「私の元を離れる、ということか」
「申し訳ありません……」



 とっぷりと日の暮れた深夜の中庭。私は曹操様と対峙していた。

 腰にはずっと共に戦場を駆け抜けてきた双剣、少ない手荷物に深い麻色の外套。どう見たって旅支度なそれに身を包んだ私は、確かな決意を胸に曹操様に頭を下げていた。

 夏侯惇達には知られたくない。ややこしいことになるのは目に見えていたから。




 今日、私はこの慣れ親しんだ場所から逃げ出す。私自身のちっぽけな我儘の為に。

 それでも女だった私を将にまで取り立ててくれて、生きる場を与えてくれたこの人に何も言わず消えてしまうことがどうしても出来なかった。

 もう一度、頭を下げた。



「曹操様の御恩を忘れたわけではありません。でも……」
「一武将が、自分の決断したことに何度も頭を下げるものではない」
「曹操様?」
「お前がいなくなるのは、我が軍にとって中々の痛手だな」



 そう呟いた曹操様の口元は少しだけ笑っていて、全てを見透かされていることに今更ながら気付く。

 曹操様は頭の良い方だから、私がこんなことを言い出すなんて予想していたのかもしれない。ということは、私がこれから何処へ向かおうとしているのかも知っているんだろう。


 ここで馬鹿なことを、と一刀両断されればそれでも良いと思っていた。そこで途切れてしまう命なら、それでも良い。

 もう自分では選べなくなってしまったのだ。恩義に忠実に生きるか、心に素直に生きるか。

 こんなこと言ったら笑われてしまうかなぁ。くだらないね、とか。

 それでも、私は賈栩を追うことを決めたんだ。



「申し訳、」
「良い。賈栩を失ったのは私の責だ。それでお前を失うというなら、それも私の責なのだろう」
「……ありがとう、ございます」



 許された、のだろうか。
 曹操様はもう既に袂を返して私に背を向けていた。

 もう一度深く頭を下げ、私は背を向ける。石畳を靴が踏み締める、もうこの足の進む先には邪魔は何もない。


 不義理だとか、恥知らずだとか、後ろ指さされることなんて何も怖くない。

 また一緒に歩けるなら、何も辛くない。
 自然と早足になろうとした。

 その時



 夜の静寂の中にすらりと金属が擦れあう音が聞こえ、パッと顔を上げる。
 振り返ったそこに曹操様が抜いた剣先が、月明かりに照らされてきらりと光ったのが映った。

 あぁ、やっぱり許されないのか。
 当然か、私は今から敵軍に行こうとしているのだから。冷静に分析する頭が足を止める。

 自分で言うのも何だけれど、そこそこは強いと思う。敵の戦力になるのが分かり切っているなら、ここで始末を。そうなるだろう。



「……あ、」



 いつの間にか、私の手は震えていた。
 覚悟していたはずなのに、ここで潰えるならそれでも、と。

 しかし一度ちらつかせられた希望に向かって歩みを始めていた私は、突然目の前に現れた死に背筋を凍りつかせた。

 本気で曹操様を相手にして勝てる訳がない。



「よもや何事も無く出ていけると思ったわけではあるまい?」
「先程一瞬そう思いました……寛大過ぎる御配慮だと思いましたけど」
「ふっ……お前は双剣使い。最後に命を懸けて舞ってみるもよかろう」



 私は荷物を放り投げ、腰の双剣に手をかけた。




***




「長閑、だな」



 自分で淹れた茶に口を付けながら、窓の外に広がる緑と青の景色に何となく目を向ける。


 ここ江陵は許都での生活に比べると、随分と緩やかに時が流れている様な気がした。

 未だ信用されてないかどうかは置いておいて、仕事の量だって以前と比べるとまだ少ない。変な薬を作ったから飲んで飲まないと喧嘩をしながら廊下を駆け抜けていく声もしない。突然、策が気に入らないと怒鳴りこんで何時間も論議する男もいないし、菓子を作ったからと持ってくる者も……あ、いや。これはいるな。

 それから毎日遊びに来ては茶を淹れ、俺の代わりにたくさんの感情を見せて話す人も、いない。



「……、賈栩!」



 彼女はどうしているかな。相変わらず毎日夏侯惇や夏侯淵と鍛錬をして、嫌だ嫌だと言いながらも事務作業をして。たまに郭嘉と街に飾り物を買いに行って、張遼と菓子を作っているのだろうか。

 俺の元へ来ていた時間は、何をしているんだろう。
 毎日飽きもせずにやってきては他愛無いことを話して、無感動な俺の反応を見ては少しずつ感情というものを教えてくれた夏稜。

 こんな俺を、好きだと言った夏稜――。



「賈栩ってば!!」
「ん……?あぁ、すまない。ボーッとしてた」



 急に耳に飛び込んできた声に瞬きをする。
 いつやって来たのか、大音声で名を呼ぶ猫族のお嬢さんを振り返って悪びれもなく言えば、もう!と目を釣り上げて溜息を付かれた。



「とにかく来て!大変なの!」
「大変とは……何がかな」



 説明する間も惜しいと言わんばかりのお嬢さんだが、俺が茶を飲みながら呑気に返事するもんだから、矢継ぎ早に理由を話しだした。



「さっき城に外套の人が来て!血だらけで、かなり怪我してて、それが女の人で!」
「待ってくれ、全く要領を得ないんだが」
「それが夏稜だったの!」



 夏稜
 その名に、茶を持つ手が僅かに動いた。



「……そんな馬鹿な。ここはあの娘にしたら敵軍の本拠地だよ」
「だから今張飛や諸葛亮がモメてるのよ!賈栩も早く!」



 そりゃあ揉めるだろう。何たって夏稜は曹操軍きっての猛将だ。それが単身やってきたとなれば、訝しむ諸葛亮の方が正しい。




 お嬢さんに急かされ、広間へ向かう。
 お嬢さんは小走り、歩いて向かう俺に焦れったそうに何度も声をかけてくる。年甲斐もなく走って駆け付けるなんて気にはなれない。これはもう性分だ。

 どれくらい彼女と会っていなかっただろうか。俺が江陵城に派遣されて以来だから、軽く半年以上か。

 女だてらに猛将と恐れられ、しかし普段は本当に表情豊かな……俺の情人という関係に当たる女性。
 どうしてこの地にやってきたのか。突拍子もないことをする娘ではあったが。

 何だか今日は夏稜のことを考えてばかりだと思いながら回廊を進めば、踏み出す足が少しだけ速度が上がっていることに気付いて、お嬢さんに気付かれない様に自嘲した。



「だーかーら!怪我の手当てくらいしてやってもいいだろ?!」
「駄目だ。お前達もその女がどういう者かくらい分かっているだろう」
「敵といえど女人だぞ諸葛亮!」



 広間に近付くにつれ、回廊にまで響き渡ってくる数人の声。
 もうすぐそこというところまでやってくると、言い合いを聞いたお嬢さんが扉に駆け寄り、中へと先へ入っていった。俺も後を追う様に扉に手をかける。

 中では今し方飛び込んでいったお嬢さんが、諸葛亮に食って掛かっていた。



「手当てまだなの??酷い怪我なのに!」
「はぁ……どうあってもお前達は私を悪者扱いしたいようだな」
「あの、私は平気なんで……」



 床にへたり込んでいる女性が、苦笑いで彼らの言い合いを見ていた。

 腕にも足にも、そして脇腹辺りにも大きな怪我をしているようで、自分で手当したのだろう雑な巻き方をされた布には赤黒く血が染み込んでいる。愛刀である双剣は床に揃えられ、座り込んでいる彼女は大きく肩で呼吸している。見た目以上に辛いんだろう。

 そしていつも楽しそうに結っていた自慢の長い髪が、ざんばらに切られてボロボロになっていた。

 夏稜はふらりと立ち上がり、手を貸そうとするお嬢さんに断って諸葛亮に笑って見せた。



「諸葛亮、貴方の言う事も最もで……何なら、私の腕を切り落としてもいい。本当に戦う意思はないの」
「ほう、そこまでして何故ここにきた」
「……賈栩にね、会いたいの。一緒にいさせて欲し――」



 ぐらり、彼女の身体が傾く。
 趙雲が手を伸ばそうとしたが、俺は咄嗟に駆け寄り、彼女の身体を抱き留めた。

 倒れ込んだ夏稜は、俺と目が合うとその大きな瞳を見開いて、ふにゃりと満面の笑みを浮かべた。



「賈栩、賈栩だぁ……久しぶりだね」
「……この怪我は?」
「賈栩に会いたくて出てきたの。曹操様にそう言ったら殺されかけて」
「はぁ……そんなくだらないことで」
「くだらなくない、たくさん考えたよ」



 俺に会いたくて?それで今までずっと仕えていた主を裏切ってきた?

 彼女の理解できない言動は数あるが、これは極め付けだった。
 曹操様よりも、古くからの友である夏侯惇よりも、慣れ親しんだ場所よりも俺を選んだ、と。

 俺には到底理解できない。理解できないけれども、夏稜が今目の前にいることに、どうしてか安堵している自分もいる。


 もう自分で立つこともままならない彼女を抱き上げようとしてやると、こんな状況でも「服汚れるよ」なんて言って俺の肩を押す。かまわず抱き上げれば、いつかそうした時よりも軽く感じられた。

 ああ、何だかいろんな視線が痛いなぁ。
 これの説明をどうしたものか。



「なになに、お前らどういう関係なの??」
「えーっと。そうだねぇ……」



 張飛の言葉に、その後やってくるだろう追及が面倒くさくて言い淀む。
 俺がそんな事を考えているのがわかったのか、夏稜は腕の中でクスクスと笑ったかと思うと、突然俺の頬に口付けた。

 張飛とお嬢さんの顔が一瞬で真っ赤になった。



「「え、ええええぇぇえ?!」」
「賈栩は私の恋人。だから賈栩が貴方達の仲間になったって聞いて、飛び出してきたの」
「夏稜……」



 窘める様に名を呼べば、それすらも嬉しそうにぺろりと舌を出した。

 諸葛亮が呆れたようにため息を吐くのが見える。俺も許されるならため息をつきたい。



「その娘とは深い仲ということだな」
「あー。まぁ、そうだね、一応。この状況には俺も驚いているけれど」
「ならとりあえず手当てをしてやれ。話はそれから聞こう」



 おや、これは少し俺も信頼され始めているということだろうか。噂に聞く諸葛亮も、猫族と触れ合い随分と寛大になったものだ。



「お嬢さん、手当てを頼めるかい?」
「あ、う、うん!」



 こっち、と先を行くお嬢さんに着いていくと、夏稜が腕の中で口元に笑みを作って目を閉じていることに気付いた。
 それが嫌に静かで穏やかで、俺は一瞬目を細め、小さく彼女の名を呼ぶ。

 しかしそれも杞憂に終わり、弱々しいながらも「ん?」と返事が聞こえた。今の間はだいぶ気を張っていたのだろう、ぐったりと肩にもたれ掛かっていた。


 一人で曹操様を相手に大立ち回りしてきたわけだ。それこそ腕の一本でも無くなってきてもおかしくない。

 彼女を抱く腕に、今迄なら緩やかに流れていた筈の髪がそこには無い。随分と大切にしていた筈だったが、それすらも手放して。



「そんなに俺が好きかい?」
「どうしたの?変なの、気持ち悪い」
「随分だな」
「だってそんなこと聞いたの初めて」
「……確かに。そうだね」



 うっすらと瞼を持ち上げた夏稜は、手を伸ばして俺の頬に触れた。先程口付けをした様に、そこに触れる手は驚くほど優しい。

 懐かしい感触に、俺も目を細めた。



「好き、逢えて嬉しい」
「……そうか」



 こんなに想ってくれる人がいるというのは、幸せなことなのだろうか。

 それを返してやれない俺は、とんでもない欠陥人間で。

 それでも、そんな俺を好きだと言ってくれるんだから、やっぱり幸せなことなのかもしれない。



「だいす――」
「もういいよ」



 胸にある想いを臆面も無く出せる夏稜。それを少し羨ましく思いながら、言葉を紡ぐ唇を口付けで塞いだ。

 驚きにびくりと震える肩を強く抱きなおせば、次第に力が抜けていく。頬に触れていた手がゆっくりと下がり、俺の服を弱々しく掴んだ。



「まぁ、とりあえず怪我を治しなさい」
「う、うん」
「良くなったら、また茶を淹れてくれ」
「うん!」



 命懸けの逃走劇をやってのけた夏稜は、俺の元へと帰ってきた。こんな状態で、お世辞にも褒められたことではないけれど、悪い気はしなくて。

 案外自分で思うよりも彼女に惚れているのかもしれない。
 そんなことを考えていると知ったら、どんな顔をされるんだろうか。



「髪は?」
「勝負つかなくて、これで死んだってことにして!って投げつけてきた」
「無茶苦茶だな」
「ふふ、残念??綺麗だったでしょ、長いの」
「そうだな、綺麗だったよ」
「?!?!ど、どうしたの本当にっ!」
「言ってみただけだよ」



 それはまたの機会、だな。

 




[ prev ] [ book ] [ next ]
[ Rocca ]