プロローグ
白い照明が煌々と照るラウンジにてコーヒーを嗜んでいた。
昼食後に医務室へ戻った所をDr.ロマンに呼び止められ、藤丸立香のカウンセリングを代わって欲しいと頼まれたのだ。何でも、急遽ダ・ヴィンチ女史と話し合わなくてはならない事があるそうだ。
「彼には伝えておくから」と言い残してそそくさと出ていったドクターを見送り、持っている作業もひと段落していたので、集合場所として指定されていた第一ラウンジに予定よりも早く到着して時間を持て余していた。タイムスケジュールを見るにこの時間の彼はシミュレーター訓練中なので、ここに来るまでにはまだ暫くかかるだろう。
普段はある程度の職員が時間帯を問わず利用しているラウンジであるが、今は私以外の利用者はいない。広く寒々しい、不自然な程寂寥とした室内をぐるりと一瞥した後、記録用に持ち出したタブレット端末で過去のカウンセリングの結果を開く。彼のカウンセリングを正式に受け持つのは今回が初めてであるので、前回ドクターと彼が話したであろう内容や治療方針を確認しておくためだ。
バイタルの結果を見るに彼の状態は悪くない。勿論“こんな旅を続けているにしては”だが。
藤丸立香は良くも悪くも平凡な青年である。魔術などからっきしで魔術師の家系ですらない。戦闘経験も皆無だった彼が人類史の命運を背負い、サーヴァントを使役し何度も戦場へ赴くなど、身共に非常に大きな負荷がかかるはずだ。もし同じ年頃の人間が同じ境遇になったとしたら、その責任の重さから精神崩壊を起こしたり自ら死を選ぶ者が出ても何ら不思議ではない。彼よりも遥かに年上である私ですら、同じ境遇に立たされたのなら正気を保ち遂行する自信は無い。魔術とは無縁だった彼がこれ程までに強靭な精神力を持ち、数多くの英霊と縁を結び魔性に魅入られた原因や理由は分からない。全ては偶然や奇跡ではなく彼の中の潜在能力の一つなのだろうか。それともそうせざるを得ないという覚悟が呼び寄せた運命力か。
ぼんやりと思考を巡らせ惰性でコーヒーに手を伸ばす。しかし先程マグを置いた位置に手を伸ばしても指先に持ち手は触れず、その異変に反射で顔を上げた。
そこには爛々と光る目玉が二つ浮いていた。
胸の中が、短く吸った息で満たされる。脳が状況を処理できず心臓が大きく脈打つ。
ややあって、長い睫毛に縁取られた瞼に目玉がぱちりと覆われ、其処でやっとその人物の全容を掴むことが出来た。華奢な身体に黒衣を纏い目の前に佇んでいるのはアビゲイル・ウィリアムズだ。初めて確認されたフォーリナーのクラスのサーヴァント。セイレムにて藤丸立香と縁が結ばれた少女は、機嫌が良さそうに黙ってにこにこと微笑みながら私を覗き込んでいた。その手には私のコーヒーマグが大切そうに包まれている。
「ごめんなさい、居るのに気が付かなくて」
動悸を抑え努めて自然に笑みを交え、失礼の無いよう適切に対応出来た筈だ。普段関わりのない彼女に対する余所余所しさはあれど、その性質の得体の知れなさに対する恐怖心は悟られてはいけない気がしたのだ。
しかし彼女は私の様子など気にも留めず、笑顔のままマグを両手で差し出し一歩此方へ歩み寄る。弾む様な足取りだ。
「いいの、びっくりさせようとして静かに近づいたんですもの。貴女名前さんでしょう?」
「はい、何か御用ですか?」
「あのね、マスターが貴女とのカウンセリングに少し遅れそうなんですって。今の私はメッセンジャーなの」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます」
受け取ったマグとタブレットをテーブルに置き、軽く首を前へ倒して感謝を述べる。これで用の済んだ彼女はこの空間から出ていく筈だったのだが、言伝を終えた後いつまでもその場から動かないでいた。そればかりか一歩、もう一歩と距離を詰め、彼女の爪先が私のブーツの先に当たる距離にまで接近する。逆光を受けた彼女の顔は薄黒く霞み、青色の瞳だけが煌めいている。
「私に気が付く前、マスターの事を考えていたでしょう」
「どうして分かるんですか?」
「難しい、でも優しい顔をしていたもの。此処にいる大人の人はマスターに向かって皆同じ顔をするわ」
「全部背負わせてしまっていますから。まだ藤丸君は守られるべき子供なのに」
「優しいのね。赤の他人を慈しみ、庇護し、愛そうとするのはとても尊い事だわ」
「そんなに高尚なものでは…」
「でもとっても愚か。だから悪い狼に捕まってしまうんだわ。こんなに優しくて愚かしい人、愛おしくない筈がないものね」
鈴を転がす様に軽やかで耳当たりの良い声音は、突如威圧的に嘲りを孕むそれに変化した。それでも卑しいものを侮蔑するのとは違い、行いを諫め反省を促すような物言いだった。彼女がほぼ一方的に進める会話の内容は半分も理解出来ない。
微笑みを見上げぼんやりと話を聞いていると、何か、長くて柔らかいものが足首を掴む感触がした。決して力は強くないが、握って開いてを繰り返し、まるで私の存在を確かめているかの様だ。
それはストッキング越しにも分かるほどひやりとしており、一体何があるのか確認しようと彼女を見上げる視線を逸らすも、白樺のような可憐な手が顎を捕らえて阻止するので、結局影の正体を認める事は出来無かった。
釘付けられた眼球には彼女の恍惚とした表情が焼き付く。細い指が繊細な手つきで顎をなぞり、首筋をなでる。むず痒いとも心地よいとも違う気持ち良さに身を捩れば、艶やかな唇がにっかりと弧を描く。
「大丈夫、もうすぐよ。貴女が完成される日はきっと近いわ」
「アビゲイル、あなたは」
「私は門、貴女は窓。私達の根本は繋がっているの」
大きな瞳は澄み渡る青に赤みが差して紫色に染まっていた。夕焼けの空を思わせるこの色の瞳は遺伝子的に珍しい筈であるのに何故だか見覚えがあった。
遠い大切な記憶を思い出したかの様な懐かしい感覚が胸に広がる。目の前の少女は明らかに異常であるのに、施される行為や声全てに愛おしさを感じ、その存在が恋しくまである。私の瞳を通して何者かが彼女を覗いている、そんな感覚がする。
「怖がらないで」
頬を撫でるエーテルの体。その温もりは心地良く、微睡に似た心地よさに瞼を下した。
再び瞼を持ち上げた時、瞳に写るのは無機質なラウンジではなく暗がりの石室であった。石造りの壁に囲まれた凡そ五メートル四方の室内、その四隅に設えらえた燭台の上で形の崩れた蝋燭がゆらゆらと揺れている。
頬に触れる温もりも彼(か)の少女の物ではない。私の隣に片肘を立てて頭を起こし横になっている男は、日に焼けた無骨で硬い指を使い、感触を確かめるようにさらさらと肌を撫でた。そして起き抜けで朦朧とする私を覗き込み額に唇を落とすと、枕元の小さな机の上から水の入ったカップを取り私に差し出した。何も身に纏わない逞しい肉体は蝋燭の橙に濡れ筋肉の隆起が濃い影を落としている。
「目が覚めたか。何か呟いていたが、夢でも見ていたのか?」
「昔の夢を、少し」
「そうか。随分楽し気だった」
「楽しいかどうかは分かりませんが…比較的穏やかに生活していた時の夢でした」
カルデアの、それも南極のフィニス・カルデアにいた頃の夢を見た。支離滅裂で当時接触した記憶のないアビゲイルとの記憶など様々入り混じった、事実との整合性の取れない、言うなれば夢らしい夢だ。
カップを受け取らずにいれば、男は無言で手を取り下げ机上へ戻す。柔らかいベッドに沈む身体は酷く気怠いが、膣の違和感と腕や腿に残る咬傷を見るに、この怠さが寝起きから起こるものでない事は容易に理解できた。
私はまたこの狼、デイビット・ゼム・ヴォイドに絡めとられていた。
カルデアでの爆発事故が起こるずっと前から、彼は度々私の元を訪れては悪戯に弄び凌辱していた。暴かれた身体は、優秀な魔術師や稀代の魔女でさえ気が付かない程度に徐々に作り替えられ、汎人類が消え失せた今も尚行為は続いている。
Aチームが爆発事故に巻き込まれたと知った当時、人理焼却の危機やコフィン内のマシュ・キリエライト含むAチームのメンバーの容態を心配するよりも先に、デイビットの死を期待する自分がいた。これであの男から逃れられると、心の底から喜びに打ち震えた。
私は初めて犯されたあの夜からずっと、彼に死んでほしかった。
全ての空想樹を切除しこの男が消えるまで、私はカルデアの影に隠れ息を潜めているつもりだった。そもそも、私の様なとるに足らない人間の事など忘れていて欲しかったのに、デイビットは手段を択ばず私を探し出し私の運命を自身の元へ手繰り寄せたのだ。
嬲られる事には慣れてしまったが、懐かしい夢を見たせいか捨てさせられた“憎悪”や“悔恨”の欠片が顔を出す。何故、私がこんな目に遭うのか。何度も思考を巡らせ自問自答しても結局答えの出なかった問いをまた頭に浮かべていると、デイビットは皺の拠ったシーツへ投げ出していた私の左手を徐(おもむろ)に持ち上げ、自身の口元へ運んだ。そしてそのまま口内に含み思い切り歯を立てた。犬歯が骨に当たる固い感触と鋭い痛みに素早く腕を引くも、当然彼の腕力には敵わない。肉を咬んでは離しを繰り返し、時折柔らかい舌が患部を舐る。肌を伝う彼の唾液は灯りに照らされ淫靡に艶めいていた。
「ひッ、」
「カルデアの記憶か、君は存外強情なんだな」
「う…っ、いやっ、」
「また痩せたな。食事はきちんと摂ることだ。体力がなければオレから逃げる事などできないだろう」
行われた暴力とは対照的に滾々と、まるで教戒の様に極めて冷静に忠告をする。吐き捨てた後で解放された指を確認すれば、患部は歯形に窪み皮下で出血していた。
彼は私に「反抗するな」とは言わない。私がこの部屋を出る事も禁じてはいないのだ。それでも私は外へ逃げようとは思わない。
一度だけ脱走を試みた事がある。石室の外、逃げ出した灼熱の密林で虎の様な仮面をつけた現地民を見かけた。助けを求めようにも何故か近代武器で武装しており声を掛けようか躊躇した。虎の仮面は私とは反対の方向へ発砲し何かを叫びながら走り出す。鬱葱と生い茂る木々のせいで良くは見えないが何やら巨大な生物に向けて発砲してる様だった。銃声と悲鳴が暫く鳴り響き、ぴたりと止む。木の陰から頭を出して虎の仮面の姿が無いことを認め生物がいたあたりに近付いてみると、そこは血の海だった。象の様な肌を持つ巨大な生物だった肉片が噎せ返る血の匂いが充満する赤の上に無数に散らばっている。コヤンスカヤに連れてこられてすぐにデイビットが言った 「外に出たら命の保証は出来かねる」という言葉の意味を漸く理解した。あまりの惨状に一歩退くと、背に何かが当たる。
「あれらはオレに友好的ではない。君も外出には気を付ける事だ」
それが誰なのか、振り返らずとも分かった。デイビットの声は無感情そのもので、今起こった事や私が石室を抜け出していた事の一切に興味が無さそうな、冷たい色をしている。腕を掴まれ、元いた建物に向かって歩き出している事に気が付いても手を振り解く事は出来なかった。奇しくも私にとってはデイビットの隣がこの異聞帯の中で一番の安全地帯なのだ。そして彼も私が逃げられる筈がないと分かっているから、逃げる事も抵抗する事も一切咎めない。
指を嚙まれて怯えている私の腹に彼の右手が触れ、怯え切った私の体は大げさにびくりと跳ねた。それを見たデイビットは触れていた掌を僅かに浮かせ眉尻を下げる。
「すまない、怖がらせるつもりは無かった。指は痛むか」
「…いいえ。大丈夫です」
「そうか」
彼は短く返すと私が意識を失う前にしていた様に覆い被さり、何度も口付けをした。唇が触れる度、頬に触れる金糸が擽ったい。食むように啄む柔らかい唇と口腔を執拗になぞる厚い舌に犯されながら薄く瞼を開くと、近付き過ぎて焦点が合わないながらも、瞼に縫い付けられた金の睫毛が震えているのが見える。
美しい、とは思う。造形に秀でた見て呉れをしている。置かれた状況でこの男に愛おしいなどという感情が沸く筈もないのに、私では無い私が彼を酷く気に入っている、そんな錯覚をした。じくじくと痛む指で金色(こんじき)を梳く。彼の身体がひくりと跳ね、惜しむように唇を離す。薄く開いた瞼の隙間から覗くヴァイオレットは熾火(おきび)の如く熱を放ち、私を焦がす。
暫く見下ろした後で何処か虚ろな表情をしたかと思うと、デイビットは溜息をつきまた私の隣に横になった。そして私を抱き寄せ額に口付けを落とすと、ふと瞼を閉じた。
「名残惜しいがそろそろ時間だ。眠ろう」
彼は眠りにつく際、いつも「時間」と宣言をする。それが一体何時を指しているのかは分からないが、共に眠る時は決まってそうするのだ。本当は体液にまみれた身体を洗い流してしまいたかったが、一人で水辺に出る事は出来ないので諦めて瞳を閉じる。膣から生温い液体が漏れる感覚がして気持ちが悪い。
「おやすみ、名前」
「…おやすみなさい」
何処からか吹き込む生暖かい風が蝋燭を吹き消し、石室は瞑々たる闇に包まれた。静かな寝息以外は何も聞こえない筈であるのに、鼓膜の奥で夢に見た少女の笑い声が聞こえた気がした。