先ほど知らずとも条件を呑み、それに加え自身でこの状況を生み出してしまったのも事実である。
瞳を爛々と輝かせ、はやくはやくと無邪気に子供のようにはしゃぐ姿を見て根負けしたのか、依央利は本当に意外にも、あっさりと観念した。



本橋依央利はどうしようもなく興奮していた。
ナマエの熱を孕んだような吐息が依央利の首筋を包み込む。
息が荒くなってしまわないようにと必死に辛抱しているのに、耳たぶや首に指先が掠めるだけで、飛び上がってしまう。
奉仕としてマッサージを行う側であった依央利は、こうしてされる側の感覚を味わった事が全くと言って良い程無かった。ので、こういう時どんな反応をして良いのか分からない。
唯々ナマエの愛撫を受け入れ、日々の疲労を解消する事が出来ればそれで良いのだが、この男にはそんな余裕は微塵も残っちゃいない。
所詮は疲労を回復させる為の唯のマッサージである筈なのに、身体的な快楽意外にも、何か他に、ナマエに邪な感情を抱いてしまっている自身への情けなさが募ってゆく。
だって、あの、労働のろの字も知らないような、ナマエのやわっこい掌に、まるで子供みたいな小さい掌に、肩を一生懸命揉みほぐされているなんて。そんな。そんな。

「どう?きもち、いい?」

依央利には、ナマエの声が天からの問い掛けに感じた。
何も言えずに唯頷く依央利の様子を見て、ナマエは鈴を転がすような声で笑う。
ぐわんぐわんと脳が揺れて、痺れる感覚が心地良い。辺りがゆらゆらと霞んでくる。
ナマエは予告も無く後ろからそおっと依央利を柔らかく包み込んだ。
同時に花のような香りが鼻腔を掠める。
まるで母親の腕に抱かれ微睡みを感じているようで、依央利は感極まって泣き出しそうになった。
ナマエの鼓動が丁度耳元で聞こえる。
とくん、とくん、と暖かみのある音に、依央利は耳を済ませる。
ナマエの安定している鼓動に対して、依央利の鼓動は速さを増していくばかりだ。
しかし、依然心地が良くて、このまま何もかも忘れ、ナマエの腕の中で息絶えてもいいと思った。
ナマエは依央利の首筋に頬を擦り寄せる。

「…国民じゃあなくて、私の犬だったら良いのに。」

………あっ。
ぽたり、ぽたり、と何かがナマエの手の甲に滴り落ちた。驚いて、ナマエは依央利から離れて自身の手を確認する。
はた、と息を呑んだ。

「や、やめちゃうのぉ…?」

ふと振り返った依央利は、泣いていた。
喉奥から絞り出したような声は、酷く濁っている。
おまけに、鼻からは鮮血が滴り落ちていた。
逆上せあがった様な顔立ちで、唯、懇願するようにナマエを見つめている。
その眼が、"国民の犬"である本橋依央利の眼であったかは、神のみぞ知る。


(本橋 依央利)