「夏稜さんが曹操様を狙った?!そんなことあるわけないじゃないですか!」
「俺だって信じらんないよ……でも兄者や他の兵士もたくさん見てる中だったから確かだって……」
「…………」



 夏稜が曹操に刃を向けた。
 それは白昼堂々行われ、多くの兵士や武官が目撃していたという。夏稜はその場にいた夏侯惇に取り押さえられ、曹操も軽傷だが腕に傷を負った。

 それは瞬く間に、その場にいなかった郭嘉と賈栩の耳にも入ってきた。
 夏侯淵は気落ちして、いつもの覇気のある声は鳴りを潜めている。
 郭嘉はふつふつとした苛立ちを隠すことなく、座っていた椅子を蹴飛ばして立ち上がった。



「曹操様に確認してくる。そんなことあるわけないんだから」
「お、おい、今は止めとけって、すっごいピリピリしてて……」
「煩いなぁ!夏侯淵さんはそうやってウジウジしてれば?!賈栩さん、行きますよ!」
「いや、俺はいいよ」
「はぁ?!」



 郭嘉の怒りは既に爆発寸前で、それにさらに油を注いだのは、相変わらず腕を組んだまま座っている賈栩だった。

 この事態を一番信じられないのは賈栩じゃないのか。夏稜がどうなるか、夏稜に何があったのかを一番案じるのは賈栩じゃないのか。

 郭嘉は賈栩の前の机を、バンッと大きな音を立てて叩いた。



「何でそんな余裕なんですか?あれですか、夏稜さんに何があったか知ってるからそんな風なんですか?じゃあ説明してくださいよ!」
「……俺は何も知らないよ」
「気にならないんですか!このままじゃ夏稜さん……っ」
「曹操様に刃を向けたとなれば……死罪だろうね」
「っ!」



 郭嘉はその言葉を聞くなり、思い切り賈栩の胸倉を掴んで拳を振り上げた。慌てた夏侯淵が郭嘉を後ろから羽交い絞めにして止めるが、郭嘉は怒りで震えた手を下ろすことができなかった。



「どうしてそんな風に言えるんだよ!夏稜さんは……っ夏稜さんはあんたの恋人でしょ?!大事じゃないわけ?!下手すると殺されるんだよ?!」
「郭嘉ちょっと落ち着けよ!!」
「…………俺と夏稜の間柄は、今関係ないだろう」
「関係ないわけない!どうして……、どうしてそんな平然としていられるんですか……やっぱり夏稜さんのこと、何とも思ってないんじゃないですか……」
「…………」



 次第に脱力する郭嘉の手は賈栩の服から離れ、すとんと身体の横に落ちていく。賈栩は掴まれた服を軽く整え、無表情で立ち上がった。



「夏侯淵、郭嘉を見てやってくれるか」
「あ、あぁ……お前はどうすんだよ」
「特に、何も」
「それでいいのかよ」
「はぁ……あんたまでそんな事を言うのか」



 酷く冷たい声に、夏侯淵はぞくりと背中が冷えたのを感じた。
 それ以上は何も言えず、賈栩が部屋から出て行くのを見ているしかなかった。





***





 かび臭い地下牢への階段は、昼間だというのに薄暗い。
 明り取りの窓から真っすぐに差し込む陽の光だけでは足元は見えず、ぽっかりと口の空いた闇に落ちていく様な心地だ。

 すすんでこんな場所に来ることなど殆どないが、賈栩はゆっくりとその段を降りていった。
 辿り着いた底には少し錆びた鉄格子で囲われた牢が二つ。更にその奥に、より頑丈にされた牢がある。賈栩は迷うことなく足を進め、先程牢番から預かった鍵を取り出した。

 かちゃん。
 あっけなく錠は外れ、キィィという耳障りな音を鳴らして扉が開く。
 中は狭く、視界はほぼ黒で塗りつぶされる。蝋燭に明かりを灯せば、ぼんやりと浮かび上がったのは簡素な寝台に寝かされた夏稜だった。



「……」



 まるで死んだ様に眠っている夏稜。
 賈栩は彼女が横たわるそこに腰を掛け、その白すぎる頬に手を添える。
 異常とも言える程に呼気が薄かった。

 夏侯惇に聞けば、捕らえた時からそうだったという。
 曹操に刃を向けた時、目は虚ろで普段の彼女のそれでは全く無かったと。
 特に抵抗を見せることなく、まるで操り人形の糸が切れた様に気を失ったらしい。



「……夏稜」



 昨日から少し夏稜の様子は可笑しかった。
 常に首の後ろを気にしていて、事あるごとにズキンズキンと傷むのだと言っていた。
 薬師に見てもらったけれど特におかしな事は無かったようで、念の為に貰ったという軟膏を塗ってくれと夜に持ってきて。
 ここ、という場所には確かに何の痣も怪我もなく、軽く指で触れれば肩を跳ねさせたもんだから「感度は悪くないよ」なんて言えば怒られた。



「……」



 今朝だって酷く眠そうで、軍議に出たくないと布団の中でぐずっていた。
 だからちょっと餌でも吊るしてみようかと思って、夕食は街に食べに出ようかと言えば目を輝かせて。
 気怠い身体を起こして、いつもの様に軽い口付けをして、笑って出ていったはずなのに。
 その軍議で、事件は起こった。



「何があったか、教えてほしいよ」



 夏稜から返事はない。
 いつもの様に寝惚けた声で名前を呼ばれもしない、手を握っても指を絡めてくることもしない。
 死んでいるかのように静かな彼女。そして彼女らしからぬ奇行。
 本当に、いつもの彼女は死んでしまったのか。

 原因が昨日の体調不良に起因しているのだろうか。
 もしかしたら幻術の類をかけられていたのかもしれない。そんなものがまだこの世に残っていれば。
 あとは郭嘉の専門分野だが、何か身体を操られるようなものを仕込まれたか。
 
 しかしそれは全て憶測の範囲を出ない。そんな妄想で自分は物事を言う立場にはない。

 そこにどんな理由があれ、自分の主に刃を向けたからには、それ相応の罰がある。
 それを否定することは酷く愚かなことで、そんなものを許していれば軍としての秩序を失うからだ。
 それが自分と関係のあるものだとして、例外であってはいけない。

 自分としても僅かな危険因子があるのなら、処罰は当然だと思っている。
 その考えは夏稜に当てはめてもそうだ。これがもし夏侯惇や郭嘉であっても、同じ。

 それが当然だと思っているし、今までその判断に疑問を持つこともなかったのに。


 なのに、俺は。













「絶対何かあったんだ……、僕が突き止めてやる」



 郭嘉は大股で廊下を歩きながらその表情は険しく、吊り上がった目が怒りで揺れていた。
 横を通り過ぎていく女官が怯えようが何だろうが関係なく、歩みは真っすぐ牢へと向かう。

 明らかに可笑しい夏稜の行動と、あの後夏侯惇に詰め寄って状況を聞いて、不躾だとは思うが曹操にも話を聞いた。
 どう考えたって可笑しすぎる。きっと夏稜に何かあったんだと、確信めいたものがあった。



「賈栩さんなんてあっさり……夏稜さんはあんなに、賈栩さんのことが好きなのに」



 郭嘉の怒りの大元はそこにあった。
 夏稜が殺されるだろうことに表情一つ変えず、それも仕方なしみたいな言い方。
 元々二人の関係に疑問はあったが、夏稜が幸せならそれで良いと思っていたし、賈栩もまんざらでは無さそうだった。
 それなのにあっさりと賈栩は夏稜を切り捨てるのだ。腹が立って仕方なかった。

 思い出すだけでも頭が沸騰しそうになる。
 地下牢への扉までやってきた郭嘉は、何故か雑談している牢番二人を見つけると八つ当たり気味に声を荒げて怒鳴った。



「ねぇ!なんで牢番がサボってんのさ、死にたいの?」
「か、郭嘉さま?!いえ、サボってるわけでは……」
「牢番が牢の前にいなくて、何がサボってないわけ?役立たずの愚図が」
「あの……賈栩様が」
「は?」



 聞けば先程賈栩がやってきて、席を外すように頼まれたとのことだった。
 なにそれ、今更どんな顔して夏稜さんに会いにきてんの?
 またふつふつと怒りが込み上げた。



「あ、そ。じゃあ僕が賈栩さんに言ってきてあげる」
「し、しかし郭嘉様、」
「うるさいなぁ」



 牢番の制止を聞かず、地下牢への階段を進む。
 今度は本当に殴ってやろうかとまで考えて早足で進めば、一番奥の牢は扉が開いていた。

 そこが直観的に夏稜を閉じ込めている檻だと感じ、大股で近寄る。



「賈栩さ、」
「……夏稜」



 声を出そうとして、郭嘉は息を飲んだ。
 聞こえた声が、誰の声かと思う程、切なくて。



「……」



 賈栩は気付いていないのだろうか?
 郭嘉は今更ながら足音を忍ばせて、蝋燭の明かりが漏れる牢を柱の影に身を隠して窺う。



「何があったか、教えてほしいよ」



 夏稜の横に腰を下ろした賈栩は、彼女の頬に寄せた手を下げ、細い手を握る。
 この距離で見ると夏稜は息をしているようにはとても見えず、まるで死んでいるようだった。
 それは賈栩も感じたのか、彼女の口元に耳を寄せる。少しして顔を上げた賈栩の表情は珍しく安堵を浮かべていて、肩の動きから僅かに息を吐いたのがわかった。



「あんたのせいで、考えがめちゃくちゃだ」



 賈栩が夏稜の頬を両手で包み、静かに互いの額を合わせる。
 それはまるで大切なものを壊さない様にゆっくりで、愛しいものを慈しむ様に優しい動き。



「……どうしろっていうんだ」



 聞いたことのないような、賈栩の声が地下牢に響く。
 いつも無表情で感情という感情を表に出さないし、何かあればすぐにはぐらかすし、何を考えているか分からない賈栩が見せる人間臭い姿。

 きっと、夏稜だけに見せている姿。
 ちゃんと、愛しているんだと。郭嘉は視線を落として思った。



「……、誰かいるのかい」



 ぱっと顔を上げると、賈栩が身体を起こしこちらを見ていた。
 足元を見ればどうも靴が小石を蹴ったようで、郭嘉はしまったと思いつつも柱の影から姿を現す。

 賈栩は驚いている様子はあまりないが、僅かに目を細め郭嘉を睨んだ。



「ごめんなさい、覗くつもりはなかったんですけど」
「……」
「そっち行っても構いませんか?」
「ああ」



 牢の低い扉をくぐって、寝心地の悪そうな寝台に近寄る。
 賈栩はその場所から退こうとはせず、郭嘉はその様子に少し驚きながらも隣に寄り、夏稜の寝顔を覗き込んだ。

 顔色がよくない。血色が良い彼女とは思えないほど白い顔。
 通常の様子とは違う夏稜の頬に触れようとして、さすがに賈栩の前では良くないかと手を引っ込めた。



「おかしいですよ、今回のことは。きっと裏があるはずです」
「……そうかもしれないね」
「賈栩さん、本当に何も知らないんですか?」
「…………」
「もう、賈栩さん!」



 声を少し荒立たせれば、賈栩は夏稜の様子が可笑しかったことを話してくれた。
 それを聞けば彼女に何かしらの影響があったことは確実で、郭嘉は夏稜の首筋に指を差し込ませる。確かに何も異常は無いように感じるが、指の腹に違和感を感じた。



「曹操様に事情を話しましょう、きっと調べれば原因もわかります」
「しかしな、」
「次変なこと言ったらほんとに怒りますよ。賈栩さんが助けてあげなくてどうするんですか」
「……」
「夏稜さんのこと、好きなんでしょ」



 好きって言ってもらったことはないんだ。
 きっと私が思っている様な気持ちは、賈栩には無いんだと思う。
 あ、変な意味じゃないよ。賈栩は優しいもん。
 でもいつかね、好きって言ってもらえたら嬉しいなぁ。

 いつかそんなことを笑いながら惚気てくれた夏稜。


 確かに賈栩は夏稜に対して"特別"だった。
 それは郭嘉の視点からなのだが、随分甘やかしているなぁという印象があった。

 愛し方がわからない賈栩の、愛情表現の一つなんだろうなぁと思ったのは夏稜がずっと笑顔だからだ。

 でも夏稜はきっと知らない。
 こんな風に彼女を心配している賈栩を、知らない。



「好き、ねぇ」



 賈栩がぽつりと呟くと、夏稜の手を握る。
 人前で彼女に触れているところは見たことが無い。今日はどうしたんだろうか。それだけ、賈栩もこの状況に動揺しているのかもしれない。



「……そうだと良いんだけどね」
「もう、焦れったいなぁ」



 賈栩は「悪いね」と苦笑すると、夏稜の前髪に指を差し入れ側頭部を包む様に撫ぜると、長い髪を指に絡ませてそっと引き寄せた。それを唇に寄せると、何かを考える様に瞳を閉じる。

 次に目を開いた時は、戦にのぞむ時の様に鋭い瞳をしていた。



「曹操様の所へ行こうか」
「勿論、そうこなくちゃ」



 その言葉に深く頷くと、郭嘉は眠る夏稜を一瞥して背を向けた。

 賈栩に向けていた怒りは気付けばなくなっていた。ああ、今の賈栩の顔を夏稜にも見せてやりたいなぁなんて。もしこれが全て片が付いたら、こっそりと話してやろう。悪戯心が郭嘉に湧き上がる。

 そう、だから全て片をつけなきゃ。綺麗に。



「……あんたを失わずにすむよう、頑張るよ」



 後ろ背に聞こえた声と僅かな物音は、聞こえないふりをした。

 




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