喪失の朝



 現在、私自身が社会的にどういった立ち位置なのかは分からない。職場の人間が2人消えた事を会社がどう受け止めているのか判断がつかないのだ。失踪と受け取れば私は行方不明者であるし、単にバックれたと取られていれば除籍され、社会人失格の無責任な人間として皆の記憶から消えていくのだろう。
現状からして、主観でみれば私は誘拐事件の被害者であり、ハロルドは殺人事件の被害者だ。 二つの事件簿の犯人は、嘗ての隣人であるデイビットゼムヴォイドであり、事件が明るみになれば私は自由になれる筈だが、世の中の動きが全く見えない以上、最善は「何もしない」事だ。

彼の部屋で意識を失い、次に目を覚ました時には既にこの部屋に居た。
冷ややかな空気の中に浮かぶ深い青の壁紙と白で統一された家具たちが、私という新たな住人を見定めている。

「今日からここが君の家だ」

上体だけを起こし辺りを見回していた私に、後方から声がかかり思わず振り返った。振り向かずとも、声の主が誰かは分かっていた。
予想通り、声は私を連れ去った男のものだ。マグを傾けながら手にした書籍に視線を落とすデイビットが真っ白な革張りのソファに腰掛けている。
畏怖の対象でしかない筈の人物であるのに、その顔(かんばせ)は美しく、優美であり絵画の様だとの印象を受けた。

「どうした。趣味に合わなかったか?」

本を閉じ、ゆっくりと立ち上がってこちらへ向かってくる彼は私の隣人ではない。魔術師を自称し6人も殺害した異常者である。
張り倒して罵倒してやりたいし、そうすべきであるのに、彼の姿を一度捉えると憎悪よりも先に愛おしいという感情が湧き上がってくる。
有り得ない事だ。同僚を殺され、その肉を食べさせられているのにも関わらず嫌悪よりも好意を抱くなど、異常だ。

「私も殺すの…?」
「?何故そう思う」
「6人も殺してる人間に誘拐されれば誰だってそう思う」

ベッドに腰を下ろし、私に目線を合わせた彼は、隣人と同じ柔らかい笑みを浮かべて言った。

「死ぬより辛い目に合わせてやる、と言ったらどうする」
「…ッ」
「冗談だ。そろそろ夕食の時間だが、何か希望はあるか?」
「夕食、」

その言葉で気づいた。この部屋には窓がないのだ。正確には窓枠のような額縁がいくつか取り付けられているが硝子の代わりに風景画がはめ込まれていた。

「私、何日此処にいるの」
「一週間は眠っていたな。気にすることはない。君はこの先何もしなくて良いしする必要もない。オレの目の届く範囲で息をして、オレの側で眠っていれば、それだけで命に意味が生じる」

彼の瞳は透き通るアメジストの色をしていて、渦巻く模様が沈んでいる。瞳の奥には私がいて、その表情はどこか嬉しそうでも有り、気味が悪い。自分が自分でない様な気さえしてきて、どうにも頭が可笑しくなりそうだった。

「私に一体何をしたの」
「君が眠っている間は何も」
「魔術師だとか言ってたでしょ」
「言ったな」
「じゃあ食事に薬でも混ぜたの?だから私、可笑しくなってるんじゃないの」
「生憎、薬学には疎いんだ。特に要望がないなら食事の用意をしてこよう。安心するといい。君の友人はもう残っていない」


 あの会話から一月が絶ち、私は彼に飼われ続けている。
 ムスクの香りと真新しいシーツの肌触り、纏う温もりは安寧以外の何物でも無く、私はベッドの中で微睡んでいた。
 ひとつ欠伸をすれば、私を抱き込み未だ寝息を立てる彼は、身じろぎをしたが目を覚ます事はなく、回した腕に軽く力を込めて規則正しく呼吸を続ける。静かに上下する厚い胸板に手が触れ、腹の底が熱くなるのを感じた。

 現状、私は監禁状態にある。
 デイビットは私にいくつかの制約を科した。

一つは「外出を禁ずる」
二つ目は「外部の情報を知ろうとしない事」
三つ目は「過去の話をしない事」

  忘れなければ、他は何をしようと自由であるし生活を保証すると彼は言った。
 実際、彼には一切の危害を加えられていない。欲しいといえば本でも、化粧品でも、茶葉でも全て与えてくれたし、彼の用意する食事はどれも絶品で、外の状況がわからない以外には何一つとして不自由のない生活を送ることが出来ていた。もしかしたら、今までの生活よりも潤っているのかもしれない。
加えて、彼は毎日のように私に甘い言葉をかける。飼い猫を愛でるように愛を囁き、髪を撫で、触れるだけの口づけをして同じベッドで眠りに落ちる。
 これが中年の醜い男であったのなら気持ちが悪くて吐いていたかもしれないが、相手は目を疑うほどの美男なのだ。この生活も案外悪くないのかもしれないと思い始めている辺り、前述した通りに私は狂い始めていた。

「…随分早いな」

 浮き出た喉仏を眺めていると、不意に声が聞こえて視線をあげる。
金の睫毛に縁取られたアメジストが、濡れた表面に私を写して揺れていた。
寝起きの掠れた声がなんとも艶やかで息がつまる。口を半開きにして黙り込んむ私の顔に、彼の整った顔が近づき唇同士が触れ合う。柔らかい感触は、切なくて温かく幸福感を覚えた。

「おはよう」

 デイビットが笑う。私も微笑んでいる。幸せな朝だ。何の変哲も無い、満ち足りた恋人同士だ。
 殺人鬼が笑う。私も微笑んでいる。狂気の朝だ。異常な空間。二つの事象がぶつかり合って、不快な音を立てている。
それを私が実感するのは、もう一度彼の狂気を目にした時だろう。


 これは、私が正気を取り戻し、デイビットゼムヴォイドの元から逃げ延びるまでの戦記なのだ。

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