蘇生する夜

 冬の空は早い時間から色づきはじめ、直ぐに濃紺が覆って夜が来る。永い夜が星々と月、淡く光る雲を抱えてゆっくりと西へ移動する頃、私達は古い畳の上でひっそりと身体を重ねていた。
 肌を打つ鈍い音とお互いの荒く短い呼吸が、暗澹に溶ける。片手で膝の裏を、もう片方で腰を捕まえ一心に泥濘に穿たれた熱は激しく抽送を繰り返しながら、その奥へ奥へと入り込もうとしていた。
 薄い月明かりを背にした夢野の顔は逆光でよく見えなかったが、翠玉の瞳だけは爛々と、彼の普段の容姿からは想像もできないほどの獰猛さを滲ませ、与えられた快感も相まって身体の底が戦慄いた。

「ふぅ、あ、イく…ッ」

 激しさを増す律動と苦しげな声が彼の絶頂が近い事を知らせる。自身の悦も頂点に達し、爪先に力が入る。
 小さな呻きと共に熱が抜けたかと思うと、扱く手の動きに合わせてぱたぱたと滴が零れ落ち呼吸に合わせて僅かに上下する腹を汚していった。

「う、わあ」
「何ですかその間の抜けた声は。事後の余韻も色気もあったもんじゃないですね」
「いや、まさか本当に生でやると思ってなくて」
「貴女が強請ったんでしょうに。小生は一応止めましたよ。一応」
「ゴム無くなると思ってなかったんですもん」

 気怠げに差し出されたティッシュの箱を受け取り、精液が流れ落ちない様注意しながら拭い取る。塵紙をゴミ箱に投げ入れて、汗はそのままに夜着を羽織って横たわる夢野の脇に同じように寝そべり、枕元から煙草の箱を取り出して火をつけた。

「おい、この家は全面禁煙です。何度言ったら理解できるんですか。鳥か」
「しらね〜」
「臭い…」


 夢野幻太郎と私は恋人関係にあるわけではない。性交込みの友人所謂セフレであり、私は綺麗な顔の男、彼は近所にいる手軽で口の固い女、お互いに都合がいい異性である為関係が続いているのだ。
 連絡が来て彼の家に向かうこともあれば、私が突然彼の家に行く事もある。特に次の約束もなく解散して、気の向くままに身体を重ねる不健全な仲にある。
 最後に会ったのは1ヶ月前。生まれて初めて避妊せずセックスをした日。彼の子供が出来てもいいと思ったからではなくて、避妊具が無くなってしまって止む負えず、というか私が欲に負けて致したというどうしようもなく無責任な理由だ。

 そろそろ会いに行こうかな等と考えていた矢先、昼休み中昼食の片手間に見ていた端末に来た一件の通知で私の呑気な思考は一転する事となる。
 生理が来ていないのだ。
 慌てて管理アプリを起動してカレンダーを確認すると、生理予定日は先月の29日で現在は9日。排卵予定日は先月の13日。その2日前、私は夢野に会っている。

「やば…」

 目の前が真っ暗になった。妊娠の漢字2文字が頭の中を駆け巡る。確かに基礎体温は高かったけど、生理前はいつもこうであるから何とも思っていなかった。生理が遅れるのはこれが初めてではなかったけれど、今回は確実な心当たりがあるだけにいつもの様に楽観して考えることができない。
 気を揉みながらもなんとか仕事を終え、帰宅してからネットで調べてみても、生理前と妊娠超初期の症状は似ている為判断ができないやら、妊娠超初期は高温期が続くやら、不安にさせる事しか記載が無くて、胃が痛くなった。
 その日からは食事も喉を通らず、胃痛でろくに眠れないし、嘔吐までする散々な日々を送っていた。
 出来ていたとして、堕ろさなくてはいけないだろう。彼は子供なんて要らない筈だ。ましてや、恋人同士ならまだしも遊びの女との子供なんて欲しい男はいない。
 私だってやっと生活が軌道に乗りはじめたばかりなのに、一人で子育てなんて絶対に無理だ。
 妊娠経験のある友人に相談してみても気は晴れず、「相手の男に逃げられない様にね。」なんてアドバイスまで貰って不安を煽られた。
 私一人で考えていても埒が明かない。
 気が付けば、私は寝巻きのまま玄関を飛び出していた。
 
 時刻は22:34。人の家を訪ねるには遅すぎる時間だ。呼び鈴を鳴らして寒さに身を縮めながら戸の前で待機していると、玄関先の電気がついて戸の内側から「どなたでしょう?」と籠った夢野の声が聞こえた。

「私、名前です」

 声を掛けると、内鍵を開ける音がして間を置かずに玄関が開いた。
 薄着で立ち尽くす私に、夢野は何か言いかけたが結局何も言わずに家の中へと招き入れる。
 いつもの寝室の隣、彼の書斎に通され、彼の座椅子に向かい合う様に敷かれた座布団に腰を下ろす。
 彼は何も言わなかったから、私はとうとう打ち明けてしまった。

「生理が来ない…?」
「はい…」
「避妊薬は?」
「飲んでません」
「検査薬は?」
「怖くて使ってません」
「馬鹿ですか」

 夢野は大きく溜息をついて立ち上がり部屋を出ていった。玄関の戸を引く音がしたから外に出たのだろう。15分程度して帰ってきた彼の手には紙袋があって、紙が擦れる乾いた音を立てながら私の目の前に突き出される。

「検査薬。明日の朝一番に使いなさい」
「は、い」

 これを使ってしまえば白黒はっきりするのだ。決意が固まらなかったのは、もし線が出てしまったら腹の中に命がある事が確定してしまうから。母親になる資格も覚悟もない女の中に子が居るという現実を突きつけられてしまうからだ。
 震える手で紙袋を受け取った私をみて、夢野は思いがけない言葉を吐いた。

「怖いのなら小生も立ち会います。一人で居るのが不安なら泊まっていけば良いでしょう」
「…え、」
「え、じゃない。その顔色、眠れていないんでしょう。小生が逃げるとでも思ったんですか?そこまで無責任な人間じゃありません」
「はあ…」
「先程から気の無い返事ばかりですが…まあ良いでしょう。もう寝ますよ」

 夢野が性行為以外で優しかった事が一度でもあっただろうか。少なくとも私には覚えがない。淡々とした男だと思っていたから、もっと非情な言葉をかけられると覚悟してきたのに、当の本人は寝室に入って布団に横になり、上掛けを捲り上げて「早く来なさい。寒いんですから。」と私を迎え入れようとしている。
 慌てて襖を閉じて布団に潜り込めば、温かな腕の中に閉じ込められた。

「こんなに冷えて…どうして上着を着てこなかったんですか」
「何も考えられなかったんです」
「…子供が出来ていたとして、貴女はどうしたいんですか。産むにしても堕ろすにしても貴方の身体には負担が掛かります」
「貴方は?」
「小生は…そうですね。貴女を養う位の稼ぎはあるつもりですから、子供が出来ていても居なくても責任は取るつもりですよ」
「…ん?」
「貴女を娶りたいって言ってるんです」
「う、」
「う?」

「嘘ですよ…?」
「…はァ?」
「嘘ですよって言うんじゃないの…?」
「…嘘じゃないので言いません。小生をなんだと思ってるんですか」
「嘘つき小説家」

 優しさに安堵して軽口を聞けば、拗ねた夢野が私の後ろ髪を強く引き頭皮が突っ張って痛みが生じた。反動で上を向くと、間接照明に照らされた夢野の綺麗な顔が間近にあって、驚く間もなく唇が重なった。

「貴女がどう思ってるかは知りませんけど、案外貴女は気に入られてるんですよ」
「…誰に?」
「貴女の目の前にいる嘘つき小説家に、です。…さ、寝ましょう」

 夢野とセックス無しで眠るのは初めてだった。彼の平常時の体温に包まれて眠るのも、行為中以外にキスをするのも初めてだ。
 彼の夜着から香る甘やかな香りで鼻腔を満たし、髪に触れる彼の呼気を子守唄に、私は久しぶりの安眠を感受することができたのだ。


 朝目が覚めて一番に感じたのは毎月来る下腹部の猛烈な鈍痛で、微睡が吹っ飛び慌てて下半身を確認すると、下着も寝巻きもその下のシーツも真っ赤に染まってしまっていた。焦っているとタイミングよく現れた夢野が血の惨劇を目撃し目を剥いていた。

「なんか安心したら生理きたみたいで…すみません」
「謝罪は結構です。あとで洗濯しますから」
「昨日甘い告白までして貰ったのに、子供出来てなくてそれもすみません」
「下半身血塗れの女に何度も謝罪されても困ります。というか別に妊娠してようとしてまいとそろそろ貴女を手に入れようとは思ってましたから、謝られる筋合いは無いんですよ。それと、朝食が出来たので居間に来てくださいね」

 夢野は笑いながら部屋を出ていく。
 あの男、着替えも何も持ってきていない私に血塗れで食事をしろと言うのだろうか。