薄紅と黄に埋もれ
「桜?」
「うん、そんなに遠くないし。凄く綺麗だからどうかな」
「……花なんてどこで見ても一緒だろう。もっと共感できる人間と行くべきだと思うね」
「息抜きに良いでしょ、最近賈栩ってば仕事詰め過ぎよ」
「あんたも物好きだな……。はいはい、分かったよ。何処へなりとご自由に」
「ありがとう!」
約束を取り付けた夏稜は、足取り軽く部屋を出て行った。
後ろ姿に結わえた長い髪が揺れる。それすらも彼女の気持ちを表すように弾んでいた。
最近の執務室への来訪者は専ら夏稜だ。
暇を見つけてはお茶をしにやってきて、他愛無い事を話して、そして帰っていく。
これ程世間話に向かない相手はいないんじゃないかと自分で思うが、彼女が楽しいと言うのだから言及はしていない。
俺も特に仕事の邪魔になるわけじゃないし、相手をするのが面倒な訳じゃないから好きにさせている。
夏稜は俺の機微をよく理解していると思う。仕事の邪魔になる前には帰っていくし、俺が面倒だと思う境界線を超えてこない。郭嘉などと比べると正反対。
ただ、何で俺なんかに構うのかは謎だ。
***
約束の日、偶然その日は騎馬兵の訓練になっていたらしく馬が借りられなかったということで、夏稜の愛馬に共乗りで目的地へと行くことになった。
夏稜は戦でも馬術に長けた将。
自分が手繰ると言われたが、女に乗せてもらうというのも何だから、自分の前に夏稜を乗せて、しばらく。
そこには一面黄色の絨毯……蒲公英畑と、満開に咲き誇った桜の木々が列を成す幻想的な景色が広がっていた。
春特有の生温い風が、見上げた桜の花びらを揺らして攫っていく。今日の天気も相まってか、何とも穏やかな景色だ。
馬を放し、大きな桜の幹に背を持たせて座り、息をつく。
そういえば外に出たのも、馬に乗ったのも久し振りだ。
「疲れた?」
「……、少しね」
「ほらほら、たまには外に出ないとダメでしょ」
こういう時は綺麗?、とか、そういう意見を求めるのが女だと思う。桜を見に来たのだから。
しかし夏稜はそう言わない。今も満足そうに舞う花弁を眺めていて、たまに話を振ってきて、また花を見る。
「ここが一番綺麗だと思うんだー。去年見つけたんだけどね」
「へぇ」
「綿毛の時も良いのよ。ふわふわしてて、青空に溶けていくのも綺麗で」
夏稜が綺麗だと言う。
だからこれは綺麗なものなのだと、俺は妙に納得した気分だった。
今まで何人もの女が、綺麗、という言葉を俺に押し付けてきた。当然共感してやることなんて出来なくて、するつもりもなくて、いつも流してばかりの偽物の感情。
全く同じ言葉のはずなのに、夏稜が言うと本当にそうなんじゃないかと思ってしまいそうになる。
「よっと」
夏稜が立ち上がり、目の前の蒲公英畑に歩み寄ると、黄色の花に埋もれてしゃがみ込む。花を摘んでいるようだ。
「不思議な女だな」
「ん?なにか言った?」
人間が何かをする時には、何か自分に有益な事情がある時だ。俺に構うことが、夏稜にとってどんな有利な事があるのか興味があった。
摘んだ蒲公英を編んでいる夏稜に近付き、膝を折る。上手でしょ、と言って笑う彼女の手元には、黄色の花で丁寧に編まれた輪があった。
「持って帰って夏侯惇の頭にでも乗せてみようかな」
悪い事を考えてほくそ笑む彼女は、俺とは正反対。楽しいことを楽しいと喜び、美しいものを美しいと感動し、辛いことを辛いと悲しむ。
大きな瞳に映る様々な色は、俺の灰色の世界に少しだけ雫を落としていく。
「あんたは不思議だ」
「?そう??」
さっき呟いた言葉を繰り替えす。
今度は聞き取れたのか夏稜が首を傾げた。
「あんたが綺麗と言うんだから、ここは本当に綺麗なんだろうな」
「?私はそう思うわ」
「俺には綺麗、というのは分からないが、あんたが言うなら俺もそう思おうか」
夏稜の頭についた桜の花びらを払い、手元の花冠を彼女の頭に乗せてやった。夏侯惇の頭にあるよりずっといいだろう。
夏稜は慌てて取ろうとするが、その手を掴んで制止する。赤い頬は春の陽気に当てられたからではないかもしれない。
普段着飾ることをしない夏稜は、所謂可愛らしいものを身に着けることが、とても恥ずかしいと以前言っていた。
「恥ずかしいよ、馬鹿みたいじゃん」
「そんなことないさ」
「適当なこと言って」
「……悪くないよ。この景色みたいに」
綺麗だ、とは言わなかった。
それは俺の言葉ではないから。
ただ悪くない、と、この景色を見て感じたものと似ていた。そしてこの景色を綺麗なんだと夏稜が教えてくれたから、そうすると今の夏稜も、綺麗なのだと。
そう理論的に考えてみたつもりだったが、俺の言葉を聞いた夏稜はみるみる顔を赤くして、切なそうに眉根を寄せた。
と思ったら、急に物凄い勢いで首元に抱き着かれた。見上げた空に白い花弁が舞う。
「っ」
膝を折ってしゃがんでいただけの俺は勢いのまま後ろに倒れ、当然一緒になって夏稜も俺の上に倒れ込む。
背中を打ち、なかなか痛かったなと息を吐き出せば、肩口に埋められた夏稜のか細い声が耳朶を打った。
「すき」
夏稜の言葉を、俺は一瞬理解できなかった。
「……は?」
「すき、」
すき――。
そう短い言葉を拙く繰り返す彼女の声は、聞いたことが無いほど弱々しくて、まるで舞い散る桜の花びらのように静かに俺に降り注ぐ。
好き。そう言っているんだろうか。
わからない、理解できない。
どうして俺なんかにそんなことを言うんだ。
「夏稜、」
「私ね、一緒に綺麗なものを綺麗って言えなくても良い。賈栩が私を好きじゃなくても」
「……」
「私、賈栩が好き……」
最後の方は消えそうに弱い声だった。
ぎゅうっと彼女の肩に力が入り、緊張しているのが感じられる。手持ち無沙汰の手を背に回してぽんぽんと叩いた。
「……とりあえず、退いてくれるか」
「今顔酷い……ごめん重くて」
「いや、重くはないんだけど」
あまりこの体制は良くないだろう、一応こんな俺でも男なのだから……しかしまあ夏稜にしてみれば、それどころじゃないのかもしれない。
人間が何かをする時には、何か自分に有益な事情がある時だ。
だから夏稜は俺に構うのだろうか。だから今日、この場所に誘ったのだろうか。
しかし夏稜は、いらないという。
一緒に何かを共感することも、好いた人に、好きだと言ってもらうことすらも。
なかなか難しい話だ。
「どうして俺なんだ?」
「……わかんない。気付いたらそうなってたから」
「曖昧なもんだな」
「ごめん、言うつもり無かった。困らせるだけだから。でも、でも、何かたまんなくなって」
好いた人と一緒になりたいと思うのは、人の常で。愛し、愛されたいと思うのも当然のこと、らしい。
しかし夏稜はこんな時ですら俺に、気持ちを押し付けてこなかった。現に彼女は聞かない、自分のことが好きかを。
きっと俺の答えを知っているから。
「夏稜、顔上げて」
「やだ……」
「俺が見たい。こっち向いてごらん」
「っ……」
少し狡いが、俺が何かを強要することは珍しく、夏稜は躊躇いながらもうずめた顔を上げて俺を見下ろした。
朱に染まった頬、濡れた様に潤んだ瞳、寄せられた眉根。
羞恥、後悔、期待、色んな感情がごちゃまぜになっているのだろうか、複雑な様子を表している表情は、それでも何処か悲しそうだった。
「……」
「……」
結わえた髪がさらりと俺の胸に流れ落ちる。ふわっと吹いた風に揺られ、前髪が瞳を隠してしまいそうになったから、少しだけ髪に指を差し入れた。また、切なそうに目を細める。
夏稜は求めないんじゃない。
案外俺を理解している彼女は、求めても仕方ないと諦めているのかもしれない。
それでも、割り切れない気持ちがあるというんだろうか。
「で、どうしてほしい?」
「どうって……」
「分かっていると思うが、俺は愛だ恋だというのはわからないよ。あんたの想いに応えられるかは正直わからない」
「……知ってる」
夏稜はやっぱり悲しそうに笑った。
こんな答えが返ってくるってわかっていたのだろう。恋人ごっこくらいならしてやれるが、そんなものは長く続かない。
昔にいつかは自分を好きになってくれると、そう信じて一緒にいた女がいたが、結局先に愛想を尽かしたのは女の方だった。
「何もいらない」
「なに?」
「今まで通り、お茶して話ししてってそれだけで充分。それ以上はいらない」
「それでいいのか。好かれたいと思わないのかい」
「そりゃ思わなくはないけど……今でも私は充分楽しいし、嬉しいかな」
ぽつり、それは彼女の本音?
確かに夏稜が今まで通りを望むなら、俺もそうすることはできる。しかし想いを告げて知ってしまった今、きっと夏稜はまたこの顔をする。
それはあまり気分が良いものじゃないなぁとぼんやり思った。
いつも夏稜といる時の穏やかな心地とは正反対の不快なそれ。そんな事思ったこともなかった俺は、どうも理解しにくいものが胸の内にあることにようやっと気付く。
これが、感情ってやつなら、なんて扱いづらい。
自分の心にあるくせに、その名前すらわからない。
「はぁ、面倒くさい」
「っごめ……っ」
「ああ、違う違う」
自分の事を言われたのかと思ったのだろう夏稜が身体を離そうとすると、ぽたり、と頬に雫が降ってきた。
俺は夏稜の腰を掴み、くるりと自分ごと反転させて黄色の絨毯の上に組み敷いた。
突然のことに驚く夏稜の目元に滲む涙を拭ってやれば、慌てて自分でもゴシゴシ目元を擦った。
「珍しいことに胸がザワついてね。それが面倒だと言っただけだ」
「ご、ごめん、困らせて」
「これが感情ってやつなら、夏稜は凄いよ」
「えっ」
俺は戸惑う夏稜に顔を近づけ、そっと唇を合わせた。何故かそうしたいと思って、脳が送る指令のままに。
一度触れると、胸の不快が少し軽くなった気がした。少しの間の後に僅かに離れると、驚き目を丸くする夏稜と視線が絡む。
ぞくりと首の後ろが痺れる様な錯覚に、もう一度引き寄せられる様に重ねた。
「ん、……か、く……っ?」
「あんたが綺麗と言えば、それが綺麗なんだと思える。だからあんたが俺を好きだというなら、それもいつか分かるかもしれないね」
「ど、どういうこと……?」
「あんたと一緒にいるのも悪くないか、と思ったんだよ」
「……え」
こんなこと、思ったこともなかった。
近寄ってくる女は今までもいたし、気紛れで傍に置いたこともある。でもそれはいつだって向こうから押し付けられることで、俺自身から望んだことじゃない。
だからこうして夏稜を傍に置いてもいいんじゃないか、と思った自分が、今でも少し信じられなかった。
好いているから?
それすらもよく分からないけど、あぁ、分からないのに夏稜を俺に縛るのは良くないことなのかもしれない。
それでも、どこかに行ってしまうのは少し嫌な気もする。
「夏稜、」
大きな目が零れ落ちてしまうんじゃないかという程に見開かれる瞳。彼女は俺の言った言葉をすぐには理解できていないのか硬直していた。
言葉が見つからずぱくぱくと動く口元に、また一つ、口付けを落として。
次に顔を上げれば、これでもかというくらいに頬を赤く染め、ぽろぽろと涙を流している様が目に飛び込んで。
「……何で泣く」
「だって、賈栩がそんなこと言ってくれるなんて……っ」
「自分でも少し驚いてはいるよ」
「……私、賈栩が許してくれるなら、一緒にいたい」
か細い声は、やっと彼女の本心を紡いだ。
はにかんだ様に笑い、おずおずと両手を俺の頬に伸ばし、戸惑った様に「触っていい?」なんて聞く。
随分いつもと違って淑やかだと思いながら構わない、と言えば、暖かい手が俺の頬を包んだ。
「さっきも言ったけど気持ちに応えられるかはわからないよ」
「分かってる。でもそうなってくれたら嬉しいなぁ……なって貰えるよう頑張る」
「あぁ、やっぱり好いてはほしいんだね」
「……うん、ごめん、嘘ついた」
少しバツが悪そうに苦笑する夏稜。
まあ、それはそうか。好いてほしいなんて当たり前すぎる感情、なんだろう。
でもだから夏稜は、なって貰えるよう頑張る、なんだろうな。
「賈栩……もう一回だけ、その……」
「一回で良いのかい?」
「っと、とりあえずいい」
「はいはい」
白い頬に睫毛の影が落ちる。
伝う涙の筋を親指で撫ぜ、そっと、出来るだけ優しく唇に触れた。
この娘を好きになることが出来れば、幸せというものもわかるのだろうか。
そう、思った。
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「うん、そんなに遠くないし。凄く綺麗だからどうかな」
「……花なんてどこで見ても一緒だろう。もっと共感できる人間と行くべきだと思うね」
「息抜きに良いでしょ、最近賈栩ってば仕事詰め過ぎよ」
「あんたも物好きだな……。はいはい、分かったよ。何処へなりとご自由に」
「ありがとう!」
約束を取り付けた夏稜は、足取り軽く部屋を出て行った。
後ろ姿に結わえた長い髪が揺れる。それすらも彼女の気持ちを表すように弾んでいた。
最近の執務室への来訪者は専ら夏稜だ。
暇を見つけてはお茶をしにやってきて、他愛無い事を話して、そして帰っていく。
これ程世間話に向かない相手はいないんじゃないかと自分で思うが、彼女が楽しいと言うのだから言及はしていない。
俺も特に仕事の邪魔になるわけじゃないし、相手をするのが面倒な訳じゃないから好きにさせている。
夏稜は俺の機微をよく理解していると思う。仕事の邪魔になる前には帰っていくし、俺が面倒だと思う境界線を超えてこない。郭嘉などと比べると正反対。
ただ、何で俺なんかに構うのかは謎だ。
***
約束の日、偶然その日は騎馬兵の訓練になっていたらしく馬が借りられなかったということで、夏稜の愛馬に共乗りで目的地へと行くことになった。
夏稜は戦でも馬術に長けた将。
自分が手繰ると言われたが、女に乗せてもらうというのも何だから、自分の前に夏稜を乗せて、しばらく。
そこには一面黄色の絨毯……蒲公英畑と、満開に咲き誇った桜の木々が列を成す幻想的な景色が広がっていた。
春特有の生温い風が、見上げた桜の花びらを揺らして攫っていく。今日の天気も相まってか、何とも穏やかな景色だ。
馬を放し、大きな桜の幹に背を持たせて座り、息をつく。
そういえば外に出たのも、馬に乗ったのも久し振りだ。
「疲れた?」
「……、少しね」
「ほらほら、たまには外に出ないとダメでしょ」
こういう時は綺麗?、とか、そういう意見を求めるのが女だと思う。桜を見に来たのだから。
しかし夏稜はそう言わない。今も満足そうに舞う花弁を眺めていて、たまに話を振ってきて、また花を見る。
「ここが一番綺麗だと思うんだー。去年見つけたんだけどね」
「へぇ」
「綿毛の時も良いのよ。ふわふわしてて、青空に溶けていくのも綺麗で」
夏稜が綺麗だと言う。
だからこれは綺麗なものなのだと、俺は妙に納得した気分だった。
今まで何人もの女が、綺麗、という言葉を俺に押し付けてきた。当然共感してやることなんて出来なくて、するつもりもなくて、いつも流してばかりの偽物の感情。
全く同じ言葉のはずなのに、夏稜が言うと本当にそうなんじゃないかと思ってしまいそうになる。
「よっと」
夏稜が立ち上がり、目の前の蒲公英畑に歩み寄ると、黄色の花に埋もれてしゃがみ込む。花を摘んでいるようだ。
「不思議な女だな」
「ん?なにか言った?」
人間が何かをする時には、何か自分に有益な事情がある時だ。俺に構うことが、夏稜にとってどんな有利な事があるのか興味があった。
摘んだ蒲公英を編んでいる夏稜に近付き、膝を折る。上手でしょ、と言って笑う彼女の手元には、黄色の花で丁寧に編まれた輪があった。
「持って帰って夏侯惇の頭にでも乗せてみようかな」
悪い事を考えてほくそ笑む彼女は、俺とは正反対。楽しいことを楽しいと喜び、美しいものを美しいと感動し、辛いことを辛いと悲しむ。
大きな瞳に映る様々な色は、俺の灰色の世界に少しだけ雫を落としていく。
「あんたは不思議だ」
「?そう??」
さっき呟いた言葉を繰り替えす。
今度は聞き取れたのか夏稜が首を傾げた。
「あんたが綺麗と言うんだから、ここは本当に綺麗なんだろうな」
「?私はそう思うわ」
「俺には綺麗、というのは分からないが、あんたが言うなら俺もそう思おうか」
夏稜の頭についた桜の花びらを払い、手元の花冠を彼女の頭に乗せてやった。夏侯惇の頭にあるよりずっといいだろう。
夏稜は慌てて取ろうとするが、その手を掴んで制止する。赤い頬は春の陽気に当てられたからではないかもしれない。
普段着飾ることをしない夏稜は、所謂可愛らしいものを身に着けることが、とても恥ずかしいと以前言っていた。
「恥ずかしいよ、馬鹿みたいじゃん」
「そんなことないさ」
「適当なこと言って」
「……悪くないよ。この景色みたいに」
綺麗だ、とは言わなかった。
それは俺の言葉ではないから。
ただ悪くない、と、この景色を見て感じたものと似ていた。そしてこの景色を綺麗なんだと夏稜が教えてくれたから、そうすると今の夏稜も、綺麗なのだと。
そう理論的に考えてみたつもりだったが、俺の言葉を聞いた夏稜はみるみる顔を赤くして、切なそうに眉根を寄せた。
と思ったら、急に物凄い勢いで首元に抱き着かれた。見上げた空に白い花弁が舞う。
「っ」
膝を折ってしゃがんでいただけの俺は勢いのまま後ろに倒れ、当然一緒になって夏稜も俺の上に倒れ込む。
背中を打ち、なかなか痛かったなと息を吐き出せば、肩口に埋められた夏稜のか細い声が耳朶を打った。
「すき」
夏稜の言葉を、俺は一瞬理解できなかった。
「……は?」
「すき、」
すき――。
そう短い言葉を拙く繰り返す彼女の声は、聞いたことが無いほど弱々しくて、まるで舞い散る桜の花びらのように静かに俺に降り注ぐ。
好き。そう言っているんだろうか。
わからない、理解できない。
どうして俺なんかにそんなことを言うんだ。
「夏稜、」
「私ね、一緒に綺麗なものを綺麗って言えなくても良い。賈栩が私を好きじゃなくても」
「……」
「私、賈栩が好き……」
最後の方は消えそうに弱い声だった。
ぎゅうっと彼女の肩に力が入り、緊張しているのが感じられる。手持ち無沙汰の手を背に回してぽんぽんと叩いた。
「……とりあえず、退いてくれるか」
「今顔酷い……ごめん重くて」
「いや、重くはないんだけど」
あまりこの体制は良くないだろう、一応こんな俺でも男なのだから……しかしまあ夏稜にしてみれば、それどころじゃないのかもしれない。
人間が何かをする時には、何か自分に有益な事情がある時だ。
だから夏稜は俺に構うのだろうか。だから今日、この場所に誘ったのだろうか。
しかし夏稜は、いらないという。
一緒に何かを共感することも、好いた人に、好きだと言ってもらうことすらも。
なかなか難しい話だ。
「どうして俺なんだ?」
「……わかんない。気付いたらそうなってたから」
「曖昧なもんだな」
「ごめん、言うつもり無かった。困らせるだけだから。でも、でも、何かたまんなくなって」
好いた人と一緒になりたいと思うのは、人の常で。愛し、愛されたいと思うのも当然のこと、らしい。
しかし夏稜はこんな時ですら俺に、気持ちを押し付けてこなかった。現に彼女は聞かない、自分のことが好きかを。
きっと俺の答えを知っているから。
「夏稜、顔上げて」
「やだ……」
「俺が見たい。こっち向いてごらん」
「っ……」
少し狡いが、俺が何かを強要することは珍しく、夏稜は躊躇いながらもうずめた顔を上げて俺を見下ろした。
朱に染まった頬、濡れた様に潤んだ瞳、寄せられた眉根。
羞恥、後悔、期待、色んな感情がごちゃまぜになっているのだろうか、複雑な様子を表している表情は、それでも何処か悲しそうだった。
「……」
「……」
結わえた髪がさらりと俺の胸に流れ落ちる。ふわっと吹いた風に揺られ、前髪が瞳を隠してしまいそうになったから、少しだけ髪に指を差し入れた。また、切なそうに目を細める。
夏稜は求めないんじゃない。
案外俺を理解している彼女は、求めても仕方ないと諦めているのかもしれない。
それでも、割り切れない気持ちがあるというんだろうか。
「で、どうしてほしい?」
「どうって……」
「分かっていると思うが、俺は愛だ恋だというのはわからないよ。あんたの想いに応えられるかは正直わからない」
「……知ってる」
夏稜はやっぱり悲しそうに笑った。
こんな答えが返ってくるってわかっていたのだろう。恋人ごっこくらいならしてやれるが、そんなものは長く続かない。
昔にいつかは自分を好きになってくれると、そう信じて一緒にいた女がいたが、結局先に愛想を尽かしたのは女の方だった。
「何もいらない」
「なに?」
「今まで通り、お茶して話ししてってそれだけで充分。それ以上はいらない」
「それでいいのか。好かれたいと思わないのかい」
「そりゃ思わなくはないけど……今でも私は充分楽しいし、嬉しいかな」
ぽつり、それは彼女の本音?
確かに夏稜が今まで通りを望むなら、俺もそうすることはできる。しかし想いを告げて知ってしまった今、きっと夏稜はまたこの顔をする。
それはあまり気分が良いものじゃないなぁとぼんやり思った。
いつも夏稜といる時の穏やかな心地とは正反対の不快なそれ。そんな事思ったこともなかった俺は、どうも理解しにくいものが胸の内にあることにようやっと気付く。
これが、感情ってやつなら、なんて扱いづらい。
自分の心にあるくせに、その名前すらわからない。
「はぁ、面倒くさい」
「っごめ……っ」
「ああ、違う違う」
自分の事を言われたのかと思ったのだろう夏稜が身体を離そうとすると、ぽたり、と頬に雫が降ってきた。
俺は夏稜の腰を掴み、くるりと自分ごと反転させて黄色の絨毯の上に組み敷いた。
突然のことに驚く夏稜の目元に滲む涙を拭ってやれば、慌てて自分でもゴシゴシ目元を擦った。
「珍しいことに胸がザワついてね。それが面倒だと言っただけだ」
「ご、ごめん、困らせて」
「これが感情ってやつなら、夏稜は凄いよ」
「えっ」
俺は戸惑う夏稜に顔を近づけ、そっと唇を合わせた。何故かそうしたいと思って、脳が送る指令のままに。
一度触れると、胸の不快が少し軽くなった気がした。少しの間の後に僅かに離れると、驚き目を丸くする夏稜と視線が絡む。
ぞくりと首の後ろが痺れる様な錯覚に、もう一度引き寄せられる様に重ねた。
「ん、……か、く……っ?」
「あんたが綺麗と言えば、それが綺麗なんだと思える。だからあんたが俺を好きだというなら、それもいつか分かるかもしれないね」
「ど、どういうこと……?」
「あんたと一緒にいるのも悪くないか、と思ったんだよ」
「……え」
こんなこと、思ったこともなかった。
近寄ってくる女は今までもいたし、気紛れで傍に置いたこともある。でもそれはいつだって向こうから押し付けられることで、俺自身から望んだことじゃない。
だからこうして夏稜を傍に置いてもいいんじゃないか、と思った自分が、今でも少し信じられなかった。
好いているから?
それすらもよく分からないけど、あぁ、分からないのに夏稜を俺に縛るのは良くないことなのかもしれない。
それでも、どこかに行ってしまうのは少し嫌な気もする。
「夏稜、」
大きな目が零れ落ちてしまうんじゃないかという程に見開かれる瞳。彼女は俺の言った言葉をすぐには理解できていないのか硬直していた。
言葉が見つからずぱくぱくと動く口元に、また一つ、口付けを落として。
次に顔を上げれば、これでもかというくらいに頬を赤く染め、ぽろぽろと涙を流している様が目に飛び込んで。
「……何で泣く」
「だって、賈栩がそんなこと言ってくれるなんて……っ」
「自分でも少し驚いてはいるよ」
「……私、賈栩が許してくれるなら、一緒にいたい」
か細い声は、やっと彼女の本心を紡いだ。
はにかんだ様に笑い、おずおずと両手を俺の頬に伸ばし、戸惑った様に「触っていい?」なんて聞く。
随分いつもと違って淑やかだと思いながら構わない、と言えば、暖かい手が俺の頬を包んだ。
「さっきも言ったけど気持ちに応えられるかはわからないよ」
「分かってる。でもそうなってくれたら嬉しいなぁ……なって貰えるよう頑張る」
「あぁ、やっぱり好いてはほしいんだね」
「……うん、ごめん、嘘ついた」
少しバツが悪そうに苦笑する夏稜。
まあ、それはそうか。好いてほしいなんて当たり前すぎる感情、なんだろう。
でもだから夏稜は、なって貰えるよう頑張る、なんだろうな。
「賈栩……もう一回だけ、その……」
「一回で良いのかい?」
「っと、とりあえずいい」
「はいはい」
白い頬に睫毛の影が落ちる。
伝う涙の筋を親指で撫ぜ、そっと、出来るだけ優しく唇に触れた。
この娘を好きになることが出来れば、幸せというものもわかるのだろうか。
そう、思った。
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