幕開



ロンドンに越してきてから二度目の夏の事。
雨が多いこの街は、故郷の夏よりは過ごしやすかったが、その日は年に一度あるか無いかの真夏日で気温が高く、雨が降った後の地面を照らす太陽のせいでヴェールのように纏わりつく湿気た外気が異常に腹立たしかったのを憶えている。
仕事を終え、空調の効いた快適なオフィスを出ると、むっとしたアスファルトの匂いが私を待ち構え、その中に入ってしまってはもう何もする気は起きず、家に帰って酒を煽るため私の足はまっすぐ帰路を辿っていた。
地下鉄駅を出て十分ほど歩いたあたりで降り出した雨に、職場に傘を忘れてきたことに気が付き思わず悪態が漏れる。この辺りに傘を買える店は無いし、かといって家までもうすぐなのかと言えばあと二十分は歩かなくてはならない距離だ。タクシー代を惜しんだ自分にも傘を忘れた自分にも憎悪が湧く。怒りに燃えている間も大粒の雨は私を濡らし、髪の毛の間から頭皮に入り込んだ雨粒が顔にまで垂れてきて泣きたくなった。泣いたってこの雨ならバレはしないが大人げないので泣きはしない。走ろうにも生憎踵の高い靴を履いる為、どうしたって歩くしか無かない。私と同様に機嫌が悪いのか、雨雲はどこまでも続いている。深いため息が漏れた。
雨に晒され出してから、ものの3分程度であるのに頭の天辺から爪先まで濡れてしまい、まさに「濡れ鼠」なった私は、半ば項垂れながら寂しい路上を歩いていた。

「レディ、こんな雨の中傘もささず何をしている?」

ある男が、さしていた黒い傘を私に傾け美しい顔で私を覗き込んでいる。

「朝も降っていただろう。傘はどうした」
「職場に忘れてきちゃった」
「案外抜けているんだな。俺も帰るところだ。送っていこう」

男は、アパートメントの隣人で学生のデイビット・ヴォイドだ。彼はあまり口数が多いタイプでは無かったが、顔を合わせれば挨拶を交わすし、私主催参加者私のみの「作りすぎた和食を処理するパーティ」に誘ってみたら案外すんなり参加してくれたり、逆にシチューを作って持ってきてくれたり、酒を飲んでクダを巻く私の話し相手になってくれたりとほぼ私が迷惑をかける形で交流を深め、アパートメント内では一番仲の良い住人になっていた。

「君が来なかったら泣きながら笑って徘徊してる女がいるって通報されてたかも」
「その顔なら泣いていたって気づかれないだろ」
「酷い。そんなに化粧崩れてる?ウォータプルーフなのに?」
「ほんの冗談だよ」

彼は非常に浮世離れした青年だった。私の国の年頃の男の子はもっと落ち着きがなくて喧しいが、彼は年齢以上に落ち着いていて纏う空気が静かで冷たい。話していると年上の男性を相手にしている気さえしてくる程に、彼は大人びていた。それなのに、時たま優しく笑って見せたり料理が上手かったりと人間味のあるところが愛しく、私は彼を気に入っていた。
止まぬ雨が傘の外をしとどに濡らし、街灯に反射してきらきらと輝いて落ちる。水音が私と彼を外界から隔離して、この世界に二人きりになった様な錯覚を起こす。映画のワンシーンのような夜だ。
しばらく無言で歩みを進め、アパートメントに到着した後、3階に上がる階段に足をかけつつ背の高い彼を見上げて夕食に誘ってみたが、もう済ませたらしく断られた。部屋の前でもう一度お礼と挨拶をしてドアを開けると、おやすみの挨拶とともに少しだけ微笑んだ彼の顔があまりにも綺麗で、慌ててドアを閉め、胸の高鳴りを気のせいにしてシャワーを浴び、簡単に食事を済ませた後でベッドに潜り込んだ。街灯の明かりが入り込む室内は静まり返っていたが、遠くの方で物音や水音が聞こえてくる。このアパートメントは壁が薄いから、隣の部屋の生活音が聞こえてくるのだ。逆も然りと考えれば少し気恥ずかしくなってしまい、早々に瞼を閉じて眠りについた。


「今夜、食事でもどうかな」

雨の翌日。クライアントに提出する資料の手直しに追われ、息抜きに寄った社内のカフェテラスで私に声をかけたのは、同じチームのハロルドだった。彼は配属初日に戸惑っている私に一番はじめに声をかけてくれた同僚で、仕事は早いし問題処理能力やコミニュケーション能力も高く、加えてハンサムという完璧な男性である。そんな彼とは、ランチは何度も共にしたが夕食の誘いは今日が初めてで、顔のいい優秀な男にそう言われるのは正直悪い気はしない。二つ返事でOKした後は上機嫌で仕事を終え、約束通りに彼と共に私の家の最寄り駅近くのレストランで食事をする事にした。
仕事の事やお互いの故郷の話など、お酒の入った私たちは延々と会話を続けた。食事の後でバルに入って、酔った流れで家に呼んでその後は。

玄関ドアを開けた瞬間に、壁に押し付けられて唇を奪われた。勢いが良すぎて壁に掛けていた風景画の額縁が少し浮いてぶつかった音がする。脚の間に割り入った彼の膝に体重を預け、頬を掴み酒くさい呼気を交換する様に唇も舌も合わせて口づけを交わしながら、お互いの衣服を剥ぎ取り、下着姿でベッドへとなだれ込んだ。久しぶりのセックスは、眠れない夜にする自慰なんかよりずっと興奮したし、一人では味わう事ができない他人に肌を粘られる快感が堪らなく心地よかった。
四度もイッて草臥れた私は半ば気絶の如く眠りに落ちた。

真昼の太陽がカーテン越しに照りつけて、室内のこもった暑さと気怠さに目覚めた。
先に起きて帰ったのか、ハロルドの姿は無い。
朝食くらい用意して帰ってもいいのでは無いかと少し不機嫌になりつつもベッドを降りてシャワーを浴びようと、痛む頭を抑えながら浴室へ向かった。脱衣所のドアノブに手をかけた瞬間にふわりと鼻をついた異臭に、身が凍りつく。
この臭いを私は知っている。
意を決して踏み込んだ脱衣所は、噎せ返るほどの強烈な鉄錆と潮の匂いで満ち満ちており、洗濯洗剤の香りと混ざって嗚咽を齎す。いつもの二日酔い朝とは全く違う現状に理解が追いつかない。
そういえば、ずっとシャワーが流れ出る音が聞こえてきていた。浴室は真っ白な内装なのにモザイクガラス越しに見える景色は何故赤みがかって見えるのだろう。
震える手でノブを下ろして開いた扉の内側は、明らかに異常だった。

私は部屋を駆け出して隣人の名を呼びながら扉を叩く。警察を呼べば真っ先に私が疑われる。他に頼れる人が居なかったというのもあるが、第一に彼なら助けてくれると思ったのだ。

「どうした」

寝起きの姿で半狂乱になり泣きながら自分の名前を呼ぶ女を見て、対照的に整った身なりをしたデイビットは少し驚いた顔をしていたがすぐに私の肩を抱いて中へと入れてくれた。譫言のように声を震わせて要領を得ない事を話す私を革張りのソファに座らせて、デイビットはキッチンから水のボトルを二本持って来て私の隣に腰かけた。

「私どうしたらいいの…!?」
「落ち着け」
「バスルームが真っ赤なの!!昨日の夜に泊まった同僚も消えてた!!酔っていたから眠る前の記憶もあんまりなくて…もしかしたら彼がやったのかも…!!」

手が小刻みに震え、手渡されたボトルの水がゆらゆらと波を打つ。視界は涙で曇り、デイビットがどんな顔で私を見ているのかもよく分からず不安は一層増していく。
彼は、酷く怯えた私に顔を寄せ「そうだな」と呟き一考した。

「バスルームが真っ赤になるほどの出血なら、ハロルドが自力で移動することはまず不可能だ。次に、あの血が第三者のものであるのなら同僚の君の家で“それ”をする道理がない。リスクが高すぎるからだ。残るのは、この話にはもう一人の登場人物が居て、そのもう一人が君のバスルームを染め上げた犯人という事になる」
「誰かが家に入ってきたってこと…!?」
「そうだ。そしてその誰かはハロルドや君に対し恨みがあったわけではない。“男”を“君のバスルームで”殺害したのは機が熟したからだ。単に“丁度良かった”んだよ」
「丁度良かった…って何が?」
「状況を整理すれば君にも理解出来るはずだ。もう一人の登場人物は、昨夜裸で眠る君の横を過ぎてシャワーを浴びるハロルドを殺し、目覚めた君が血痕を見つけて自分の部屋に駆け込んでくると見越していた。もっと簡潔に言うなら、君の家で男が殺された。死体はない。そして君が此処にいて、男の名前をオレが知っている。…もう、正体が分かっただろ?」

それは幼子に寝物語を読み聞かせるような、甘やかな夜のしじまを想わせる静謐を孕む声音であった。彼の言葉を何度反芻しても行き着く答えはただひとつしかなく、彼は放心する私の頬に暖かな掌を添え目蓋の淵に溜まる涙を拭って私の頭を胸元に抱き寄せる。

「ジャンもオリバーもルイもウィリアムも、君を悦ばせるのが上手かったようだな」
「ひ、」
「君の甘い声はオレの部屋まで筒抜けだった。彼らの名前を呼びながらだらし無く嬌声を上げていただろう?このアパートメントは壁が薄いから気をつけた方がいい」

彼が挙げた四つの名。それは皆、私の“友人”の名だった。

あの夜、熱に浮かされた私はすっかり忘れていた。「四人の“友人”が消えた事」を。
一番はじめに“友人”が消えた時は、「ヤるだけやって連絡を拒否する不誠実な男」だと、なんとも思わなかった。二番目に消えた男についても「引きが悪かった」程度にしか思わなかった。しかし三番目の男は、「これから向かう」と連絡が来た後に消息が途絶えた。何度連絡しても連絡はつかなかった。四番目の男は新聞に載った。行方不明者として。馬鹿な私もいよいよおかしいと気付き始め、男遊びはそれっきりにしたのだ。何故その四名の名が今此処で隣人の口から出てきたのか、理解が追いつかない。

「3ヶ月の間に4人殺すのは流石に骨が折れた。いや、処理が面倒だったと言うべきか。解体した後で燃やして川に流すのはそう面倒でも無かったが、持ち帰った分の肉の処理には手間取ってしまった。オレは普段料理をしないんだ。だがそれなりに出来ていただろう?美味しかったと感想をくれたしな」
「おいし、かった?ってなに」
「柔らかく口の中で解けるような食感、と喜んでいただろう」

彼の掌は、緩慢な手つきで背を撫でている。耳に寄せられた唇から紡がれる言葉は、今までの身の回りの出来事をパズルのように組み立てていった。

「だって、それじゃ…そんな言い方、まるで貴方が殺したみたい、」

震えて噛み合わない歯を鳴らしながら、厚い胸に手を付き距離をとって表情を窺うと、彼は「おやすみ」を言う時と変わらない美しい笑顔で「正解」と言う。

「よく知らない人間が作った物は食べない方が良い。それが例え人当たりの良い隣人だとしても、男は君を誑かして付け込もうとしている魔術師かもしれないだろう?」

段々と近付く竜胆色の瞳が、優しく細められた瞼の奥で私を見ている。寒さに凍えるかの様に震える唇に彼の薄い唇が重なり、緩やかに離れていく。
彼が殺人犯なのだとすれば、私はすぐにでも駆け出して外に助けを求めるべきだ。それをしないのは、身体が動かないのは、恐怖しているからだろうか。友人が殺され、その肉を食べさせられ、自白を耳にしながら、何故私は此処に留まっているのだろう。

「崩壊する前に手に入れることができて良かったよ。存外、君は素直な性格なんだな」

デイビットはこんなにも笑う男だったのか。
目蓋が重くなり、二度目の口付けを受けながら眼球が上を向く。
暗転。



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